23節

〔一八七三年十一月二日。私が提出した質問が無視され、バイブルに記録が見られる時代のキリスト教系全体の神の啓示の発達のあとを本格的に解説して来た。これが、並行して進行している多くの啓示のうちの一つであることは以前から予告されていた。〕

これよりわれらは古き時代においてわれらと同じく人間を媒体として啓示が地上にもたらされた過程について述べたく思う。聖書に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がいる。彼らは地上にありては真理と進歩の光として輝き、地上を去ってのちは後継者を通じて啓示をもたらしてきた。その一人――神が人間に直接的に働きかけるとの信仰が今より強く支配せる初期の時代の一人に、そなたたちがメルキゼデク(1)の名で知るところの人物がいた。彼はアブラム(2)を聖別(3)して神の恩寵の象徴たる印章を譲った。これはアブラムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においては未だ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては、その民のために送りし神託の代弁者であった。

ここで今まさに啓発の門出に立つそなたに注意しておくが、太古の記録を吟味する際には、事実の記録と、単に信仰の表現に過ぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見うけられる。それらは伝えられる如く秀でたる人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混り合い、単なる世間の考えと信仰とがまことしやかに語り継がれた時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。それ故、確かにそなたらの聖書と同様にその中に幾許かの事実は無きにしもあらずであるが、その言説の一つ一つに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ。これまでのそなたはそれらの説話を絶対的同意の立場より読んできた。これよりは新しき光――より益多くして興味浅からぬ見地より見る必要があろう。

神は“創世記”に述べられたるが如き、神人同形同性説的なものではない。またその支配は相応しき霊を通して行なわれてきたのであり、決して神自らが特別に選びし民のみを愛されたのではない。

神と人間との結びつきはいつの時代にも一様にして不変である。すなわち、人間の霊性の開発に応じて緊密となり、動物的本能が強まればそれだけ疎遠となり、肉体的並びに物質的本能の為すがままとなる。

かの初期の時代において、選ばれしアブラムに神の聖別を与えたのがメルキゼデクである。が、キリスト教徒もマホメット教徒もこぞってたたえるそのアブラムはメルキゼデクの如き直接の霊的啓示にはあずからなかった。アブラムはその死と共に影響力を失い、在世中のみならず死後も、人間界に影響と言えるほどのものは及ぼしていない。そなたには不審に思われることかも知れぬが、地上にその名を馳せたる霊の中にも同じ例が数多くあるのである。地上での仕事が終わりてのち、地上と係われる新たな仕事を授からぬことがある。在世中の仕事に過ちがあったのかも知れぬ。そして死後その霊的香気を失い、無用の存在となり果てることもある。

メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者、イスラエルの民をエジプトより救い出し、独自の律法と政体を確立せる指導者モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身ともに発達せる強大なる人物であった。当時すでに、当時としては最高の学派において優れた知的叡智――エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈な意志が支配者としての地位に相応しき人物とした。彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それが更に世界へと広がっていった。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成せしめ、政治的体制を入念に確立し、法と規律を制定した。その時代はユダヤ民族にとりては他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似点を有する段階、すなわち古きものが消え行き、霊的創造力によって全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階にあったのである。

ここにおいてもまた推理を誤ってはならぬ。モーセの制定せる法律はそなたらの説教者の説くが如き、いつの時代にも適用さるべき普遍的なものではない。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使徒によりて霊的能力を持つ者を通して授けられたのである。当時のイスラエルの民にとりて第一に必要な真理は、彼らを支配し福祉を配慮してくれるのは唯一絶対神であるということであった。エジプトの多神教的教説に毒され、至純なる真理の宿る霊的奥義を知らぬ民に、その絶対神への崇敬と同胞への慈悲と思いやりの心を律法に盛り込んだのである。

