19節

〔繰り返し反論して来た問題――これまで再三言及して来たもの――が八月三十一日になってようやく本格的な回答を得た。〕

これまでにも言及しながら本格的に扱わずにおいた問題につきて述べたく思う。そなたはわれらの説く教義と宗教的体系とが曖昧で取り止めなく、実体が感じられぬという主張を固持し、それを再三に亙って表明してきた。そなたの主張によればわれらの教説はいたずらに古来の信仰に動揺をもたらし、それに代わる新たなる合理的信仰を持ち合わせぬと言う。その点に関してはこれまでも散発的には述べることはあったが、それらが大衆の中に根づいてくれることを望む宗教を総合的に述べたことはなかった。それをこれより可能なかぎり述べることとする。

まずわれらは全創造物の指揮者であり、審判者であるところの宇宙神――永遠の静寂の中に君臨する全知全能の支配者から説き始めるとしよう。その至高の尊厳の前にわれらは厳粛なる崇敬の念をもってひざまずくものである。その御姿を拝したことはない。また御前おんまえに今すぐ近づこうなどとも思わぬ。至純至高にして完全無欠なる神の聖域に至るまでには、地上界の時で数えて何百万年、何億年、何百億年も必要とすることであろう。それは最早や限りある数字では表わせぬであろう。

しかし、たとえ拝したことはなくとも、われらはその御業みわざを通じて神の奥知れぬ完璧さをますます認識する。その力、その叡智、その優しさ、その愛の偉大さを知るばかりである。それはそなたには叶わぬことであるが、われらは無数の方法にてその存在を認識することを得ている。地上という低き界層には届かぬ無数の形で認識する。哀れにも人間はその神の属性を独断し、愚かにも人間と同じ形体を具えた神を想像しているが、われらはその威力を愛と叡智に満ちた普遍的知性として理解し感得している。われらとの繋がりの中に優しさと愛を感得するのである。

過去を振り返れば、慈悲と思いやりに満ち溢れていることを知る。現在にも愛と優しさに満ちた考慮が払われている。未来は……これはわれらは余計な憶測はせぬ。これまでに身をもって味わえる力と愛の御手に全てを託す。詮索好きな人間が好んでするが如き、己の乏しき知性をもって未来を描き、一歩進むごとに訂正する愚は犯さぬ。神への信頼が余りに実感あふれるものであるが故に、敢えて思案をめぐらす必要を感じぬのである。われらは神の為に生き、神に向かいて生きていく。神の意志を知り、それを実践せんとする。そうすることが、己自身のみならず、全ての創造物に対し、なにがしかの貢献をすることになると信ずるからである。またそうすることが神に対する人間としての当然の敬意を表明する所以ゆえんであり、神が嘉納される唯一の献上物なのである。われらは神を敬愛する。神を崇拝する。神を敬慕する。神に絶対的に従う。が、神の御計画に疑念を挟み、あるいは神秘を覗き見するが如き無礼はせぬ。

次に人間についてであるが、われらは未だその知るところの全てを語ることを許されておらぬ。いたずらに好奇心を満足させることも、あるいは、精神を惑わせることにしかならぬ知識を明かすことも許されておらぬのである。人間の霊性の起源と宿命――いずこより来りいずこへ行くのか――については、いずれその全てを語るべき時期が到来することを信ずるに留めておいて貰いたい。差し当たりては神学が事細かく語り広く受け入れられているところのアダムとイブの堕罪の物語は根拠なき作り話であることを知られたい。恐らくそなたらキリスト者においても、これにまともな思考を巡らせた者ならばそのような伝説に理性がついて行けぬのが正直な事実であろう。差し当たりては人間が物質をまとえる霊魂であることを認識し、支配する神の法則に従いて進歩していくことこそが地上での幸せと死後の向上を導くことを理解すべく努力することである。遙か遠く高き世界のこと――洗練され浄化され尽くせる霊のみが入ることを許される天界のことは、ひとまず脇へ置くがよい。その秘奥は限りある人間の目には見ることを得ぬ。天界への門扉は聖なる神霊にのみ開かれる。そして、いつの日か十分なる試練と進化の暁に、そなたもその列に加えられる日もきっと来ることを信ずればそれでよい。

それよりも今のそなたには、地上における人間としての義務と仕事について語ることの方が重要であろう。人間はそなたも知る如く一時期を肉体に宿れる“霊魂”なのである。霊体を具えた霊魂であり、その霊体は肉体の死後もなお生き続ける。そのことにつきては聖書でも述べられている。仔細の点には誤りも見られるが、一応正しいと見てよかろう。この霊体を地上という試練の場において発達させ、死後の生活に備えねばならぬ。死後の生活は、そなたの知性の届く限りにおいて、無限である。もっとも、そなたには無限の真の意味は理解できまい。差し当たりてそなたの存在が永続すること、そして肉体の死後にも知性が存続することを述べるに留めておこう。

