(4)代表的な霊界通信
①スウェーデンボルグの『霊界探訪記』
霊界研究の歴史を語るとき、真っ先に名前を挙げなくてはならないのが「エマヌエル・スウェーデンボルグ」です。普通、霊界通信では、霊界から送られてくるメッセージを地上の霊媒が受け取るものですが、彼の場合は、高級霊の助けを借りて“幽体離脱”した本人自身が霊界に赴き、そこで見聞きしてきたことを本に著しました。これがスウェーデンボルグの『霊界探訪記』です。
時代は近代スピリチュアリズムの発生期を
彼はこうした体験に基づいて晩年に、十六冊の大著を書き記しました。科学者としての丹念な分析と論理性を持った死後の世界観は、それまでのキリスト教の考えを根本から覆すような画期的なものでした。それは死後の世界を初めて科学者の目を通して研究したもので、人類思想史上に大きな足跡を遺すことになりました。彼の霊界探訪記の内容は、今日のスピリチュアリズムと比較しても大枠で一致しています。ただ時代的影響を完全に払拭することができなかったために、その貴重な体験と見事な分析にもかかわらず、依然としてキリスト教の影響が多く残っており、記述内容が今ひとつ正確さに欠けるきらいがあります。
※――スウェーデンボルグのような体験(幽体離脱しての霊界訪問)は、きわめて稀なことのように思われるかもしれませんが、実は大半の人間が、睡眠中にたびたび同じような体験をしています。ただ目覚めたときに、その体験を思い出せないだけなのです。人によっては深い催眠状態に誘導すると、睡眠中の体験を思い出すことがあります。
スウェーデンボルグの場合は、背後霊によって幽体離脱中の記憶が失われないように配慮されていたものと思われます。
②リンカーンと霊界通信
アメリカ大統領リンカーンが、霊界通信に大きな関心を寄せていたことはよく知られています。ここではそれにまつわるエピソードを一つ紹介します。
南北戦争が始まった一八六一年(*フォックス家事件の十三年後)から三年間、リンカーンは、ネッティ・コルバーンという若い女性霊媒と交流しています。交霊会には常に大勢の同席者がいました。初めての交霊会で霊側はリンカーンに、一時間以上にわたって国事についてのアドバイスをしました。霊媒ネッティに意識が戻ると、リンカーンは彼女に向かって次のように言いました――「あなたはたいへん非凡な才能をお持ちのようですが、それが神から与えられたものであることに、私は一点の疑いも抱いていません。おそらく私は、ここにいる誰よりも、今あなたを通して伝えられた内容の重要性を理解しているつもりです……」
霊側がリンカーンに勧めたアドバイスの一つは、奴隷解放の実施を遅らせないことでした。彼は結果的にそのアドバイス(霊界通信)に従って、六百万人の奴隷を解放しました。また霊側は、南北戦争で士気の低下した北軍兵士を元気づける一番の方法は、大統領自らフレデリックスバーグの前線に赴くことであると説得しました。リンカーンがそれを実行に移すと、兵士たちの戦意が驚くほど向上しました。
③アラン・カルデックと『霊の書』『霊媒の書』
フォックス家事件から六年後の一八五四年、フランス人アラン・カルデックは、知人を介してターンテーブルを用いた交霊会に参加しました。これを契機として他の交霊会に参加するうちに、彼は心霊現象(霊界通信)に関心を持つようになり、やがて霊界通信の研究を本格化させるようになっていきます。
カルデックは、さまざまな交霊会を通して届けられた霊界通信の内容を徹底して比較照合し、霊的知識の体系化をはかりました。複数の霊界通信の内容を厳格に吟味し、霊的知識の全体像をつくり上げようとしたのです。カルデックが数々の質問を霊側に投げかけ、それに霊が答えるという形式で、彼の代表作『霊の書』の原稿が書き上げられました。指導霊「聖ルイ」の指導とチェックを受ける中で、原稿は何度も手直しされ、最終的に一八五七年に完成し『霊の書』として刊行されることになりました。
『霊の書』という名前は、カルデックの指導霊「聖ルイ」(*名君と言われたルイ九世)による命名です。その中には、スピリチュアリズムの思想に関するほとんどすべてのテーマが取り上げられており、まさにスピリチュアリズムの思想の完成した体系と言えます。英国が心霊現象の研究を中心としていたとき、すでにフランスでは、カルデックによってスピリチュアリズムの思想がほぼ完成の域にまで到達していたということは驚き以外の何ものでもありません。『霊の書』は、霊界側から組織的・計画的にもたらされた全人類向けの高級霊界通信の第一号です。それはスピリチュアリズム史上、文句なしの第一級の霊界通信であり“世界三大霊訓”の一つに数えられます。