今日なお存続せるかの「十戒」は変転きわまりなき時代のために説かれた真理の一端に過ぎぬ。もとよりそこに説かれた人間の行為の規範は、その精神においては真実である。が、すでにその段階を超えた者に字句どおりに適用すべきものではない。かの「十戒」はイスラエルの騒乱より逃れ、地上的煩悩の影響に超然とせるシナイ山の頂上にてモーセの背後霊団より授けられた。背後霊団は今日の人間の忘却せるもの――完全なる交霊のためには完全なる隔離が必要であること、純粋無垢なる霊訓を授からんとすれば低次元の煩雑なる外部からの影響、懸念、取越苦労、嫉妬、論争等より隔絶せる人物を必要とすることを認識していたのである。それだけ霊信が純粋性を増し、霊覚者は誠意と真実味をもって聞き届けることが出来るのである。

モーセはその支配力を徹底せしめ民衆に影響力を行き渡らせる通路として七十人もの長老――高き霊性を具えたる者――を選び出さねばならなかった。当時は霊性の高き者が役職を与えられたのである。モーセはそのために律法を入念に仕上げ、実行に移した。そして地上の役目を終えて高貴な霊となりたる後も、人類の恩人として末長くその名を地上に留めているのである。

メルキゼデクがモーセの指導霊となりたる如く、そのモーセも死後エリヤ(4)の指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断っておくが、今われらはメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんがために、他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。また、その巨大な流れの中に数多くの高級霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最少限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたるのちも引き続き地上へ影響を及ぼしている事実を強く指摘せんとしているところである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及のための中枢が数多く存在した。が、それは今のそなたには係わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大なる流れこそそなたにとりて最大の関心事であろう。もっともそれをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘なる宗閥心だけは棄てて貰わねばならぬ。

偉大なる指導者エリヤ、イスラエル民族の授かれる最高の霊はかつての指導者モーセの霊的指揮下にあった。ユダヤ民族が誇るこの二人の指導者への崇敬の念は、神がモーセの死体からだを隠し、一方エリヤを火の馬車に乗せて天国へさらって行ったという寓話にも示されている(5)。崇敬の念のあまりの強さがこうした死にまつわる奇怪な話を生んだのである。指摘するまでもないと思うが、霊が生身の肉体を携えて霊の世界に生き続けることは絶対にない。偉大なる仕事を成し遂げたる霊が次の世界より一段と強力に支配することを教えんが為の寓話に過ぎぬ。エリヤはその後継者エリシャ(6)に己の霊を倍加して授けたという。が、それはエリシャが倍加された徳を賦与されたという意味ではない。そのようなことは有り得ぬことだからである。そうではなく、エリヤの霊力による輝ける業績が後継者の時代に倍の勢力をもって働きかけ、エリシャがそれを助成し実践していったという意味であった。

そのエリヤもまた後の世に地上に戻り指導に当たった。そなたも知る如く、かの“変容(7)”の山上にてモーセと共にキリストのそばにその姿を見せた。二人はその後ヨハネにも姿を見せ、それよりのちにも再び地上を訪れることを告げたとある。

〔私はこの通信の書かれた十一月二日の時点では最後の一文にあるような、二人がのちに再び地上に戻ると述べたということが全く理解できなかった。それがヨハネ黙示録11-3、その他に出ている“二人の証人”のことであることが分かったのは最近のことで、それも私の無名の友人が送って来たヨハネ黙示録に関する小論文を読んで始めてそれと気づいたことで、もしもその小論文を見なかったら知らずじまいになるところであった。その小論文はたまたまその二人の証人と二人の予言を扱ったもので、私にとっては実にうまい時機(タイムリー)に届けられたのだった。

