20節

〔この時点でいろんな霊から通信が来た。彼らが言うには、その目的は死後存続の確証を積み重ねて私の心に確信を植えつけるためであった。その中の一人に著名人で生前私も親しくしていた人がいたので、その事実を身内の人に知らせても良いかと尋ねた。すると――

それは無駄であり賢明でもない。身内の者は交霊の事実を知らぬし、われらが知らしめんとしても不可能であろう。たとえそなたがその話をしたところで、気狂いのたわごとと思われるのが関の山であろう。とにかく今は身内の者に近づくことは出来ぬであろう。これは、後に残せる地上の肉親と何とか連絡したいと思う他界したばかりの霊が味わう試練の一つなのである。大体において他界してすぐは身内の者に近づくことは出来ぬ。何とかして思いを通じさせねばとあがく、その激しい念が障害となるのである。自分からのメッセージが何よりも証拠としての効き目があり、且つ望ましかろうと思い過ごし、その強き念波が肉親の悲しみの情と重なり合い、突き破らんとしても破れぬ強い障壁を拵えるのである。霊側の思いが薄れ、地上の者がその不幸の悲しみの情を忘れた時に初めて、霊は地上へ近づくことが可能となる。このことについては、このあと改めて述べることもあろう。

さてそなたの知人はそういう次第で、今は血縁関係の者との連絡を断たれている。受け入れる用意なき者に押しつけんとしても有害無益である。これはわれらにも如何ともし難き不変の摂理の一つなのである。われらは理解力なき者に霊的知識を押しつけるわけには参らぬ。哲人にしてなお驚嘆の念をもって眺める大自然の神秘を三歳の童子に説いてみたところで無意味であろう。それは実に無益というものである。もっとも童子に“害”はないかも知れぬ。が、不用意に押しつけることによりて本来の目的達成を阻害し、真理を授かるべき者が授からずに終わることにもなりかねぬ。賢明なる者はそのような愚は犯さぬ。受け入れ態勢の有無を考慮せずに、ただ霊的真理を送り届けさえすれば地上天国を招来できると期待するのは誤りである。それでは試練の場としての地上の意義は失われ、霊力を試さんと欲する者の、ただの実験場と化し、法も秩序も失われるであろう。そのような法の逆転は許されぬ。そう心得るがよい。

〔ほぼ同じ時期のことであるが、人間的手段を一切使わない、いわゆる直接書記によって書かれた氏名の綴りが間違っていたことから、例の身元確認に関する私の迷いが一段と強くなった。この場合霊媒に責任がないことは明らかである。そこで私は自分の氏名もロクに綴れないような霊を信じるわけにはいかないと強く抗議した。するとインペレーターが答えた――

いま身元確認の問題について議論しようとは思わぬが、そなたが言及する事柄は容易に説明のつくところである。あの霊の身元については余が保証し、そなたも少なくとも余の言葉を信じてくれた。綴りの誤りはあの霊自身ではなく、筆記せる霊が犯せるものである。そなたらが直接書記と呼ぶところの現象は今回はそなたのたっての要請に従って行なったが、あのような特殊なものが演出できる者は数多くはおらぬ。そして実際に筆記するのはそれに慣れた霊であり、通信を望む霊のいわば代書の如き役をするのが通例である。これには多くの場合数人の霊が携わる。今回の軽率な誤りに関しては交霊会の最中に訂正したが、そなたはそれに気づかなかったと見える。誤謬や矛盾についてはムキにならず、じっくりと調べるがよい。多くは今回の如く容易に説明のつくものばかりであることが判るであろう。

〔私の精神状態の乱れのせいで交霊会の調子まで乱れてきた。現象の現われ方がおかしく、時に乱暴になったり不規則になったりした。霊側からは“楽器の調子がおかしければ、それから出る音も調子はずれできしむのだ”と言ってきた。が、交霊会を催すと気が休まることがあった。しかし反対に神経が緊張の極に達することもあり、その時の苦痛は並大抵のものではなかった。九月三十日に次のような通信が来た。〕