その存在は、わずかな期間を地上の肉体に宿りて生活するに過ぎぬとは言え、意識を有する責任ある存在であり、果たすべき責任と義務があり、各種の才能を持ち、進歩もすれば退歩もする可能性を有するものと見なしている。肉体に宿るとはいえ、善と悪とを判断する道義心――往々にして粗末であり未熟ではあるが――を先天的に有する。各自その発達に要するさまざまな機会と段階的試練と鍛練の場を与えられ、かつ又、要請があり次第与えられる援助の手段も用意されている。こうした事実についてはすでに述べた。こののちにも更に述べることもあろうが、取り敢えず地上という試練の場における人間の義務について述べたく思う。

人間は責任ある霊的存在として、自己と同胞と神に対する義務を有する。その昔、そなたらの先師たちはその時代の知識の及ぶかぎり、そして表現し得る能力の限りにおいて、霊的生活に適切なる道徳的規範を説いた。しかし彼らの知識の及ばぬところ、そしてまた彼らの伝え得ぬところにも、まだまだ広く深き真理の領域が存在する。霊が霊に及ぼす影響についても、今ようやく人間によりて理解され始めたところである。が、その事実により、人間の進化向上を促進せんとする勢力とこれを妨害せんとする勢力とが存在することを窺い知ることが出来るであろう。このことについては、こののち更に述べる機会もあろう。それはさておき、霊的存在としての人間の最高の義務は向上進化の一語――己に関する知識を始めとして霊的生長を促すあらゆる体験を積むことに要約されよう。次に、精神と知能を有する知的存在として考えた時の義務は教養の一語に要約されよう。一つの枠にかぎられぬ幅広き教養を積むことである。地上生活のためのみならず、死後にも役立つ永遠性を有する能力の開発のための教養活動である。そして肉体に宿れる一個の霊としての己に対する義務は、思念と言葉と行為における純粋の一語に要約されよう。以上の進歩と教養と純粋の三つの言葉の中に、霊的存在として、知的存在として、そしてまた肉体的存在としての人間の己に対するおよその義務が要約されていよう。

最後に、人間と神との関係について申せば、それは最も低き界層の者といえども“無始無終の光の泉”、“万物の創作者”であり“父”であるところの神に近づけるものであらねばならぬ。神を目の前にせる時の人間として相応しき態度は聖書において“天使もその翼もて顔を被う”と表現されているが、まさにその通りである。それは人間の霊に最も相応しき畏敬と崇拝の念を象徴しているのである。うやまおそれるのである。奴隷的恐怖心ではない。あがおがむのであって、屈従的恐怖に身をすくめるのではない。神と人とを隔てる計り知れぬ距離と、その間を取りもつ天使の存在を意識し、人間はかりそめにも神の御前にすぐにはべることを求めてはならぬ。ましてや天使にしてなお知ることを得ぬ深き神秘を覗き込まんとする倣慢なる態度は控えねばならぬ。畏敬と崇拝と愛、これこそ神とのつながりにおいて人間の霊を美しく飾る特性である。

大略ではあるが、以上が自己と同胞と神に対する人間の義務である。枝葉の点については追って付け加えることになろうが、以上の中に人間が知識を広め、よき住民となり、全ての階層の人間の手本となるべき資質が述べられている。この通信、並びにこれまでの通信の中にパリサイ派の学者が重んじたところの儀式的ないし形式的義務についての叙述が見られぬのは、それはわれらがその必要性を認めぬからである。人間が物的存在である以上、物的行為も当然大切である。われらがその点について詳しく言及せぬのは、その重要性について敢えてわれらが述べずとも事足りていると観たからである。われらの中心的関心は霊性にある。全てを生み出すところの霊性である。その霊性さえ正しく発揮されれば、物的行為も自ずと正しく行なわれるものである。われらはこれまでそなたを一貫した原則のもとに扱って来た。それはそなたの関心を真の自己であるところの霊に向けさせ、全ての行為をその内的自我の発現として捉えさせることである。その霊性が地上を去ったのちの霊的生活の全てを決定づけるからである。そこに真の叡智が存する。全てを動かす霊、千変万化の大自然と人類の移り行く姿の底流に存在する生命の実相を知った時、そなたは真の叡智に動かされていると言えよう。現時点においてわれらがそなたに示し得る義務は以上の如きものであるが、次に、その義務を果たせる時とおこたれる時にもたらされる結果について述べねばならぬ。

