32節
〔その後のインペレーターからの通信の一例として、次のメッセージを紹介しておく。内容的には一層崇高さを増した霊訓の典型を見る思いがする。驚異的なスピードで書かれたもので、書かれたままを紹介するが、一語の訂正の必要もなかった。綴られている間の私は、強力にして崇高な影響力が全身に染みわたるのを感じていた。〕
『真 理』
イエス・キリストの祝福を。この度は二度と訪れぬかも知れぬこの機に、そなたの疑問に答え必須の真理を授けたく思う。このところそなたのもとに届けられた何通かの手紙によりて、われらが警告しておいた艱難辛苦の時代の到来がわれらのみならず、他の霊団によりても予期されていることが判るであろう(1)。備えを怠るでない。間違いなく到来する。苦悩は必要だからこそ訪れるのである。イエスもそう悟り、そう説いているであろう。魂には鍛錬が必要なのである。それなくして深き真理は理解できぬ。
安逸と放縦の道は夏の日を夢見心地で過ごす者には楽しいかも知れぬ。それに引きかえ、克己と自己犠牲と自己修養の道はトゲと岩だらけの上り道である。が、それが悟りと力の頂上へ辿り着く道なのである。イエスの生涯をよく吟味し教訓を学び取るがよい。
さらに、今こそわれらと邪霊との烈しき闘争の時期でもある。その
それぞれの時代に授けられた啓示は、時の流れと共に人間的誤謬が上乗せされ、勝手な空想的産物が付加される。次第に生気を失い訴える力を失う。批判の声に抗し切れず、誤謬が一つまた一つと剥ぎ取られていき、信仰の基盤が揺さぶられ、ついに大声をあげて叫ぶ――真理とは何ぞや! と。それに答えて新たな、より高き真理の誕生となる。産みの苦しみが世界を揺るがせ、その揺り籠のまわりに霊界の力が結集してこれを守る。その闘争の噴煙と轟音はまさに熾烈である。
その新たな真理の光に空が白み、雲が晴れると、高き塔より眺める霊的洞察力に富める者はいち早く新時代の到来を察知し、その夜明けを歓迎する。“喜びは暁と共に来らん(3)”“悲しみと歎きは消え行かん(4)”かくして夜の恐怖――“暗黒の力”が過ぎ去る。が、全ての者にとりてのことではない。相も変わらず光を見る目を持たず、真理の太陽が煌々と頭上に輝くまで気づかぬ者が圧倒的多数を占める。彼らは新たな真理の夜明けに気づくことなく、ただ眠り続ける。
故に、全ての人間が等しく真理を理解する時代は決して訪れぬであろう。いつの時代にも真理に対して何の魅力も感じぬ者、なまじ上り坂をいくことが危険を伴う者、古き時代より多くの者によりて踏みならされた道を好む者が数多くいるものである。暁の到来を告げる空の白みをいち早く察知する者がいる如く、そうした人種もいつの時代にもいるものである。故に、全ての者に同じ視野が開かれることを期待してはならぬ。そのような夢の如き平等性は不可能である。不可能である以上に、望ましくもない。
神秘の奥義を詮索するに足る力を授かれる者がいる一方、極力それを避けねばならぬ者もいるのである。そこで大衆を導く指導者と先達が必要となる。その任に当たる者はそれなりの準備と生涯にわたる克己の修養が要請される。それを理性によりて律し、我欲を抑え、魂が一切の捉われを棄てて自由に振舞えるようであらねばならぬ。そのことについては、とうに述べてある。心するがよい。
大方の者が真理なりと信ずることが、そなたには
或いはこうも観ることが出来る。一人の向上心に燃える魂の熱望に応えて授けられたものを当人は万人に等しく分け与えらるべきものと思い込む。独り占めにするには余りに美しく、余りに崇高であり、余りに聖純なるが故に、全ての人に授けるべきであると思い込む。そこで宝石が小箱より取り出され、一般に披露される。ユリの花が切り取られて人前に飾られる。とたんに純粋さが失われ、生気が半減し、萎縮し、そして枯死する。彼にとりてあれほど美しく愛らしく思えた真理が
むろん真理には、あたかも切り出したばかりの
そなたがこうした事実を悟れぬことこそ驚異と言わねばならぬ。そなたにとりて絶対的真理と思えるものも実は、そなたの求めに応じて、完全なる真理の輪を構成する粒子の一つ、ほんの一かけらが授けられたに過ぎぬ、そなたがそれを必要としたからこそ授けられたのである。そなたにとりては完璧であり、それが“神”であろう。が、別の者にとりては不可解なるものであり、魂の欲求を満たしてくれる声は聞けず、求める美を見出すことは出来ぬ。衆目に曝したければそれもよかろう。が、すぐに生気を失い、その隠された魅力も人の心を改めさせるだけの力は持たぬであろう。それはあくまでもそなたのものであり、そなた一人のものなのである。そなたの魂の希求に応じて神より授けられたる、特殊な需要に対する特殊な施しなのである。