神経を休ませなごませることが可能な時もあるが、神経の一本一本が震えるほど神経組織全体が過労ぎみで緊張の極にある時は、それも叶わぬ。われらとしては殆ど手の施しようもなく、せめてそうした精神状態が呼び寄せる低級霊に憑依される危険からそなたを守るのが精一杯である。そのような状態の時はわれらの世界との交信は求めぬよう忠告する。数々の理由により、これ以後は特に注意されたい。そなたはこれより急速に進歩し、それがあらゆる種類の霊的影響を受け易くする。多くの低級霊が近づき、交霊会を開かせては仲間入りを企む。悪自体は恐るに足らぬが、それによる混乱は避けられぬ。高度に発達せる霊媒は指導に当たる霊団以外の霊に邪魔される危険性のある会は避ける用心が肝要である。交霊会には危険はつきものであるが、今のそなたの精神状態では二重の危険性に身を曝すことになる。催す時は忍耐強く且つ受身の精神で臨んでもらいたい。そうすればそなたの望む証拠も得やすいであろう。

〔私は、たとえそう望んだところで所詮は自分自身の判断力で判断するほかはないではないかと答えた。さらに私は疑問を解くカギになると思える事柄を二、三指摘した。私の目には、地上で名声をうたわれた著名人からの通信、しかも私を混乱させるだけだった通信よりも、そのほうが決定的な重要性をもっているように思えたのである。どう考えても世界的な大人物が私ごとき一介の人間のために人を惑わせるような些細なメッセージを伝えにやって来るとは思えなかった。私はむしろ最近他界したばかりで生前私たちのサークルの熱心なメンバーだった知人の身元を明かす何か良い証拠を数多く出してくれるよう要求した。それが身元証明の問題を解決する決定的なチャンスになるように思えたのである。さらに私はスピリチュアリズム思想の拠って来る源泉と規模と問題点、とくに霊の身元の問題について明快にして総合的な説明を切望した。私はこれまでの言説を全て真正なものと認めた上で、そうなるとこんどは、それを嘲笑の的とする反対派の批判に応えるための証拠を完璧で間違いのないものにしてくれないと困る、と述べた。その段階での私には、いくつかの心霊現象とそれを操る知的存在がいるといった程度のこと以外には証言らしい証言は何一つ見当たらなかったのである。それでは話にならない。いくら好意的心情になろうと努力しても、拭い切れずにいる疑問が一掃されないかぎり、それ以上先へ進めなかった。こうした私の言い分に対して十月一日に次のような通信が来た――

大神の御恵みの多からんことを。そなたが提出せる問題についてわれらがその全てに対応せず、また議論しようともせぬのは、今のそなたの精神状態では満足のいく完璧なる証拠を持ち出すことは不可能であるからに過ぎぬ。もっとも、多くの点においてそなたが率直かつ汚れなき真情を吐露してくれたことには感謝の意を表したい。が、それでもなおかつそなたの心の奥底に、われらの言説に対する不信と、われらの素性に対する信頼の欠如が潜んでいることを認めぬわけには参らぬ。これは、われらにとりて大いなる苦痛であり、また不当であるように感じられる。疑うこと自体、決して罪ではない。ある言説を知的に受け入れられぬことは決して咎めらるべきことではない。が、出された証拠を公正に吟味することを拒絶し、想像と独善主義の産物に過ぎぬ勝手な判断基準に照らさんとする態度は悲しむべき結果に終わるであろうし、そこにわれらの不満の根源がある。そなたの疑念にはわれらも敬意を払う。そしてそれが取り除かれた時はそなたと共に喜ぶであろう。が、それを取り除かんとするわれらの努力を無駄に終わらせる態度は、われらとしても咎めずにはおれぬところであり、非難するところである。その態度はそなたを氷の如き障壁の中に閉じ込め、われらの接近を阻む。またそれは率直にして進歩的な魂を孤立と退歩へと堕落させ、地上の地獄とも言うべき暗黒地帯へと引きずり込む。そうした依怙地えこじな心の姿勢は邪霊による破壊的影響の所為であり、放置すれば魂の進化を永久に阻害することにもなりかねぬ。