右の通信で私はいろいろと質問をしたが、その中でメルキゼデクの前にも神の啓示を受けた霊覚者がいたかどうかを尋ねた。すると――

無論である。われらは最後にイエスに至る流れの最初の人物としてメルキゼデクを持ち出したに過ぎぬ。その流れの中でさえ名を挙げることを控えた人物が大勢いる。すでに述べた如く、その多くが神の啓示を受けていた。エノク(8)がその一人であった。彼は霊覚の鋭き人物であった。同じくノア(9)がその一人であった。もっとも、霊覚は十分ではなかった。デボラ(10)も霊覚の鋭き人物であり、歴史にて“イスラスルの士師”と呼ばれる行政官はすべて、霊感の所有者であるという特殊の資格をもって選ばれたのであった。そのことにつきて詳しく述べる余裕はない。ユダヤの歴史に見られるその他の霊力の現われにつきては、こののち述べることもあろう。今はまずその古き記録全般に視点を置き、さらにその中の霊的な流れの中から(イエスに連なる)一つだけに絞っていることを承知されたい。

――あなたはそうした古い記録は文字どおりに受け取ってはならぬとおっしゃったことがあります。“モーセ五書(11)”のことですが、あれは一人の著者によるものでしょうか。

あの五書はエズラ(12)の時代に編纂されたものである。散逸の危険にあった更に太古の時代の記録を集め、その上に伝説または記憶でもって補充した部分もある。モーセより以前には生の記録は存在せぬ。「創世記」の記録も想像の産物もあれば伝説もあり、他の記録からの転写もある。天地創造の記述や大洪水の物語は伝説に過ぎぬ。エジプトの支配者ヨセフ(13)に関する記述も他の記録からの転写である。が、いずれにせよ現在に伝えられる“五書”はモーセの手になるものではない。エズラとその書記たちが編纂したものであり、その時代の思想と伝説を表わしているに過ぎぬ。もっとも、モーセの律法に関する叙述は他の部分に比して正確である。何となれば、その律法の正確な記録が聖なる書として保存され、その中より詳細な引用が為されたのである。かく述べるのは、論議の根拠として“五書”の原文が引用された際に一々その点を指摘する面倒を省くためでもある。記録そのものが字句どおりに正確ではないのである。ことに初めの部分などは全く当てにならず、後半も当てになるのは正確な記録が残っていたモーセの律法に関する部分のみである。

――想像の産物だとおっしゃいましたが。

散逸せる書を補充する必要があり、それを記憶または伝説から引き出したという意味である。

――アブラハム(14)のことは簡単にあしらっておられるようですが。

そういうわけではない。神の使者としてその霊的指導に当たれるモーセに比して霊格の程度が低かったというに過ぎぬ。こうした問題を扱う上において、われらは一々人間界の概念にはこだわらぬ。アブラハムは人間界ではその名を広く知られているが、われらにとりては、さして重要なる存在ではない。

――エノクとエリヤの生身での昇天――あれは何だったのでしょう。

伝説的信仰に過ぎぬ。民衆の崇敬を得た人物の死にはとかく栄光の伝説がまとわりつくものである。太古において民衆に崇められ畏敬の念をもってその名が語られた人物は、生身のまま天の神のもとへ赴いたとの信仰が生まれたものである。霊力の行使者であり、民衆の最高指導者であったモーセもその死に神秘なる話が生まれた。生前においては神と直接じかに親しく話を交わし、今やその神のもとへ赴いたと信じられた。同様に、人間的法律を超越し、何一つ拘束力を知らず、あたかも風の如く来り風の如く去った神秘的霊覚者エリヤ――彼もまた生身のまま天へ召されたと信じられた。いずれの場合もその伝説の根底にある擬人的神と物的天国の観念による産物であった。前にも述べた如く、人間は神と天国に関してその霊的発達程度以上のものは受けとめることは出来ぬ。古代においては神を万能の人間――すべての点で人間的であり、更にその上にある種の特性、人間の自然の情として更にかく有りたいと憧れる特質を具えた人間として想像した。言い換えれば人類の理想像にある特性を付加し、それを神と呼んだのであった。これは決して嘲笑あざわらうべきことではない。程度こそ違え人類の歴史は同じことの繰り返しである。すべての啓示は、元は神より出でても生身の霊覚者を通過し、しかもその時代の人類の発達程度に適合させねばならぬ以上、人間的愚昧の霧によりて曇らされるのは必定である。それは地上という生活環境においては避け難き自然な結果と言うべきである。そこで人間の知識が進歩し叡智が発達するに従い、当然、神の観念も改められることを要する。人間がその必要性を痛感して始めて新たなる光が授けられるのである。(そなたらの中には神と霊的生活と進歩に関してわれらの教説からは何一つ学ぶものはないと言う者がいるが、その者たちには今述べたことが最良の回答である。)

