25節
〔“モーセ五書”を新たな観点から読み直してみて私は、その中に神の観念が徐々に発達していく様子を明瞭に読み取ることが出来た。結局それが一人の作者によるものでなく数多くの伝説と伝承の集成にすぎないという結論に達した。その点について意見を求めると――〕
われらの手引きによる聖書の再検討において、そなたは正しき結論に到達した。そなたをその方向へ手引きしたのは、個々の書が太古の人間の伝説や伝承をまとめたものに過ぎず、そのカギを知らぬ者には見分けのつかぬものであるが故に、いかに信の置けぬものであるかを知らしめんが為である。われらはこの点を篤と訴えたい。そなたらの宗教書より引用せる言説にどこまで信を置くべきかは、むろんそなた自身の理解力にもよるが、それと同時に、その引用せる書の正体と、その言説のもつ特殊な意味にもよる。いかに古き書の中にも崇高なる神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出たより新しき書の中にこの上なく冒とく的で極めて人間的な不愉快千万なる概念を見出すことも出来る。たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する都市への報復の計画を人間と相談する神、血の酒宴を催し敵の血を
重ねて言うが、啓示とは時代によりて種類を異にするのではなく、程度を異にするのみである。その言葉は所詮は人間的媒体を通して霊界より送り届けられるものであり、霊媒の質が純粋にして崇高であれば、それだけ彼を通して得られる言説は信頼性に富み、概念も崇高さを帯びることになる。要するに霊媒の知識の水準が即ち啓示の水準ということになるわけである。故に、改めて述べるまでもあるまいが、初期の時代、たとえばユダヤ民族の記録に見られる時代においては、その知識の水準は極めて低く、特殊なる例外を除いては、その概念はおよそ崇高と言えるものではなかった。
人類創造の計画の失敗を悔しがり、悲しみ、全てをご破算にするが如き、情けなき神を想像せる時代より、人間は知識において飛躍的に進歩を遂げてきた。より崇高にして真実に近き概念を探らんとすれば、人間がその誤りの幾つかに気づき、改め、野蛮な想像力と未熟な知性の産み出せる神の概念に満足できぬ段階に到達せる時代にまで下らねばならぬ。野蛮な時代は崇高なるものは理解し得ず、従って崇高なるものは何一つ啓示されなかった。それは、神の啓示は人間の知的水準に比例するという普遍的鉄則に準ずるものである。故に、そもそもの過ちの根源は人間がその愚かにして幼稚きわまる野蛮時代の言説をそのまま受け継いで来たことにある。神学者がそれを全ての時代に適応さるべき神の啓示であるとしたことにある。その過ちをわれらは根底より改めんと欲しているのである。
今一つ、それより更に真理を台無しにするものとして、神は全真理を聖書の全筆録者を通じて余すところなく啓示し、従って根源的作者は神であるが故に、そこに記録された文字は永遠にして絶対的権威を有するとの信仰がある。この誤りはすでにそなたの頭からは取り除かれている。その証拠に、最早やそなたは神が矛盾撞着だらけの言説の作者であるとは思わぬであろうし、時代によりて相反することを述べるとも思うまい。霊界からの光が無知蒙昧なる霊媒を通じて送られ、その途中において歪められたのである。
そうした誤れる言説に代わりてわれらは、啓示というものがそれを送り届けんとする霊の支配下にあり、その崇高性、その完全性、その信頼性にそれぞれの程度があると説く。またそれ故にその一つ一つについて理性的判断をもって臨むべきであること、つまり純粋なる人間的産物を批判し評価する時と全く同じ態度にて判断すべきであると説くのである。そうなれば聖典を絶対的論拠とすることもしなくなるであろう。全ての聖典を(神が絶対無二のものとして授けたのではなく)単なる資料として今そなたの前に置かれたものとして取り扱うことになろう。その批判的精神をもって臨む時、聖典そのものの出所と内容について、これまで是認され信じられて来たものの多くを否定せねばならぬことに気づくであろう。
さてそなたは「モーセ五書」について問うている。これは前にも少し触れた如く、何代にも亙って語り伝えられた伝説と口承が散逸するのを防ぐためにエズラが集成したものである。その中のある部分、とくに“創世記”の初めの部分は記述者が伝説にさらに想像を加えたものに過ぎぬ。ノアの話、アブラハムの伝説等がそれであり、これらは他の民族の聖典にも同一のものが見られる。“申命記”の説話もみなそうであり、エズラの時代に書き加えられたものである。その他についても、その蒐集はソロモンとヨシアの時代の不完全なる資料より為されたものであり、それがまたさらにそれ以前の伝説と口承に過ぎなかったのである。いずれの場合もモーセ自身の言葉ではない。また律法に関する部分の扱いにおいて真正なる原典からの引用部分は例外として、他に真正なるものは一つも存在せぬ。
いずれ、聖書の初期の書に見られる神の観念につきて詳しく述べることになろう。今は、そうした書が引用せる神話や伝説を見れば、他の資料によりその真正さが確認された場合を除けば、その歴史的記述も道徳的説話も一顧の価値だになきものであることを指摘するに留める。