われらはそなたからそのような態度で臨まれるのはご免蒙る。そなたとの霊的交わりを求めんとするわれらの努力がことごとく警戒心と猜疑心とによって監視されては堪らぬ。そなたは何かと言えばユダヤ時代の世相と少数の神の寵愛者を念頭に置き、その視点より現在を観んとする傾向があるが、当時のユダヤ人がイエスに神のしるしを求めた時にイエス自身の口から出た言葉がわれらの言い分と同じであったことをここに指摘しておきたい。イエスがついに自分の言葉以外のしるしは与えなかったことはそなたも知っていよう。なぜか、何の目的あってのことか、それは今は詮索すまい。不可能だったのかも知れぬ。不必要と観たのかも知れぬ。精神的土壤がそれを受け入れぬ状態にあったのかも知れぬ。今のそなたがまさにそれと同じ状態である。議論を強要する時のその荒れた気性そのものが、われらの適切なる返答を阻んでしまうのである。イエスの場合も多分それと同じ事情があったのであろう。そなたの注意を喚起しておきたいのは、イエスが慰めの言葉でもって答え、あるいは奇跡の霊力をもって応えたのは、議論を挑んだパリサイ派の学者でもなく、サドカイ派の学者でもなく、己の知識に溺れた賢人でもなく、謙虚にして従順なる心貧しき人々、真理一つ拾うにもおどおどとしてその恵みに浸る勇気もなく、それがいずこよりいかなる状態にてもたらされるものであるかも詮索せぬ、忠実にして真っ正直な人たちであった。イエスのその態度は生涯変わることがなかった。その態度はまさに父なる神が人間に対するのと同じであった。神の真の恩寵に浴するのは、己の我儘を押しつけ、それがすぐにでも満たされぬと不平をかこつ高慢不遜の独善者ではなく、苦しみの淵にあってなお“父よ、どうか私の望みよりあなたの御意みこころのままに為さらんことを(1)”と祈る、謙虚にして疑うことを知らぬ敬虔なる平凡人である。

これが神の御業みわざの全てを支配する摂理である。それを具体的にキリスト教界に観ることは今は控える。ただそなたに指摘しておきたいことは、そなたのかたくなな心の姿勢、こうと決めたら一歩も退こうとせぬ独善的議論の態度はそなたにとりて何の益にもならぬということである。われらも不本意ながらもその姿勢を譴責けんせきせねばならぬ。過ぎし方を振り返ってみるがよい。われらとの関わり合いの中に体験せる諸々の出来ごとを思い返してみるがよい。そなたの生活全体に行き渡れる背後霊の配慮についてそなたは何一つ知らぬ。そなたの心に向上心をはぐくませるための配慮、よこしまな影響より守り通さんがための配慮、悪霊の排除、難事に際しての導き、向上の道への手引き、真理についての無知と誤解より救わんとした配慮――こうした目に見えざる配慮についてそなたは何一つ知らぬ。しかし、その努力の証は決して秘密にして来たわけではない。このところそなたのもとを離れたことは一日とてない。われらの言葉、われらの働きかけはそなたの知るところである。ことに通信は間断なく送り届け、それがそなたの手もとに残っている。その言説の中に一語たりともそなたを欺いた言葉があったであろうか。われらの態度に卑劣なるもの、利己的なるもの、あるいは不親切に思えるものがあったであろうか。われらにとりて不名誉なことをしでかしたであろうか。そなたに対し侮辱的言葉、愚かしき言葉を述べたことがあったであろうか。卑劣なる策略、浅ましき動機によりてそなたを動かしたことがあったであろうか。向上の道より引きずり下ろすが如き行為をしたであろうか。要するに、われらがもたらせる成果より判断して、果たしてわれらの影響は善を志向せるものだったであろうか、悪を志向せるものだったであろうか。神を志向していたであろうか、その逆を志向していたであろうか。そなた自身はそれによりて改善されたと思えるであろうか、それとも改悪されたと思えるであろうか。より無知になったように思えるであろうか、無知より救われたように思えるであろうか。少しでもましな人間になったと思うであろうか、つまらぬ人間になり下がったと思えるであろうか。少しでも幸せになったと思えるであろうか、それとも幸せを感じられなくなったであろうか。

われらの存在そのものにつきて、われらの行為につきて、あるいはわれらの教説につきて、誰れが何と言おうと、筋の通れるものであればわれらは少しも苦にせぬ。聞く耳をもつ者すベてにわれらは公然と主張する――われらの教説は神の教えであり、われらの使命は神より命じられた神聖なるものである、と。

