26節

〔一八七四年一月十八日。この日までの相当期間ずっと通信が途絶え、新しい局面に入りつつあるようでもあり、また、私が例の(身元確認の)問題について猜疑心を棄て切れずにいるために霊側が一切手を引いたようにも思えた。この猜疑心が何かにつけて障害となり、この自動書記通信だけでなくサークルによる交霊会にも支障を来していた。

それが突如この日になって様子が一変し、新たな指示と共に一種の回顧のようなものが綴られた。その中から私的な問題に係わらない部分を紹介する。〕

ここで、これまでわれらがそなたを導かんと努力して来た跡を振り返ってみるのも無駄ではあるまい。少なくともわれらが述べて来たことを詳細に検討し直し、われらが計画している広大なる真理の視界を見渡してみるよう勧めたい。そうすればそなたがこれまで抱き続けて来たものより遙かに崇高なる神の観念が説かれていることを知るであろう。そなたが重ねて証拠や実験を求めて来た反論に対しても、われらは無益と思いつつも一つ一つ応対してきた。それでもなおかつ心に巣くう猜疑心を拭い去ることを得なかったのは、そなたの猜疑的態度がもはや一つの習性となり、その猜疑心のもやを突き抜ける機会を滅多に見出し得なかったからに他ならぬ。そなたは自らを突き抜けることの出来ぬとばりで包み込んでいる。その帳が上がるのは時たまでしかない。

われらはむしろ、そうしたそなたとわれらとの関わり合いをつぶさに見て来たサークルの同志の扱いにおいて成功したと言える。われらはそれを究極における成功を暗示する証であると見なし、感謝しているところである。つまりそなたの、その、他を寄せつけぬ猜疑に満ちた精神状態をも最後には解きほぐすことが出来ることであろう。そなたとしてはいかに真剣なる気持とはいえ、われらが大義名分とせるものを受けつけようとせぬ心を得心させる証拠を持ち合わせぬことが、われらの仕事の最大の障害となっている。殊にわれらの障害となる条件をも頭から無視して執拗に要求する特別の実験は、応じようにもまずもって応じられぬだけに、なおさら大なる障害となる。これは是非ともよく理解し心しておいてほしいことである。猜疑心から実験を計画し、われらを罠にはめんとするが如き魂胆は、その計画自体を破壊してしまうことであろう。もしもわれがそなたが怪しむが如きいかがわしい存在であるならば、そのような悪魔の使者とはこれ以上関わり合わぬがよかろう。が、若しそういうつもりはないと言うのであれば、潔くその不信の念を棄て去り、率直さと受容性に満ちた雰囲気を出して欲しく思う。たとえ僅かの間であっても素直な心で交わるほうが、今のその頑な猜疑に満ちた心で何年もの長きに亙って交わるより遙かに有益な成果を産み出すことであろう。われらはそなたがいぶかっているが如く、そなたの要求に応じたくないのではない。応じられぬのである。サークルの同志からの筋の通れる要求は大事に取ってある。仮に要求どおりの対応が出来なければ、またの機会に何とか致そう。これまでのそなたとの関わり合いを振り返れば、われらが常にそうしてきていることが判るであろう。それが交霊の一般的原理なのである。

さらに、そなたがしつこくこだわっているところの、そなたの指図に基づく実験を仮に特別な証拠的情報を提供するという形で催した場合、たとえそなたの思惑どおりに運んだとしても、その情報は十中八九、そなたの意念とサークルの意念との混同によって不完全にして信頼のおけぬものとなろう。そして結局はそなたの目的は挫折するであろう。が、証拠ならばすでにわれらに出来得るかぎりのものを提供してきた。そなたのこだわっている問題、すなわち霊の身元確認の問題も最近一度ならずその証拠となるものを提供しており、そなたもその価値を渋々ながら認めている。

このところわれらは、これまで以上の働きかけは控えている。が、これまでのわれらの為せるところを振り返ってくれれば、同志とのサークル活動においても、またこうしたそなただけとの交霊においても、あくまで完全なる受容的態度を維持するように努め、そなたの理性的判断に基づいて受け入れるべきは受け入れ、拒否すべきは拒否し、最終的判断はまたの機会までお預けにせよとのわれらの助言が当を得ていたことが納得して貰えるものと信ずる。証拠にも段階があることを忘れてはならぬ。そして、それ自体は無意味と思われるものでも、それ以前の、あるいはその後の事実または言説によって大幅にその価値を増すことも有り得ることを心しておかれたい。

今のそなたには如何にも曖昧に思えることも、これよりずっと後になって明確にされることも有り得る。そして長期間に亙って積み重ねたる数々の証拠が日を追ってその価値を増すことにもなる。平凡な成果にせよ特殊な成果にせよ、こうして語りかけるわれらの誠意が一定不変であることが何よりも雄弁にその事実を物語っていよう。少なくとも、われらがそなたをたぶらかしているとは言い得ぬであろう。われらは断じて邪悪な影響を及ぼしてはいない。われらの言葉には真実味と厳粛さとが籠っている。われらこそ神の福音を説く者であり、そなたの必要性に合わせ、そなたの啓発を意図しつつ説いている。

故に、そのわれらが、果たして致命的かつ永遠の重要性をもつ問題についてそなたを誑かさんとする者であるか否かはそなたみずからが責任をもって判断すべきことであり、われらの関与し得るところではない。これほどの証拠と論理的帰結を前にしながら、敢えてわれらを邪霊の類と決断する者はよほど精神の倒錯せる理性なき人間であり、およそそなたの如き、われらを知る人間のすることではあるまい。われらの言葉を篤と吟味せよ。神の導きのあらんことを。

