31節

『生と死――進歩と堕落』

〔一八七六年四月二十八日。本節で紹介する通信は通信霊の身元が強力な証拠によって確認されたケースに関するものである。数多い同類のケースの中でもこれが一段と際立っており、こうしたケースがとかく騙され易く、かつその可能性が十分あり得る点を考慮しても、果たしてこれほど一貫した完璧な一連の証拠が単なる詐称や自己欺瞞といった説で説明がつくであろうかと考えると、まずそれは不可能であるとしか言いようがない。通信は私が生涯親しくしていた友人の気の毒な死に関するものである。ある時ハドソン氏(1)邸での交霊会でその友人の映像が写真に出て、その後ずっと私の身辺にいるのを霊視し、かつ感じ取ってもいた。その写真を撮った時、私は入神していた。撮り終わってから別の霊がその霊の名前を教えてくれて、その像の乾板上の位置まで指摘してくれたが、現像してみるとその通りに写っており、映像は良くなかったが、その会に出席する前から脳裏をかすめていた友人の面影が容易に見て取れた。実はこのケースにはもう一つ特徴的な要素が付随しているのであるが、残念ながら内容上それは公表できない。とにかく映像的にも性格的特徴の点においても、その友人であるとの確認が得られたと述べるに留めさせて頂く。

この写真に関して最初に得た通信は、心霊写真の製造方法についてのものであった。それによると、一人の霊が私の周りで活撥に動いて、複数の霊界の技術者に指示を与えていたという。像の周りの例のおおいのようなものは時間とエネルギーを節約するための処置だということで、頭部は完全に形を整えていたが、他の部分は言わば“スケッチ”ほどのものだという。そうした部分的物質化という機械的な仕事にも、それなりの勉強を積んだ大勢の技術者が携わるという。一人の心霊写真霊媒が撮る写真の映像が全体的にどれも似た傾向があるのはそのためだという。

インペレーターとしては二度と物理的心霊現象には関わりたくなかったし、協力するのはどうしても協力せざるを得ぬ時のみに限って来たので、この度のこともインペレーターの意向にそったものではないとの説明があった。

その友人の霊は生前ずっと私の仲間であり、当日その交霊会に出たのには特殊な理由があった。従って彼の方が他の誰よりも写真に出るのが容易であった。もっとも私は二人の友人を伴い、その二人のための証拠を得ることが目的だったのであって、私個人のためではなかった。

そういうわけで、その友人はM霊の世話でその会に出席し、M霊が技術者を指揮して顔を整え、おおいをスケッチしたというのである。面影は霊質の素材で拵え、実際にポーズを取り、それから撮影した。

こうした通信のあとインペレーターが次のように述べた。〕

これよりそなたの友人のことについて述べる。が、その前に一言申しておくが、われらはそなたが再び物理的現象に関わるのを防がんとして出来得るかぎりのことをした。ようやく落ち着いて来た正常なエネルギーが再びその方面へ駆り立てられるのを望まなかったからである。そこでわれらは、そなたがその気持にさせられる環境に置かれるのを阻止せんとした。以前にも説明したが、われらはそなたがいつまでも物理的段階に留まっているのを不可として交霊会を中止した。友人がそなたに付きまとうのも好ましからぬことと観ていた。彼は霊性が低い。故になるべくなら彼のことを構わずにいて欲しかった。が、一旦こうして関わった以上は、彼を向上の道へ向けて手助けしてやらねばならぬ。M霊はそなたが○○との交際と会話を通じてその友人へ強く思いを寄せたことで、彼の境涯へ引きつけられたと説明していたが、その通りである。霊と霊との間の親和力の法則である。そなたも知っていよう。

――知ってます。ですが親和力は必ずしも法則どおりに働いていないし、むしろ、その通りの結果が現実に見られるのは稀なように見受けられます。で、彼は今幸せではないのですか。