『霊の書』に示されたスピリチュアリズムの思想の特徴は「輪廻再生」です。当時の英国スピリチュアリズムの主流が再生否定論であったことにより、カルデックの業績は英国では認められませんでした。『霊の書』はフランス語で発表されたため、その後、フランス・イタリア・スペイン・ブラジルといったラテン系国民の間に広まることになりました。特にブラジルでは、その信奉者が二千万人にも達したと言われ、空前の影響力を持つことになりました。
カルデックには『霊の書』以外に、『霊媒の書』というきわめて優れた編集書もあります。これは心霊現象を、霊界側から詳細に解説したものです。これに相当するような心霊現象の解説書は、現在に至るまで現れていません。この意味で『霊媒の書』は“心霊現象に関するバイブル”と言ってもよいほどの価値を持っています。
④ステイントン・モーゼスと『霊訓』
十九世紀後半、英国に登場した「ステイントン・モーゼス」は、この世紀における最高の大霊媒でした。通信霊は「インペレーター」と名乗る古代人の高級霊です。モーゼスがインペレーター霊の地上時代の名前を無理やり聞き出したところ、旧約聖書時代の預言者「マラキ」であることが明らかにされました。
霊界側は総勢四十九人からなる霊団を組織して、それぞれの役割分担のもとで通信に臨んでいました。その霊団の司令官(責任者)がインペレーターでした。インペレーターとは“司令官”を意味する英語名で、言うまでもなく仮の名前です。インペレーター以外の霊も時々通信を送ってくることがありましたが、そうした場合でも署名はみな仮の名前で、地上時代の名前は用いませんでした。
霊媒モーゼスは、オックスフォード大学神学部に学んだ英国国教会の牧師でしたが、二十九歳のときに重病を患いスピーアという医師に世話になったのがきっかけで、霊的能力を発揮するようになりました。モーゼスは一般の霊媒のようにトランス状態に入らずに、通常意識を保ったままで「自動書記通信」を行うことができました。彼の腕がひとりでに動いて、インペレーターからの通信文が綴られたのです。
ところが霊界側から送られてくるものは、キリスト教の教義と真っ向から対立する内容で、従来のキリスト教の教義を根本から覆すようなもの(*原罪の否定・イエスの贖罪の否定・三位一体の否定)であったため、モーゼスは猛烈に反発します。霊界側と地上の牧師モーゼスとの間に激しい論争が、ほぼ十年近くにわたって続くことになりました。その間、モーゼスのあまりの
こうしたやりとりの中から、モーゼスが教訓的な内容を選んでまとめたものが一八八三年に『霊訓』として出版されました。この『霊訓』は、まさに霊訓(霊の教え)中の霊訓と言うべき第一級の霊界通信であり、“世界三大霊訓”の一つに数えられています。『霊訓』は、現在に至るまで多くのスピリチュアリストを信仰へと導き“スピリチュアリズムのバイブル”と呼ばれています。
⑤オリバー・ロッジと息子レイモンド霊
オリバー・ロッジ卿は、二十世紀前半の英国の著名な科学者であり、同時に哲学者でもありました。後述するマイヤースとも親交があり、SPR(英国心霊研究協会)の会長も務め、早くから死後の世界や霊魂の存在を信じていました。
その彼の息子レイモンドが、一九一五年、第一次大戦に参戦して戦死しました。やがて他界した息子から通信が送られてくるようになります。ロッジは、当時の有名な霊媒を数人用いて別々に入手した情報を詳細にチェックし、通信霊が間違いなく息子のレイモンドであることを確信するようになります。
こうして地上の父親と霊界にいる息子との間で、霊界通信が始まりました。ロッジはその霊界通信の内容を『レイモンド』の書名で出版し、大反響を巻き起こしました。霊界にいる聡明な息子と、必死に真理を求める地上の父親との間でやりとりされた真剣で愛情あふれる内容は、多くの人々――とりわけロッジと同じように戦争で愛する人を失った人々に感動と励ましを与えました。
この霊界通信は非常に信頼度の高いものとして評価され、霊媒を務めたレナード夫人は、二十世紀を代表する霊媒の一人と言われるようになりました。
⑥マイヤース霊からの霊界通信『永遠の大道』『個人的存在の彼方』
英国の古典学者で詩人だった「フレデリック・マイヤース」は、スピリチュアリズム発生時とほぼ時を同じくして生まれ、一九〇一年に亡くなりましたが、生前はきわめて優れた学者であり、同時に霊界通信の研究者としてもよく知られていました。彼は、『霊訓』のモーゼスとともにSPR(英国心霊研究協会)を設立するなど、スピリチュアリズム普及のために大きな功績を残しています。