(†インペレーター)

〔この頃を境に、死後の存続を納得させる証拠が次々と出て来た。それについては細かく述べていると霊訓の流れかられる恐れがあるので控える。あるものは筆記の形で来た。筆跡、綴り方、用語などが生前そのままに再現されていった。私の指導霊によって口頭で伝えられたものもある。ラップで送られてきたこともある。また私の霊視で確認したものもある。このように手段はさまざまであったが、一つだけ一致する特徴があった。述べられた事実が正確そのもので、間違いが何一つ見出せなかったことである。その大部分はわれわれサークルのメンバーには名前しか知られていない人物、時には名前すら知られない人物であった。友人や知人の場合もあった。それがかなりの長期間にわたって続けられたが、それと並行して私の霊視能力が急速に発達しはじめ、他界した友人と長々と話を交わす(1)ことが出来るようになった。私の潜在能力が開発されたらしく、情報が与えられたあとそれを霊視によって確認させてくれたりした。その霊視力はますます威力を増していき、ついには霊的身体が肉体から離れて行動しながら(2)実に鮮明な映像を見るようになった。その中には地上のものでないシーンの中で意識的に生活し行動する場面もあり、またドラマチックな劇画のようなものが私の目の前で演じられることもあった。その内容は明らかに何らかの霊的真理ないし教訓を伝えようとするものであった。が、そうした映像と関連した証拠によってその真実性を得心することが出来たのは二つだけであった。と言うのも、映像を見る時の私は必ず入神しており、自分が目撃しているものが果たして実際にそこに存在するのか、それとも私の主観に過ぎないのかの判断が出来なかったからで、その二つだけは後で具体的証拠によって実在を確認することが出来たということである。その二つの場合の光景は本物であったわけであるが、他の全ての映像も本物であったと信じている。が、ここはそうした問題を詮索する場ではない。思うに、こうした映像は私の霊的教育の一環であったと認めざるを得ない。霊側は私の霊視したものが実在であることを示さんとしたのであり、潜在的霊能が開発されたのは、肉眼で見えないものの存在を教え確信させようとする目的があったということである。

この一月(一八七四年)にはスピーア博士のご子息(3)のまわりに発生していた霊現象に関連した通信の幾つかが活字となって発表された。ご子息の音楽的才能を発達させるためであることを知らされていた。通信は前年の四月十四日と九月十二日に書かれたものであった。そして二月一日に私から出した質問がきっかけとなってさらに情報が送られて来た。プライベートな事柄を述べた後、次のように書かれた(4)――

昨夜の雰囲気は音楽には良くなかった。あなたはまだ良い音楽の出る条件をご存知ない。霊界の音楽を聞くまでは音のもつ本当の美しさは分からないであろう。音楽も地上の賢人が考えるより遙かに、われわれがよく口にする霊的条件の影響を受けているものである。地上なりに最高の音楽を出すためにも霊的要素がうまく調和しないといけない。調和した時にはじめてインスピレーションが閃めく。スピーア少年が師匠の指導を受けていた部屋は雰囲気が乱れていた。それで成果は良くなかったと言ったのである。音楽家も演説家と同じである。演説家の口から音楽が出るに先立って聴衆との霊的調和が出来ていないといけない。それは演説家は直感的に感じ取るのであるが、往々にしてその繋がりが出来ていなくてインスピレーションが演説家と聴衆との間の磁気的連鎖網を伝わらないために言葉が死んでしまって、まるで訴える力をもっていないことに気づいていない。最高の成果が得られるのは音楽家なり演説家なりが背後霊団に囲まれて、本人の思念または本人に送られてくる思念がその影響で純化され、調和し、霊性を賦与された時である。

言葉でも、冷たくぞんざいに発せられたものと心を込めて発せられたものとでは大いに違うように、音楽も全く同じことが言える。音はあっても魂が籠っていない。聞いていると、理由は分からなくても、何となく心に訴えるものがないことに気づくのである。冷ややかで、平凡で、薄っぺらな感じで、ただの音でしかない。物足らなさを感じる。一方魂の籠ったメロディーは、地上より遙かに美しく純粋なる霊界の思念を物語っていて、豊かな充実感を覚えさせる。霊の叫びが直接霊へと響くのである。魂がみなぎり、いかに反応の鈍い人間にも訴える無形の言葉を有している。その言葉が魂に伝わり、魂はそれによって身体的感覚を鎮められ、乱れた心に調和をもたらせる。生命なき音が音楽の魂を吹き込まれて鼓動を始める。聞く者は心の充実を覚える。それは正に地上の肉体と、天国へ舞い上がる霊魂の差である。物質的・地上的なものと、天上的・霊的なものとの差である。大聴衆を前にした音楽会において真の音楽の聞かれる条件が滅多に整わないのはそのためである。聞き取りにくい霊の声を明確に述べさせたいのであれば、もっと調和のある雰囲気を作り出すことである。

〔この通信には二人の世界的作曲家(5)と、他に数名の私の知人の署名が(生前そのままに)付してあった。〕

〔注〕

  • (1)

    意念による以心伝心的交信。霊界では全てがこれによって行なわれる。

  • (2)

    幽体離脱現象。

  • (3)

    モーゼスは九年間に亙ってこの子の家庭教師をしている。

  • (4)

    インペレーターではなく、地上で音楽家だった複数の霊による。

  • (5)

    本書に付したモーゼスの自動書記ノートの写真から判断すると、その二人はベートーベンとメンデルスゾーンであろう。

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