彼がどうして幸せで有り得よう。神が進歩と発展を願いてその魂を宿した聖なる神殿(2)に向かいて冒とく行為(3)を働いたのである。霊的成長の機会を無駄にし、己自身であるところの神の火花の宿る聖殿を思いのかぎり破壊した。そして今、魂に何の用意も出来ておらぬ見知らぬ土地へ、道連れもなしに一人で旅立ったのである。父なる神の前から逃亡したも同然である。その彼がどうして幸せであり得よう。死しては不敬にして不遜、かつ強情であり、生きては無分別にして怠惰、かつ利己的であり、更には寿命を全うせずして他界することによりて、地上的縁故の人々に苦痛と悲しみをもたらした。その彼にどうして心の安らぎが見出せよう。無益に過ごせる生活がその代償を求める。長年にわたりて培われた利己性が今なお彼を支配し、心の落着きを見出せぬようにする。生活そのものが利己的であり、地上で目指せるものが利己的であり、今なお自己中心にしか考えぬ。哀れにして分別を欠き、未熟であり、さような者には、悔恨の情が目覚め精神的再生に至るまで、心の安らぎは得られぬ。今彼はまさしく“宿無し”の身である。

――向上の望みはあるのでしょうか。

有る。望みはある。すでに魂の奥に罪の意識が目覚めつつある。霊的暗闇を通して、朧気ながら地上時代の愚かさと邪悪性が見えつつある。かすかながらも、己の置かれた荒廃せる状態についての知識に目覚め、光を求め始めている。そなたの近くに留まっているのはそのためである。そなたは犠牲を払ってでも彼を救ってやらねばならぬ。

――それは喜んで……ですが、どういう具合に?

まず祈ってあげることである。祈りの力によりて高き世界の曙を招来してあげることである。不幸なる魂に働くことの楽しき雰囲気を味わわせてあげることである。彼の魂は、聖純にして爽快なる雰囲気が如何なるものであるかを知らぬ。そなたにとりては彼の存在は不快かも知れぬが、そなたがそれを教えてやらねばならぬ。そもそもそなたが彼を呼び寄せたのである。そして彼はそなたの誘いに素直に従っている。彼の存在は我慢せねばならぬ。われらの警告と願いを無視してやったことであり、最早や取り返しはつかぬ。せめてもの慰めは、かくすることによりてそなたも神の聖なる仕事に携われるということである。

――私が呼び寄せたと言うのはどうかと思います。でも、私は何でも致します。彼は精神に異常を来していたのであり、責任を問うわけには行かないと思います。

責任は問われるべきであったし、今なお問われて然るべきである。彼自身も今そのことに気づき始めている。彼が自らをあやめた最後の罪業(4)の種子は怠惰な無為の生活の中にすでに蒔かれていた。彼は病的とも言うべき内向的性癖を培い助長していた。自己のみを考察した。それも進歩や発展のためではなく、欠点を反省し、徳を培うためでもなく、利己的排他性の中で行なった。いわば歪められた利己主義の暗闇に包まれていた。それが彼に病をもたらし、挙句には霊界の誘惑者の餌食となり、破滅へと追いやられた。霊界より鵜の目鷹の目で見張る邪霊に身を曝してしまった。その意味において彼はそなたの言う如く狂っていた。が、その狂気の行為も彼のそれまでの所業の結果に他ならぬ。しかも、彼は今その死によって心に傷を負わせた縁故者に同じ邪悪な影響を及ぼしている。己自身への災禍わざわいが今や他の愛する人々ヘの災禍となっているのである。

――本当に恐ろしいことです! 天罰の厳しさを見せつけられる思いです。怠惰で利己的な人生がいかに霊的な病を生むかがよく判ります。利己的な罪悪の根源であるように思えます。

利己主義は魂の病巣であり、そなたが想像する以上に多くの魂がこれに蝕まれている。まさしく魂を麻痺させるものである。その上さらにその利己主義が内向的となれば、いよいよもって致命的となる。利己主義にも極めて毒性の少ないものがある。つまり活動性によってその毒性が中和され、場合によっては善性につながる行為の原動力となることすらある。たとえば他人から褒められたいとの欲求から善行に励む利己主義もある。やかましく言われまい、面倒を起こすまいとの配慮から善行に励み、それで満足する程度の利己主義もある。あくまで余計な気遣いを避けんが為にいかなる指図にも従う。いずれも魂の進歩にとりては障害となるものであり、褒められるべきものではないが、魂を蝕み、破滅と死へ追いやる悪疫とは言えぬ。