われらは、イエスがそうであり自らもそう述べている如く、公言せる教説については必ずその証となるべきしるしを提供してきた。当然納得して然るべき一連の証拠を提供した。これ以上付け加えようにももはや困難なところまで来ている。霊力の証を求めるそなたの要求に対しては決して労を惜しむことなく応じてきた。それどころか、より一層顕著なる現象を求める同志の要求を満たさんとしてそなたの健康を損ねることまで行なった。いかなる要求も、それが可能でありさえすれば、そしてわれらのより広き視野より判断して望ましきものと観たものは、すべて喜んで応じてきた。確かに要求を拒否して来たものもある。が、それはそなたが無理な要求をした場合、ないしはそうすることがそなたにとりて害になることを知らずに要求した場合に限られる。そなたとは視点が異なることを忘れてはならぬ。われらはそなたより遙かに高き視点より眺め、しかもそなたより遙かに鋭き洞察力をもって眺めている。故に、人間の無知と愚かさより出た要求は拒否せざるを得ぬことがしばしばある。が、しかし、そうした正当な理由によりてわれらが拒否して来たものは、要求に応じて提供せる証拠に比べれば九牛の一毛に過ぎぬ。その証拠は地球に属さぬエネルギーの存在、慈悲深く崇高にして尊き霊力の存在を証し、それが他ならぬ神の御力であることを証すに十分である。それほどの証を与えられ、それほどまで威力を見せつけられてきた霊力をそなたは信じようとせず、且つまた、われらの身元についての言説を真剣に疑る。どうやらそなたにとりては、そなたがこれまで崇めて来た尊き歴史上の人物が、神の使徒をもって任ずる者の指揮のもとに人類の命運の改善を旗印として働いていることが余ほど引っ掛かるのであろう。そこでそなたは拒絶し、無知からとは言え、無礼にもわれらを詐称者である――少なくともそうではなかろうかと疑い、口先でごまかしつつ善行ぶったことをしているのであると批難する。が、そう批判しつつもそなたはわれらが詐称すべき理由を何ら見出し得ず、神のほかに帰すべき源も見出し得ず、慈悲のほかにわれらが地上に派遣されし理由を見出し得ず、人間にとりての不滅の福音以外にその目的を見出し得ずにいる。

そなたのそもそもの誤りはそこにある。われらもその点は譴責せざるを得ぬ。敢えて申すが、それはそなたにとってもはや“罪”とも言うべきものであり、これ以後その種の問題について関わりをもつことはわれらはご免蒙る。さような視点より要求する証は提供するつもりはない。もはやわれらはこれより一歩も譲歩できぬぎりぎりの限界に来ている。これまで披露せしものをそなたがあなどるのは構わぬが、それによりて危害を蒙るのはそなた自身に他ならぬことを警告しておく。過ぎ来し方をよくよく吟味し、その教訓に思いを寄せ、証拠の価値を検討し、かりそめにも、これほどの教訓とこれほどの量の証拠をただの幻想として片付けることのなきよう警告しておく。

今はこれ以上は述べぬ。ともかくわれらとしては、そなたの如き判断を下されることだけはご免蒙る。われらは当初、われらの霊的教訓の受信者としてそなたを最適任者として選んだ。願わくば現在のその無知と愚かさから一刻も早く脱し、われらがそなたを選べし時のあの穏やかにして真実のそなたに立ち戻られんことを希望する。われらのその願いを、そなたに宿る能力と率直さを以て検討せねばならぬ。今後のそなたとの関わりもそれにて決定される。是非とも公正に、そして神に恥じぬ態度にて判断されたい。決して焦ってはならぬ。早まってはならぬ。事の重大性と、その決断のもつ責任の大きさを認識した上で決定されたく思う。

その間、新たな証を求めてはならぬ。求めても与えられぬであろう。他のサークルとの交わりも避けるよう警告する。あのような方法による通信は危険が伴うことを承知されたい。徒に迷いを増幅させ、それがわれらを一層手間どらせることになる。やむなく生ずる問題に関してはわれらより情報を提供しよう。また決して勧めもせぬが、われらのサークルでの交霊会は敢えて禁止もせぬ。但し、たとえ開いても新たなる証拠は出さぬ。開く以上は何らかの解明と調和のある交霊会の促進を目的としたものであらねばならぬ。

かつてわれらは、そなたにとって必要なのは休息と反省であると述べたことがある。この度も改めて同じことを述べておきたい。そなたのサークルが何としても会を催したいというのであれば、ある条件のもとで時には参加致そう。その条件については後に述べる。が、なるべくならば当分は会は催さぬが良い。かく申しても決してそなたを一人に放置しておくということではない。そなたは常に二重三重にも守られていると思うがよい。これにてひと先ずそなたのもとを去るが、祝福と祈りはそなたと共にあるであろう。

神の導きのあらんことを。

(†インペレーター)

〔注〕

  • (1)

    ルカ22・・42ユダヤの律法学者。

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