〔この通信は私自身の調査を確認するところとなった。編纂者が引用したのはエロヒスト(1)とヤハウィスト(2)の二人の記録まで辿ることが出来ると考えた。それは例えば“創世記”第一章及び第二章の③と第二章の④の天地創造の記述の対比、ゲラルにおけるアビメレク王によるサラの強奪(“創世記”第二十章)と同第十二章の⑩~⑲及び第二十六章の①~②の対比に見られる。私はこの見解が正しいか否かを尋ねた。〕
それも数多い例証の中の一つに過ぎぬ。こうした事実を認識すれば、その証拠がそなたの身近に幾らでも存在することに気づくであろう。問題の書はエズラの二人の書記エルナサン(3)とヨイアリブ(4)が引用せる伝説的資料である。数が多く、あるものはサウル王(5)の時代に蒐集され、あるものは更に前のいわゆる“イスラエルの士師(6)”の時代に蒐集され、またあるものはソロモン(7)とヘゼキヤ(8)とヨシア(9)の時代に蒐集されたもので、いずれも口承で語り継がれた伝説に恰好をつけたものに過ぎぬ。啓示の本流がメルキゼデクに発することはすでに指摘した。それ以前のものは悉く信が置けぬ。霊に導かれた人物に関する記録も、必ずしも全てが正確とは言えぬ。しかし全体としての啓示の流れはこれまでわれらが述べて来た通りであったと思えばよい。
〔旧約聖書の聖典がそのような形で決められてきたとなると“預言書”についてはどの程度まで同じことが言えるかを尋ねた。〕
あの預言の書は全てエズラ王の権威のもとに、現存せる資料を加え配列したに過ぎぬ。そのうちのハガイ書(10))、ゼカリア書(11)、マラキ書(12)はその後に付け加えられたものである。ハガイはエズラ書の編纂に関わり、またマラキと共にその後の書を付加して、ついに旧約聖書を完成せしめた。この二人とゼカリアの三人は常に親密な間柄を保ち、大天使ガブリエル(13)とミカエル(14)がその霊姿を預言者ダニエル(15)の前に現わして使命を授けた時にその場に居合わせる栄誉に浴した。預言者ダニエルは実に優れたる霊覚者であった。有難きかな、神の慈悲。有難きかな、その御力の証。
――“ダニエル書”第十章にある“
ヒデケル(16)の土手のそばでの出来ごとであった。
――同じものです。と言うことは、預言者の言葉からの抜粋に過ぎないということでしょうか。
抜粋に過ぎぬ。それには、もともと隠された意味があった。表面には出ておらぬ。霊現象の多発する時代が過ぎ去らんとする時に、過去の記録より抜粋されたのである。そして再び霊の声の聞かれる時代まで聖書も閉じられたままになったのである。
――ダニエルが大預言者、つまり霊覚者であったと言われますが、当時は霊的能力は珍しくなかったのでしょうか。
ダニエルは格段に優れた霊的能力を具えていた。霊的時代の幕が閉じられるころは霊的能力も滅多に見られなくなっていった。が、今の時代に比べれば霊力の開発に熱心であった。霊力と霊的教訓を大切にし、よく理解していた。
――となると旧約聖書に見られる類の霊言や霊視の記録が相当失われているに相違ありません。
まさにその通りである。記録する必要もなかったのである。記録されたものでも聖書から除外されたものもまた多い。
〔それより二、三日後(十一月十六日)にかねてより約束の、神の概念についての通信を要求した。〕
聖書に見られる神の概念につきては、これまで折にふれて述べて来た。この度は次の諸点すなわち神の概念が徐々に進歩して来ていること、故にアブラハムの神はヨブの神に劣ること、われらが常に指摘している基本的真理――神の啓示は人間の霊的発達と相関関係にあり、人間の能力に応じて神が顕現されるものであることは聖書の至るところに見られることなどをより明確に致したく思う。
その基本的概念を念頭に置いた上でアブラハム、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、エゼキエル、ダニエルの各書を読めば、われらの指摘する通りであることが一目瞭然となろう。初期の族長時代においては絶対的最高神は数々の人間的概念のもとに崇敬されていた。アブラハム、イサク、ヤコブの親子三代に亙る神は、それを神として信じた当人にとっては優れた神であったかも知れぬが、近隣の族長の神よりも優れていたというに過ぎぬ。アブラハムの父はそなたも知る如く変わった神々を信じていた。息子の神とは別の複数の神を信じていた。いや実は当時はそれが当たり前のことであった。各家族がそれぞれの代表としての神をもち、崇め、誓いを立てていたのである。そのことは最高神のことをエホバ・エロヒムと呼んだことからも窺えよう。
さらに、思い出すがよい、ヤコブの義父ラバンはヤコブが自分の神々を盗んだと言って追求し脅迫したであろう。そのラバンはある時家族の神々の像を全部まとめてカシの木の根本に埋め隠したりしている。こうした事実を見てもエホバと呼ばれている神はアブラハムとイサクとヤコブの神なのである。つまり唯一絶対の神ではなく、一家族の神に過ぎなかったのである。
そうした家族神がモーセとその後継者ヨシュアの時代にイスラエルの国家神へと広がっていったのは、イスラエルの民が一国家へと成長した段階になってからのことであった。モーセでさえその絶対神の概念においてまだ他の神より優れた神といった観念より完全に抜け切っていたとは言えぬ。そのことは、神々の中でエホバ神に匹敵するものはおらぬという言い方をしていることからも窺えよう。その類の言説が記録の中に数多く見られる。かの「十戒」の中においてさえ、それを絶対神の言葉そのものであると言いつつ、イスラエルの民はその絶対神以外の神を優先させてはならぬと述べている。ヨシュアの死の床での言葉を読むがよい。そこにも他の神より優れた神の観念を見ることが出来よう。