彼の場合はいかなる善行も、いかなる活動も伴わぬ卑劣なる利己主義であった。怠惰にして無益、自己満足以外の何ものでもなかった。否、自己満足以上でさえあった。何となれば全生涯が病的な自己詮索によって曇らされ、汚され、その輪郭が侵蝕されていたからである。この種の利己主義は己にとりても縁ある人々にとりても残酷なる影響を及ぼす。罪にも段階がある。彼の罪はとりわけ深かった。これは彼の話であるが、他人事ひとごととしてでなく、そなた自身のこととして聞くがよい。が、暫し休むがよい。その間にわれらがそなたの心より邪気を取り除いておこう。

〔私は大いに動揺した。が、やがて入神に似た深い眠りに落ち、その間に、ある心なごむ光景を見せられ、目を覚ますとすっかり気分が爽快になっていた。〕

いま彼の無益なる人生を事細かく詮索する必要はあるまい。魂が異常なる利己主義によって蝕まれ、その終末は自我意識の破壊であった。そなたのいう意味では確かに狂っていった。が、その狂える精神が支配するかぎり自殺の手を押し止めることは何者にも出来得なかった。平衡感覚を失い、取り巻く誘惑霊の餌食となっていったのである。

が、そなたの罪の評価は幼稚である。あの状態を誘発したのは彼自身なのである。魂そのものが己を敵に売り渡し、破壊するに任せたのである。彼の場合は遺伝的精神病が正しき判断と行為を狂わせたのとは異なる。自殺は利己的怠惰の所産に他ならぬ。理性の力を奪い、自殺という罪へ追いやったのは誘惑の魔手であった。その誘惑は人によりては別の形を取ることもある。が、自己破滅にせよ他人への危害にせよ、その他いかなる形の自己満足にせよ、その根源は同一である。

授かれる才能の使用を怠り、行為の生活を欠き、病と苦痛を自ら想像してそれに没入し、病的快感を覚えるが如き魂は間違いなく病を得る。存在の原理は働くことにある――神のため、同胞のため、そして自己のためにである。一人のためでなく全ての人のためにである。その摂理を犯す時、必ず悪が生ずる。停滞する生活は腐敗し、周囲への腐敗をもたらす。邪悪にして有毒である。同胞の精神をも骨抜きにし、悪徳の中枢たる堕落の素地を築く。悪がいかなる形態を取るかは問題ではない。根源は同じなのである。彼の場合は個人的危害の形をとり、無益なる生涯をご破算にした。悲しみと恥辱の中での終焉であり、縁ある人々の心をも傷つけることになった。

生命の糸(5)が切れた時、彼は暗黒と苦痛の中に自分を見出した。生命の糸が切れても当分肉体から離れることが出来なかった。自ら殺めた魂の宮が墓地へ葬られた後も、そのまわりを漂っていた。無意識のまま、自ら動く力もなく、衰弱し、傷つき、困惑していた。落着く場がない。招かれざる世界には歓迎される場はないのである。一面暗闇に包まれ、その暗闇の中に、彼と同様自ら破滅を招き、寄るべなき孤独の中に閉じ込められし同類の霊が次々と薄ぼんやりとした姿を見せる。彼らが近づくと、半醒半夢の彼の不快さが一段と強化されていく。

その悲劇――本人は悲劇であることを半分も自覚しておらぬが――それを少しでも和らげ魂を癒すための手段が講じられることになったのは、良心の苛責の初めての身震いが天使に届いた時であった。暗闇の中で良心が目を覚ました時、天使はすぐさま近づいてその麻痺せる良心の回復を加速せしめ、悔恨の情を目覚めさせるべく手段を講じた。見た目には残酷に映るかも知れぬが、天使は敢えて彼の置かれた惨めな状態に気づかしめ、その罪の深さを映像として眼前に写し出す手段に出たのである。悔恨の門をくぐり抜けずして、魂の安住の地へは辿り着けぬ。故に苦痛という犠牲を払ってでも良心の回復を加速せねばならぬ。