自己の能力の限りにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして生き甲斐と向上とが得られる。われらが敢えて向上を強調するのは、人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すとの不変の真理を見失いがちだからである。これで佳しとの満足は真の魂にとっては後ろ向きの消極的幸福でしかない。魂は過ぎ去りしものの中に腰を下ろすことは許されぬ。過去はせいぜい未来の向上の刺激剤として振り返る価値しかない。過去を振り向く態度は満足の表われであり、未来へ向う態度は一層の向上を求める希望と期待の顕われである。満足感に浸り、それにて目的を成就したかに思うのは一種の妄想であり、そのとき魂は退歩の危機にある。霊的存在としての正しき姿勢は常により高き目標に向いて努力し続けることである。その絶え間なき向上の中にこそ真の幸せを見出す。これで終わりという時は来ぬ。決して来ぬ。絶対に来ぬ。

このことはそなたらが人生と呼ぶところの地上の一時期のみに限らぬ。生命の全存在に関しても言えることである。さよう。肉体に宿りて行なえる行為は肉体を棄てたのちの霊界の生活にも関わりを有する。その因果関係はそなたらが死と呼ぶところの境界には縛られぬ。それのみではない。霊界にて落ち着くところの最初の境涯は、地上の行為のもたらす結果によりて定まるのである。怠惰と不純の生活に浸りし霊は当然の成り行きとして、霊界にてそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになる。犯せる罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、一歩また一歩と高き境涯へと向上していく。これが神の法を犯せる者に与えられる罰である。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではない。意識的生活の中に犯せる違反が招来する不可避の悔恨と自責の念の懲罰である。これは懲らしめのムチと言えよう。が、それは復讐に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではない。愛の神がわが子にその過ちを悟らせんとして用意せる因果律の働きなのである。

同様に、善行の報いは天国における永遠の休息などという感覚的安逸ではない。神の玉座のまわりにて讃美歌三昧に耽ることでもない。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によりて安易に得られる退屈きわまる白日夢の如き無為の生活でもない。義務を果たせる満足感、向上せる喜び、さらに向上する可能性を得たとの確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持し得たとの自信。こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に始めて味わえるものである。休息の喜びは働かずしては味わえぬ如く、食事の味は空腹なる者にしか味わえぬ如く、一杯の水の有難さは渇ける者にしか味わえぬ如く、そして我が家を目の前にせる時の胸のたかまりは久しく家を離れし者にして始めて味わえる如く、善の報酬は生活に刻苦し、人生のほこりにまみれ、真理に飢え、愛に渇ける者にして始めて真の味を賞美できるものである。怠惰なる感覚的満足はわれらの望むところではない。あくまでも全身全霊を込めて努力せるのちに漸く得られる心の満足であり、しかもそれは、すぐまた始まる次の向上進化へ向けての刺激剤でしかないのである。

以上に見られる如く、われらは人間を数々の果たすべき義務と数かぎりなき闘争の中を生き抜く一個の知的存在としてのみ扱ってきた。別の要素として人間には背後霊による援助があり、数々の霊的影響の問題もあるが、ここでその問題を取り挙げる必要性を認めぬ。取り敢えずそなたの視野に映りそなた自ら検討し得る範囲内の事柄に限って述べてきた。また、われらとしては罪なき神の御子、というよりは神との共同責任者としてのイエスに己の足らざるところを全て償わせるが如き、都合よき言説は説かぬ。一度の信仰告白によりて魔法の如く罪を消すと説く、かの贖罪説も説かぬ。卑しき邪悪なる魂も死の床にて懴悔すればイエスがその罪の全てを背負うことによりて立ちどころにして“選ばれし者”の仲間に列せられ、神の国へ召されるなどという説は到底認めるわけにはいかぬ。われらは、そのような卑屈にして愚劣なる想像の産物に類することは一切述べたことはない。援助はある。常に手近にあり、いつでも活用できる強力なる霊力が控えている。しかし、放蕩と貪慾と罪悪のかぎりを尽くし、物的満足を一滴残らず味わい尽くせる人間が、その最期の一瞬に聖者の一人として神の聖域に列せられんが為に自由に引き出せる、そのような都合よき徳の貯えなどはどこにも存在せぬ。臆病者が死を恐れ、良心の呵責が呼び起こす死後の苦しみにおびえる余りにすがらんとする身代わりの犠牲など、どこにも存在せぬ。そのような卑劣なる目的のためには神の使者は訪れぬ。そのような者に慰めを与えに参る霊などおらぬ。万が一にも己の罪に気づき、後悔することがあれば、神の使者はその罪の重さに苦しむに任せるであろう。神の愛のムチを当てられるままに放置することであろう。何となれば、その苦しみを味わってこそ魂が目覚めるからである。然るに神学者はそのような者のために神は御子を遣わし、そして全ての罪を背負いて非業の死を遂げさせたのであると説く。それをもって最高の情けある処置であるとし、神の慈悲の最高の表現であると説く。