真の意味での絶対神に近い観念が一般的となってきたのは、そうした人間神の観念に反撥を覚えるまでに成長してからのことであった。“預言書”ならびに“詩篇”を見れば、神の観念がそれ以前の書に比して遙かに崇高さを増していることに気づくであろう。
この事実に疑問の余地はない。神は聖書の中においてさまざまな形にて啓示されている。崇高にして高邁なるものもある。“ヨブ記”と“ダニエルの書”がそれである。一方卑俗にして下品なるものもある。歴史書と呼ばれているものがそれである。が、全体として観た時、そこに神が人間の理解力に相応しき形にて啓示されてきていることを窺うことが出来よう。
またそれは必ずしも直線的に進歩の道を辿って来たともかぎらぬ。傑出せる人物が輩出した時は、神の概念も洗練され品格あるものとなった。必ずそうなっている。ことにイエスが絶対神を説いた時が際立ってそうであった。今なお優れたる霊が霊覚者を通してその崇高なる神の観念を伝え、より明るき真理の光を地上にもたらしつつある。そなたの生きて来たほぼ全世代を通してその働きは続いており、かつてより遙かに明るき神の観念が啓示されつつある。備えなき者は見慣れぬ眩しさに目を
――聖火の伝達者というわけですね。確かに歴史を見れば時代より一歩先んじた人物がいたことは容易に知ることが出来ます。思うに人類の歴史は発展の歴史以外の何ものでもなく、同じ真理でも、その時点での能力以上のものは理解できないことが判ります。そうでなければ永遠の成長ということが言えなくなるわけですから。いずれにせよ、まだまだ私は知らないことばかりです。
己の無知に気づいたことは結構なことである。それが向上の第一歩なのである。そなたは今やっと真理の神殿の最も外側の境内に立ったようなものであり、奥の院にはほど遠き距離にある。まず外庭を幾度も回り、知り尽くしたのちに始めて中庭に入ることを許される。まして奥の院を拝するに相応しき時に到るまでには永く苦しき努力を積まねばならぬ。が、それでよい。焦らぬことである。祈ることである。静かに、忍耐強く待つことである。
(†インペレーター)
〔注〕
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Elohist 旧約聖書最初の六書の中で神をElohimと呼んでいる部分の編者。
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Yahwist 旧約聖書最初の六書の中で神をYahwehと呼んでいる部分の編者。
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Elnathan.
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Joiarib.
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Saul イスラエル第一代の王。
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the Judges of Israel 裁き人、執権者。
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Solomon 紀元前10世紀のイスラエルの王。
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Hezekiah 紀元前8-7世紀のユダ王国の王。
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Joshia 紀元前7世紀のユダ王国の王。
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Haggai 紀元前520年頃のヘブライの預言者。
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Zechariah 紀元前6世紀頃のヘブライの預言者。
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Malachi 紀元前5世紀のユダヤの預言者。これがインペレーターと名のる霊であるという。(解説参照)
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Gabriel 宇宙経綸を与る神庁の最高位霊。聖書においては七大天使の一人とされている。
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Michael 悪の勢力との対抗を与る霊団の最高位霊。聖書においては四大天使の一人とされている。
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Daniel 紀元前6世紀のヘブライの預言者。
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Hiddekel チグリス川 Tigris のこと。トルコ、イラクを通りユーフラテス川と合流してペルシャ湾に注ぐ。