その努力も暫し効を奏さなかった。が、徐々にではあるが、ある程度まで罪の意識を目覚めさせることに成功し、彼は今や嫌悪さえ覚えるに至ったその悲劇より抜け出る道を手探りで求め始めた。が、しばしば元へ引き戻されたりもした。誘惑霊が周りを取り囲んでそうするのである。が、そうした経緯の中にも彼の罪に対する当然の報いが容赦なく計算されていたのである。霊たちはそれとは気づかぬ。彼らはただその低劣きわまる本能の赴くままに動いているに過ぎぬ。が、その実、彼らも因果律の行使者なのである。

彼が救出される道はただ一つ、何らかの善行への欲求が芽生え、その行為を通じて自らの救済に勤しむことである。そこに辿り着くまでには悔恨と不愉快な労苦の道を旅せねばならぬ。それを措いて他に魂の清められる道はない。利己主義は自己犠牲によりて拭わねばならぬ。怠惰は労苦によりて根絶せねばならぬ。彼の魂は苦難によりて清められねばならぬ。それが向上進歩の唯一の道である。その道は過去の誤れる生活によりて歩行困難、否、ほぼ不可能にされている。が、努力によりてたとえ一歩でも進まねばならぬ。しばしば転倒することであろう。後戻りすることもあろう。が、それによりて、これでもか、これでもかと徹底的に忍耐力を試されるのである。一歩一歩と、悲しみと悔恨と恥辱の中に、時には意気消沈し、時には絶望の底から叫びつつも、その道を歩まねばならぬ。しかも、回りを取り巻く誘惑――向上せんとする魂を挫折させんとする邪霊の囁きと闘いつつ歩まねばならぬ。言うなれば“火の洗礼”を受けつつ進まねばならぬ。これを罰というのである。それが、他のいかなる手段によりても得られぬ、天国への唯一の道なのである。

むろん天使の援助の手は片時たりとも控えられることはない。向上せんとする霊を援助し、挫折しかける霊を元気づけることが、彼らにとりて光栄ある使命なのである。とは言え、たとえ慰めることは出来ても、当人の痛み一つたりとも代わりにあがなうことは出来ぬ。背反の天罰を一たりとも和らげてやるわけには参らぬ。代償として支払うべき余徳などもない。友人といえども重荷を肩代わりすることは出来ぬし、疲れ果てたる肩よりそれを下ろしてやるわけにも行かぬ。衰え行く精力を補い扶助するための補助的援助は与えられても、その重荷はあくまでも罪を犯せる本人が背負わねばならぬ。

これは、無為に過ごせる人生の避け難き天罰である。これによりて半ば消えかかれる火花が再び点火され、魂を導く灯として大きく燃え上がることになるかも知れぬ。あるいはそうした天使の声に耳を貸さず、相も変わらず暗闇と孤独の中をさ迷い、奮い立つ気力も持たず、繰り返される煉獄の苦痛にさいなまれることによりてのみ、魂の毒々しさが浄化されることになるかも知れぬ。そうした罪障消滅に費される期間ときは、永遠の如く感じられるかも知れぬ。あるいは状況が固定化する以前に魂が目覚め奮い立つこともある。そうして必死の努力によりて光明へと近づき、自ら進んで浄化のための苦難を求め、残れる気力を以って地上の悪癖をかなぐり捨て、新たな生命に目覚めることになるかも知れぬ。

それは有り得ることではある。が、そう滅多にあるものではない。性癖はそう簡単に変えられるものではない。浄化の炎も、そう易々と燃え立つものでもない。利己主義、あるいは不徳の中に死を迎えたる者は往々にして死後もなお利己的であり、不道徳であり、死後の環境が地上生活の証でしかない。かすかながらも向上心の芽生えた彼に援助の力の授からんことを祈るがよい。光が暗闇を照らし、迷える魂が天使の働きかけによりて慰められんことを祈るがよい。彼の病にとりてはそうした祈りこそ最良の薬である。

