33節
〔四節において作曲家アーンの生涯について綴られた極めて細かい事実を紹介したが、一八七三年九月十二日には他の作曲家――ベンジャミン・クック(1)、ヨハン・ペプシュ(2)、ウェレスリ・アール(3)の生前の事実や日時についても同じように細かく且つ正確な言及が為された。三人とも私の知らない名前であった。まるで人名辞典のような簡略な記述で内容的にはばかばかしいほどの些細なこともあった。いずれもドクターの署名が記されたが、その中でドクター自身も“実に下らぬ内容である。貴殿の確信のためと思えばこそのことで、それだけがわれらの目的である。地上生活のこまごましたことは今のわれらには興味はない”と述べている。
一八七四年七月十六日。病気で部屋に籠っていたところ右の三人の音楽家に関連した情報がさらに送られてきた。私個人としては何の関わりもないのであるが、私が毎日のように会っていた一人の人物と密接な関連のある内容であった。この度の霊はジョン・ブロウ(4)と言い、“クリストファー・ギボン(5)の教え子で、ウェストミンスター寺院のヘンリー・パーセル(6)の後継者。少年時代からすでに作曲家だった”と書かれた。生没年を質すと一六四八年~一七六八年と書かれた。これなどは表面的には私が異常に過敏な状態でたまたま部屋に引き籠っていたから得られた情報である。
一八七三年十月五日に更にプライベートな証拠がもたらされた。四節において書物からの読み取りが出来る霊として紹介された霊が、古代の年代記から幾つかを抜き書きした。それは凡そのことは私も不案内というわけではなかった。と言うのも、その主題が私の研究範囲に属することだったからであるが、その内容の極端な細かさと正確さは私には付いて行けないものだった。私はこまごまとした事実、とくに年月日を記憶することが苦手な
その観点から見て奇妙に思えるのは、私の手を通して書かれた通信のほとんど全てが顕微鏡的細かさをもち、インペレーターからのものを除いては、視野の広さと多様性に欠けていることである。
同じ頃、中世の錬金術学者ノートン(7)の著書からの二十六行が、それまでのどの通信とも異なる奇妙な古書体で書き出された。その抜粋をのちに
他にも紹介しようと思えば幾つかあるが、以上紹介したものに優る証拠性をもつものではない。相当な量の資料の中から適当に抜き出したものである。
が、もう一つだけ、通信の真実性の証明の仕方に特徴があるので紹介しておこうと思う。事実を提供した霊が自らその証明の方法に言及しているように思える。しかもその情報は出席していた者の誰一人として知らないことであったところにメリットがある。私の記録から引用する。
一八七四年三月二十五日。ある女性がテーブル通信で列席者の誰も知らない氏名と事実を伝えてきた。そこで翌日私の背後霊に事情を尋ねた。〕
あの霊はシャーロット・バックワース(10)と名のっていたが、その通りである。われわれとは特に関わりはないのであるが、たまたまあの場に居あわせ、貴殿にとって証拠になると考えて通信を許した。交霊会の状態はわれわれにとって良くはなかった。われわれの手で改善することも出来なかった。非常に乱れていた。あのような日の後は得てしてそういうものである。貴殿の巻き込まれたあの連中の異質の雰囲気がわれわれの手ではどうしようもない混乱の要素を誘い込んだのである。
――霊媒的能力を持つ四人と一緒になってしまいました。私はいつもあの種の人間から悪い影響を受けるようです。
貴殿はあの種の人間の影響にどれほど過敏であるかをご存知ないようだ。あの時に通信した霊は百年以上も前に地上を去った者で、一七七三年に急死し、何の備えもないまま霊界へきた。ジャーミン通り(11)の友人の家で他界している。そこで娯楽パーティーに出席していた。多分彼女自身からもっと詳しい話が聞けると思うが、われわれにはどうしようもない。
〔ここへ連れて来てほしいと言ったところ、通信霊がそれは自分たちには出来ないと言う。そこで彼女について何か他に知っていることがあるかと尋ねた。〕
ある。実は彼女自身もあの時もう少し述べたかったのであるが、エネルギーが尽きた。死後の長い眠りから覚めてしばらく特殊な仕事に従事し、その間ずっと最近に至るまで地上の雰囲気に近づいていない。雰囲気が調和性のある場所に引かれている。それは彼女の性格に愛らしさがあるからである。他界のしかたは急死であった。娯楽パーティで倒れ、その場で肉体から離れた。
――死因は?