天国についても同じである。そなたらは前時代の者が想像し来れる天国の概念を大幅に改めて来た。今どき生身のまま天国の館に赴くなどと信ずる愚か者はおるまい。地上にて崇められたる人物が生身を携えて擬人的神のもとへ昇天して行くなどと信じた時代はもはや過去のものとなった。まさかそなたはその生身を携えて全知全能の神のまわりにて、あたかも地上でするが如くに、讃美歌三昧に耽るなどとは想像すまい。そのような天国は根拠なき夢想に過ぎぬ。霊の世界へ入るのは霊のみである。肉体のまま天空のどこかへ連れて行かれ、そこで地上とまったく同じように、人間と同じ容姿の神、ただ能力において人間を超越しているというに過ぎぬ神のもとで暮らすなどという寓話は、そなたはすでに卒業しているであろう。そのような天国は預言者ヨハネに象徴的に啓示された天国像からの借用に過ぎぬ。そのような神が存在するわけのないことくらいはそなたにも判るであろう。昇天の時(死)は全ての善人に訪れる(15)。が、生身のままではない。地上の務めを終えた疲れ果てたる身体より脱け出で、栄光ある魂としてより明るき世界、いかなる霊覚者の想像をも絶する輝ける天国へと召されるのである。

――伝説の中にもあとで事実であったことが判明したものが沢山あります。問題は事実と伝説とを見分けることが困難なこと、毒草を抜こうとして薬草までいっしょに抜いてしまう危険があることです。神話の中にもちゃんとした意味をもち、立派な真理を含んだものがあります。

それはその通りである。そなたらが聖なる記録としているものの中に混入せる伝説は、多くの場合、偉大なる人物にまつわる迷信的信仰である。神話の中に真理の核が包蔵されていることも事実である。これまでも度々指摘したことであるが、人間はわれらの如き霊とその影響力と目的に関して余りに誤れる概念を抱いてきた。その原因には人間としてやむを得ぬ要素もあるが、克服できる要素もある。知性の幼稚な段階においては、その知性の理解力を超えたものは絶対に理解できぬのが道理である。

それはやむを得ぬことである。それまで生きて来た環境、体験せる唯一の環境と全く異なれる環境の霊的生活を正しく想像できるわけはない。そこで図解と比喩をもって教えねばならぬことになる。これもやむを得ぬことである。ところが人間は比喩として述べた言葉と観念をそのまま掻き集め、そこから辻褄の合わぬ愚かなる概念を築き上げる。これよりのちそなたも、知識の進歩と共に、その過程をより一層明確に理解することになるであろう。

また人間は神の啓示は全て普遍的適用性をもち、一字一句に文字通りの意味があるものと思い込んで来た。われらの説き方はいわば親が子に教えるのと同じであることが判らなかった。抽象的な真理の定義を説いても子供の頭では理解できぬ。子供は教えられた事柄をそのまま受け止める。それと同じ態度で人間は啓示の一言一句をあたかも数学的かつ論理的に正確なるものとして受け止め、その上に愚かにして自己矛盾に満ちた説を打ち立てる。子供は親の言葉を躊躇なく受け入れ、それを金科玉条とする。それが実は譬え話であったことを知るのは大人になってからのことである。人類も神の啓示を同じように扱ってきた。比喩的表現に過ぎぬものを言葉どおりに解釈してきた。謬りだらけの、しかも往々にして伝説的記録に過ぎぬものを数学的正確さをもって扱ってきた。かくして今なお嫉妬に狂う神だの、火炎地獄だの、選ばれし者のみの集まる天国だの、生身のままの復活だの、最後の審判だのという愚か極まる教説を信じ続けている。これらはいわば幼児の観念であり、大人になれば自然に卒業していくべきものである。霊性において成人せる人間はすべからくそうした幼稚なる概念を振り棄て、より高き真理へと進まねばならぬ。