〔右の通信を読んだ時、私はこれでは向上のために努力しようとする者の気勢をぐことになりはしないか――人間にとっては理想が余りに高すぎる、と述べた。〕

否! 否! われらの述べたるところもまだまだ実情の全てではない。また、いささかの誇張も潤色も施しておらぬ。彼の如き無為の生涯が招来する孤独的荒廃と悲劇の境遇の真の恐ろしさは、われらにはとてもその全てを語ることは出来ぬ。そうした生涯の後に魂が抱く悔恨の情が如何に痛烈なるものであるかは、とても言葉では言い尽くせぬ。その後に魂が辿る過程は、いかに立派な理屈をもってしても、われらにも如何ともし難きことである。われらとしては永遠にして不変なる因果律の働きを述べることしか出来ぬ。身に染みた利己主義と犯せる罪悪が完全に焼き清められるまでは、悲惨と悔恨の情から免れることは出来ぬ。われらがそう定めたのではない。永遠にして全知全能なる神の定めた摂理なのである。そなたの身近に証を見ることの出来る法則の働きを指摘したまでである。何時いつのことかも判らぬ死後の遠い遠い先の或る日、全人類が召集され“記録天使”が“審判の書”を提出し、それを手にキリスト神が一人一人に判決を下し、罪人は永遠の火刑に処せられるなどということはない。断じてない。が、行為の一つ一つが確実に魂に刻み込まれ、思念の一つ一つが記録され、全ての性癖が死後の性格の要素として持ち越されるという形での審判はある。そのことを人間が忘れがちであるために指摘したく思ったのである。罪状の評決には参考とすべき手回り品も何も要らぬ。魂そのものの深奥に静かに進行するものであることを教えたく思うのである。審判者は魂自身なのである。魂が己と語り合い、己自身の命運を読み取るのである。参考とすべき書類は道義の記録のみである。地獄とは魂自らが罪悪を焼き尽くさんとする悔恨の炎のことである。

しかもそれは全人類が他界せる遠い遠い先にて一斉に行なわれるのではなく、死と同時に、良心の目覚めと同時に、新たなる生命への再生と同時に始まるのである。気絶状態でもあるまいが、遠き彼方のうっすらとした靄の如き光の中で行なわれるのではなく、確固にして確実、瞬時にして必定なのである。なぜかく申すかと言えば、われらについて世間では、われらの述べる霊訓は宗教から恐怖心を取り除き、人間は動機によりてのみ支配され、いかなる行為を為そうと、いかなる教義を信じようと、全ての者が無条件に救われると説いているかに宣伝されているからである。われらはそのような無分別きわまる教理を説いているのではない。今はそなたもその点を理解していよう。が、そなたもそこに至るまでは繰り返し繰り返し説かねばならなかった。すなわち、人間は自らの将来を自ら築き、自らの性格に自ら押印し、自らの罪悪の報いに自ら苦しみ、自ら救済して行かねばならぬということである。

われらがこうした人生の暗黒面を取り挙げたのは、彼の生涯がまさにその見本のようなものであったからに過ぎぬ。気品と美と天使の支配に満ちた明るき面については、これまで度々言及してきた。神の溢れんばかりの慈悲と愛、その神と人間との間を絶え間なく取りもつ天使の優しき心くばりについては、改めて述べるまでもなかろう。時にはこうした暗き一面――孤独と荒廃、邪霊の誘惑の存在に意識を向けるのも無駄ではあるまい。

理想が高すぎると言うが、そのようなことはない。もしも高すぎるということになれば、高き理想は向上心に燃える魂のみを鼓舞するためにしか役立たぬことになる。確かに向上心なき魂にとりては高すぎるであろう。が、人生が利己主義と罪悪によりて蝕まれておらぬ者、熱誠に燃え、ますます向上せんと心がける魂にとりては決して高すぎることはない。友よ、いかなる者にも逃がれ得ぬ摂理というものがあることを明記するがよい。人生とは旅であり、闘争であり、発展である。その旅は常に上り坂であり、しかも道中はいばらに満ち、難路の連続である。闘争は目的成就まで絶え間なく続く。発展は低次元より高次元への霊的向上であり、地上の幼児的人格よりキリスト的霊格への発達である。この摂理だけは曲げることは出来ぬ。悪との闘争なくしては完全なる善への到達は叶わぬ。己を取り巻く邪悪との葛藤を通して純化されて行くのが永遠の必然性である。神より放たれし火花がその父なる神のもとに帰り、その御胸に安住の地を見出すに至る道なのである。