心臓が弱かった。それが激しいダンスで負担を増した。優しく愛らしい性格ではあったが、至って無頓着な娘であった。
――何という人の家で、どこにありましたか。
われわれには判らぬ。彼女自身から告げることになろう。
〔このあと別の話題が綴られたが、彼女に関する話はそれ以上出なかった。同日の午後になって簡単な通信がきた。私は忙しくて寛いだ気分になれないのでペンを手にする気がしなかったが、次のような一節を書かされてしまった。〕
通信そのものもそうであったが、内容の確認が思いがけない形で為された。当初その事実を確認する手掛りはまずないとあきらめていた。そしてその件をすっかり忘れてしまっていた。その後少しして、スピーア博士が古書の好きな知人を自宅に呼び、私を入れた三人で談笑したことがあった。その部屋には滅多に読まれたことのない莫大な数の本が床から天井までぎっしりと書棚に並べられていた。話の途中でスピーア博士の友人――A氏と呼んでおく――が一番上の棚の本を取り出すために椅子を持っていった。そこには「記録年鑑」ばかりが並んでいる。A氏は埃の中から一冊を取り出し、一年一年の貴重な出来事の記録が載っていて、まず載っていないものはないほどだと言った。それを聞いた時、私の頭に例の女性の死について確認する記録があるかも知れないという考えが閃いた。インスピレーションの経験のある人ならよくご存知の、曰く言い難い閃きであった。内的感覚に語りかけられた声のようなものであった。私は一七七三年版の年鑑を探し出し、当時話題になった死亡事故の記録の中に、右の通信にある通りの、ある上流家庭でのパーティで起きたセンセーショナルな女性死亡事件を発見した。その本は厚く埃を被り、五年ほど前にそこに置かれてから一度も動かされていなかった。私の記憶ではその年鑑はきちんと配列されていた。そして一度も手を触れた形跡がなく、A氏の古書趣味がなかったら、われわれの誰一人として取り出して調べてみる考えは起きなかったのではないかと思われる。
このことに関連して一つだけ付け加えておくと、一八七四年三月二十九日に私のノートにあるメッセージが綴られ、最初私にはそれが読めなかった。一度も見たことのない筆跡で、まるで体力の衰えた老人が震えながら書いたような感じであった。署名もされているのであるが、いつもの書記が判読して教えてくれるまでは私には読めなかった。結局それは私の知らないかなり老齢の婦人からのメッセージで、われわれがいつも交霊会を催す家からあまり遠くない所にある家で百歳近い高齢で他界している。姓名も住所も公表できない。理由はご理解いただけると思う。今生きておられる縁故者に許しを乞う立場にないし、その気にもなれない。邸宅の名前と位置、死亡年月日がいずれもメッセージの通りであったとだけ述べておく。メッセージを伝えたそもそもの目的(と思われるの)はその婦人が一八七二年十二月に他界しているという注目すべき事実で、“寿命を全うして、地上生活の疲れを癒して来た”ということであった。
この件にかぎらず、霊の身元の件に関するものは全てインペレーターが指示し、私がしつこく要求した身元の確認――というよりは、死後の個性の存続の証拠を提供するという確固たる意図があったものと信じている。そのいずれも明らかにある計画性をもって運ばれている。私からの勝手な要求が容れられたことは一度もなく、その計画を変更させることは遂に出来なかった。
通信の連続性がこの頃から途切れ、通信らしい通信が来なくなった。時たま思い出したように通信が出ることはあっても、この厖大な量の“霊訓”を一貫して支えてきた強烈なエネルギーは見られなくなった。所期の目的が達成され、その後も通信はあっても間隔が開くようになり、やがて一八七九年頃を境にこの自動書記による通信は事実上終わりを告げ、もっと容易で単純なものに代わってしまった。私が保存してある通信ノートの中から他の貴重な個所を抜き出すのは簡単である。多分これからその作業に取り掛かることになろう。が、取り敢えず以上紹介した通信がそれなりに完結しており、他に類を見ない貴重な体験の標本として、十分にその意義をもつものと思う。
本書を締めくくるに当たり敢えて言わせていただきたいのは、この“霊訓”は人間とは別個の知性の存在を強力に示唆する証拠として提供するものである。その内容は読む人によって拒否されるかも知れないし、受け入れられるかも知れない。しかし、真摯に、そして死に物狂いで真実を求めんとして来た一個の人間のために、人間の脳とは別個の知的存在が
(完)