そのような作り話はわれらの知識の中には存在せぬ。徳の貯えは自分自ら一つ一つ刻苦勉励の中に積み重ねたるもの以外には存在せぬ。至福の境涯に到る道はかつて聖者たちが辿れる苦難の道と同じ道以外にはない。一瞬にして罪深き人間を聖者に変え、したたかなる無頼漢、卑しむべき好色家、野獣にも比すべき物欲家に霊性を賦与し、洗練し、神の祝福を受けさせ、そなたらの言う天国に相応しき霊となす魔法の呪文など、われらは知らぬ。そのような冒涜的想像の産物はおよそわれらとは縁はない。

人間は一方においてそのような無知にして到底有り得ぬ空想をでっち上げながら、他方、彼らを取り巻く折角の霊的援助と加護には全く気づかずにいる。われらは人間自ら果たすべきことを人間に代わって果たす力は持ち合わせぬ。が、援助は出来る。慰めることは出来る。心の支えとなることは出来る。われらは神より命を受け、地上を含む数界の霊的教化に当たっている。時として余りにあくどく、余りに物質にかぶれ過ぎてわれらの霊力に感応せず、霊的なるものを求めようとせぬ霊に手こずり、あるいは愚弄されることもあるが、霊的援助の手は常に用意されており、真摯なる祈りは必ずやそれを引き寄せ、不断の交わりによりて結びつきを強化することが可能なのである。

ああ、何たる無知! 至聖、至純、至善なる霊が常に援助の手を差し延べんと待機しているものを、祈ることを疎かにするが故に、その霊との交わりを得ることが出来ぬのである。魂を神に近づける崇拝、そして天使を動かす祈り――この二つはいつでも実行可能な行為である。それを人間は疎かにし、来世への希望を身勝手なる信仰、教義、宣誓、身代わり等々、事実とは程遠きいわれなき作り話に託している。

われらはそうした個々の信仰は意に介さぬ。何となれば、それは知識の広がりとともに、早晩改められていくものだからである。狂気の如き熱意をもって生涯守り抜いた教義も、肉体より解放されれば一言の不平を言う間もなくあっさりと打ち棄てられる。生涯抱き続けた天国への夢想も、霊界の光輝に圧倒されて雲散する。いかに誠意を込めて信じ、謙虚にそれを告白しようと、われらは信条にはさしてこだわらぬ。それよりもわれらは行為を重要視する。何を信じたるやは問わぬ。何を為せるやを問う。なぜなら人間の性格は行為と習性と気質によって形成され、それが霊性を決定づけていくものと理解するからである。そうした性格も長き苦難の過程を経てようやく改められるものであり、それ故にわれらは言葉より行いに、口先の告白よりも普段の業績に目を向けるのである。

われらの説く宗教は行為と習性の宗教であり、言葉と気まぐれなる信仰の宗教ではない。身体の宗教でもあり魂の宗教でもある。打算なき進歩性に富む真実の宗教である。その教えに終局というものはない。信奉者は数知れぬ年月をかけてひたすらに向上し、地上の垢を落とし、霊性を磨き、やがて磨き尽くされたる霊――苦しみと闘争と経験によりて磨き上げられたる霊――が、その純真無垢の姿にて神の足もとにひざまずく。この宗教には怠惰も安逸も見出せぬ。霊の教育の基調は真摯と熱意である。そこに己の行為のもたらす結果からの逃避は見出せぬであろう。不可能なのである。罪科はそれ自らの中に罰を含むものだからである。また己の罪を背負わせる都合よき身代わりも見出せぬであろう。自らの背に負い、その重圧に自ら苦悶せねばならぬからである。さらにまた、われらの宗教には、これさえ信ずれば堕落せる生活をごまかし、これさえ信ずれば魂の汚れを被い隠せるなどという卑怯な期待をもたせて動物的貪慾と利己主義を煽るが如き要素も、いずこにも見出せぬであろう。われらが説く教義はあくまでも行為と習性であり、口先のみの教義や信条ではない。そのような気紛れなる隠蔽物は死と共に一気に剥ぎ取られ、汚れた生活が白日のもとに曝され、魂はそのみすぼらしき姿を衆目に曝す。またわれらの宗教には、そのうち神は情けを垂れ全ての罪に恩赦を下さるであろうなどという、ケチくさきお情けを求める余地などさらさら見出せぬであろう。そのような人間的想像は真理の光の前にあっけなく存在を失う。神の情けは、それを受けるに相応しき者のみが受ける。言い換えるならば、悔恨と償い、浄化と誠心誠意、真理と進化がおのずとその報酬をもたらすことであろう。そこにはもはや情けも哀れみも必要とせぬであろう。

以上がわれらの説く霊と肉体の宗教である。神の真理の宗教である。そして人類がそれを理解する日もようやく近づきつつある。

(†インペレーター)

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