真の幸福は最高の理想を目指して生きることによりてのみ獲得されることをそなたは今さら説き聞かされることもあるまいと思うが如何? 怠惰なる者、無精者はそれを知らぬこと、邪悪なる者――自ら選び自ら好んで悪事を働く者には縁なきものであることは改めて説くには及ぶまいと思うが如何? 地上の幸福は天上界を目指す魂の中にのみ湧き出ずるものであり、その道程において克服せる危険と困難を振り返ることの中に見出されるものであることも改めて述べるまでもなかろうと思われるが如何? 天使は常にそうした魂を補佐せんとして見守っていること、天使はそれを名誉と心得ていること、そして理想に燃える魂は決して致命的危害は被らぬものであることを改めて説くまでもあるまいと思うが如何? たとえ勝利の宣言が為されても、闘争もなく、利己的かつ恥ずべき安逸の中に得られたものは真の勝利とは言えぬ。勝利は葛藤の末に得られるもの。平和は艱難の後に得られるもの。そして発展は着実なる成長の末に得られるものである。

〔私は当然そうであると思うと答え、人生の準備期においては出来るだけ多くの知識を蓄え、出来るだけ多く仕事をし、その上で叶うかぎりの平和を享受すべきであると思う、と述べた。しかし仕事と知識、とくに神そのものと未来のことについての知識が、平和または安息の前提条件である以上、十分な瞑想の余裕がなくなることになる、と述べた。〕

違う。人生には三つの要素がある。瞑想と祈り、崇拝と讃仰、そして三種の敵(6)との葛藤である。瞑想の生活は自己認識にとりて必須のものである。着実なる成長の重要素である。それには当然祈りが伴う。すなわち肉体に閉じ込められし魂と父なる神及びわれら神の使者との霊的交わりである。次に魂が己を見出し行く無数の局面――神の声なき声に耳を傾ける静かなる孤独、あるいは神の物的表現であるところの大自然との触れ合い、あるいは人間のしつらえたるおごそかな神殿にて神をうやうやしく讃える聖歌の斉唱、さらにまた、言葉に出ず、他人の耳にも届かざる魂の奥底からの止むに止まれぬ向上心――こうしたものを通じて、神によりて植えつけられし讃仰の本能がそのけ口を求めるのである。これは絶え間なき悪との闘争に欠くべからざるものである。われらはそれを過小評価するどころか、その必要性を主張する者である。そなたも今少し安らかな思索の時をもつよう配慮することを勧める。そなたの生活は静寂を欠いている。

――彼の無節操な行為の中には、必ずしも彼の責任に帰すべきでないものもあったことをお認めになるでしょう。

無論である。人間の身体に欠陥のある場合、あるいは調子を狂わせている場合があり、そのためにそこに宿れる魂の意思に反した行為に出ることがある。狂気が脳の病から来ている場合も多い。その場合は魂に責任はない。事故による傷害によって精神に異常を来すこともあり、先天的異常の場合もあり、過度の不幸や懊悩による場合もある。そうした原因に由来する時は誰にも咎められることはない。ましてや公正なる神による咎めは絶対にない。神は霊的動機と意図によりて審判を下すからである。

われらがそなたの友を咎めたのは、あの不幸なる結末が生涯にわたる罪悪の生み出せるものであるからに他ならぬ。それに関しては彼に責任があったし、今もなお責任がある。そして彼も今そのことに気づき始めている。

全能なる神よ、叡智を育み授け給え。

(†インペレーター)

〔注〕

  • (1)

    F.A.Hudson 英国最初の心霊写真霊媒。

  • (2)

    肉体。

  • (3)

    自殺。

  • (4)

    いかなる形での自殺かは述べていない。

  • (5)

    霊的身体と肉体とを結びつけている帯状の紐。

  • (6)

    30節。イースターメッセージ一八七六年参照

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