然るに現実は、原始的迷信、愚か極まる作り話がそのまま横行している。想像力に富める民族が描ける誇張的映像がそのまま事実として受け入れられている。数々の空想と誤謬と真理とがまさに玉石混淆となり、より高き真理を理解せる理知的人間にはとても付いて行けぬ。そうした支離滅裂の寄せ集めを一つに繋いでいるものは他ならぬ信仰心である。われらはその信仰心を切断し、信仰心のみで無批判に受け入れて来たものを理性でもって検討し直せと言っているのである。きっとその中には人類の幼児時代より受け継がれた人間的産物を多く見出すであろう。煩わしく且つ無益なるものに反撥することであろう。が、同時に、その残りの中に理性に訴えるもの、体験によりて裏付けされたもの、そして神より出でしものを発見するであろう。父なる神が子なる人間に用意せる計画の一端を暗示するものを手にすることであろう。が、今のそなたにはそれ以上のことは叶わぬ。そなたは、今のその心に余りに多く巣くうところの愚かなる誤謬と誤解より解放された新しき局面を切り開くことのみで佳しとせねばならぬ。過去は根本においては現在へ投げかける照明として、そしてまた未来を照らすほのかなる光としての価値を有するものであることを、そなたもそのうち次第に認識していくことであろう。

これで判っていただけるであろうが、われらの現在の仕事の目的もそこにある。すなわち神と生命と進化につきてそなたたちがこれまで抱いて来た思想を一層純粋なるものに近づけ、恥ずべき要素を排除することである。そのためにはまずそなたたちの教義の中の誤りと、神的真理として罷り通って来た人間的想像の産物と、理性的には反撥を覚えつつも信仰心によって受け入れられ、今や歴史的事実の如く結晶してしまった伝説を指摘せねばならぬのである。われらとしてはそなたらの側に忍耐強き真摯なる思考を要求する他はない。またわれらの為すことを全て破壊的と受け取ってはならぬ。夾雑物が取り除かれれば建設も可能となろう。それまでは、もしもそなたの目にわれらが破壊的思想を撒き散らしていると見えるならば、それはより神々しき神の、より崇高なる神殿、より聖なる聖堂を築かんがための予備工事として、まず夾雑物を掻き集め、それを取り除かんとしているに過ぎぬと理解されたい。

(†インペレーター)

〔注〕

  • (1)

    Melchizedek 古代都市サレムの王で祭司。(旧約聖書「創世記」14・・18)

  • (2)

    Abram アブラハムの元の名で、ユダヤ人の始祖。

  • (3)

    聖なる使用に当たるために世俗から離すこと。

  • (4)

    Elijah 紀元前九世紀ごろのヘブライの預言者。

  • (5)

    旧約聖書はこの二人にまつわる話が大半を占める。

  • (6)

    Elisha 同じく預言者。

  • (7)

    ある日キリストが弟子たちと共に高い山に登った時、この世のものとも思えぬ神々しい姿に変わったという。(マタイ17・・1~13、マルコ9・・2~13)

  • (8)

    Enoch.

  • (9)

    Noah.

  • (10)

    Deborah.

  • (11)

    旧約聖書の最初の五書のこと。すなわち「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」。

  • (12)

    Ezra 紀元前五世紀ごろのヘブライの律法学者で祭司。

  • (13)

    Joseph (「創世記」30・・22~24)

  • (14)

    Abraham 前出のアブラムと同一人物。

  • (15)

    仏教的に言えば、迷わず成仏する、ということ。

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