真理なるものは常に秘宝的要素をもつ。必然的にそうなるのである。何となれば真理はそれを受け入れる用意のある魂にのみ受け入れられるものだからである。日用品として使用するにはその香気が余りに
さらに忘れてならぬことは、真理のための真理探求を、人生の至上目的として生きることこそ、地上にありての最高の目標であり、いかなる地上的大望よりも尊く、人間の為し得るいかなる仕事にもまして気高きものであるということである。人間生活に充満する俗悪な野心は今は取り合わぬ。虚栄より生まれ、嫉妬の中に育まれ、ついには失望に終る人類の闘争と野心――これらは
教えることは結構である。しかし学ぶことはさらに望ましい。また両者を両立させることも不可能ではない。ただ、学ぶことが教えることに先立つものであることを忘れてはならぬ。そして真理こそ魂が何よりも必要とするものであることを、しかと心得よ。真理を宿す神秘の園に奥深く分け入る求道者は、その真理が静かに憩う聖域を無謀に荒らすことがあってはならぬ。その美しさはつい語りたくなるであろう。己が得た心の慰安を聞く耳を持つ者に喧伝したく思うかも知れぬ。が、己の魂の深奥に神聖なる控えの間、清き静寂、人に語るには余りに純粋にして、余りに貴重なる秘密の啓示を確保しておかねばならぬ。
〔ここで大して重要ではない質問をしたのに対してこう綴られた――〕
違う。それについてはいずれ教えることになろう。われらはそなた自身の試練の一つであるものを肩代わりすることは出来ぬ。迷わずに、今歩める道を突き進むがよい。それが真理へ直接続く道である。しかし不安と苦痛の中を歩まねばならぬ。これまで導いた道は、過去の叡智を摂り入れ先駆者に学ぶ必要があると観たからである。地上とわれらの世界との交霊関係の正道を歩まんとする者は、その最も通俗的な現象面にまとわりつく愚行と欺瞞によりて痛撃を食らうであろうことは、早くより予期していた。愚行と欺瞞が横行するであろう時を覚悟して待ち、これに備えてきた。その学問には過去の神秘学と同じく二つの側面があり、またそうあらねばならぬことを教えたく思う。一つの側面を卒業した今、そなたはもう一つの側面を理解せねばならぬ。
そのためには、人間と交信せんとする霊が如何なる素性の者であるかを知らねばならぬ。それを
(†インペレーター)
〔注〕
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具体的に何のことかは述べられていないが、歴史的にみて、ほぼ30年後の第一次世界大戦、さらには、50年後の第二次大戦も含めてのことと推測される。
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ルカ22・・53。“お前たち”とは、イエスを捕縛に来た兵士と裏切り者のユダたちを指すが、それは同時に背後の邪霊集団を意味している。
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詩篇30・・5。
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イザヤ書35・・10。
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Mount Hermon シリアとレバノンの間に位置するアンチレバノン山脈の最高峰。
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ヨハネ黙示録21・・11~21。
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Sodom apples 外観は美しいが口に入れると灰に化すと伝えられるリンゴで、失望の種子、幻滅を意味する。
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記念・道標などとしてピラミッド型に積み上げた石塚。