マイヤースは一九〇〇年にSPRの会長に就任し、翌年ローマで
三人の霊媒が別々に受け取った通信内容を照らし合わせてみると、先の二人の文は、最後の霊媒が書いた通信文の中に含まれています。これは「近いうちに十字通信をやる」と予告したマイヤース本人が通信霊である証拠となります。これが有名なマイヤースの十字通信です。彼はこのようにして手の込んだ方法で自分自身の身元を証明した後に、霊界から通信を送り始めました。この一件からしても、マイヤースによる通信は、非常に信頼度の高いものであることが分かります。やがてマイヤース霊は、地上の霊媒カミンズ女史を通じて、死後の世界を探求した研究成果を送ってくるようになります。それを著したのが『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』です。
生前からスピリチュアリストであり学者であった人物が、他界後あの世から送ってきた通信はきわめて学究的で、さまざまな高次の思想問題に言及しています。その中でも特に、彼によって初めて明らかにされた「類魂(グループ・ソウル)」の詳細な事実は、その後のスピリチュアリズムの思想研究に大きな発展をもたらすことになりました。
⑦ウィリアム・ステッドからの霊界通信『ブルーアイランド』
英国人ジャーナリストで心霊研究家であった「ウィリアム・ステッド」は、すでに他界していたジュリア・エイムズという友人からの通信を自動書記によって受け取り、それを『死後――ジュリアからの音信』のタイトルで出版し、大反響を巻き起こしました。
そのステッドは、世界最大の海難事故として有名な“タイタニック号事件(一九一二年)”で他界し、やがて霊界から通信を送ってくるようになりました。彼の霊界通信には、生前ジャーナリストであった特徴がよく出ており、きわめて客観性に富んだ、見事な死後の世界の現地報告となっています。
通信内容は、死の直後にすべての人が赴く世界(幽界と呼ばれる世界)の様子が中心的に述べられています。幽界は全体的にブルーがかって映るため、彼はこの世界を“ブルーアイランド”と呼びました。ステッドからの霊界通信は『ブルーアイランド』のタイトルで出版され、英国内に大きなセンセーションを引き起こしました。
⑧霊媒モーリス・バーバネルと『シルバーバーチの霊訓』
一九二〇年頃、ロンドンの青年実業家「モーリス・バーバネル」に、トランス状態下でインディアンなまりの英語をしゃべるという現象が起きるようになりました。最初のうちは、たまたまバーバネルの家に集まっていた三、四人の知人がそれを聞くだけでしたが、やがて当時の英国ジャーナリズム界の法王的存在であったハンネン・スワッファーが訪れているときに、その現象が起きました。霊界からのメッセージを聞いたスワッファーは、その通信内容の次元の高さを直感し、毎週一回、自宅で定期的に交霊会を行うことを提案しました。こうして世紀的な交霊会「ハンネン・スワッファー・ホームサークル」が始まることになったのです。
その交霊会の通信霊は、自らを「シルバーバーチ(白樺の意味)」と名乗りましたが、それはむろん仮の名前です。通信霊は、三千年前に地上で生活を送った古代霊であることまでは明らかにしましたが、それ以上のことについては交霊会のメンバーが何度尋ねても、とうとう明かすことはありませんでした。シルバーバーチは―「霊界において、この度の地上人類の“霊的啓蒙・霊的浄化”のための大事業(スピリチュアリズム)への参加を要請され、霊的真理を説く仕事に携わることになった」と述べています。
シルバーバーチのように地上の波動から完全に縁が切れた高い界層世界にいる超高級霊にとって、直接地上の霊媒にコンタクトすることは不可能です。あまりにも霊的レベルが違い過ぎて接触ができないのです。そこで幽界に、他界後それほど時間の経っていないインディアンを「霊界側の霊媒」として立て、このインディアン霊の霊体を使用して、地上の霊媒バーバネルに通信を送ることになりました。以来、バーバネルが他界する一九八一年までの六十年間にわたり、週一回のペース(*晩年は月一回、やがてそれも不定期になりました)で霊界通信が続けられました。
その間に語られた通信内容は、『シルバーバーチの霊訓』として出版されるようになりました。その『シルバーバーチの霊訓』は、スピリチュアリズム史上における最高の霊界通信として世界中の多くの人々に愛読されています。『シルバーバーチの霊訓』は、モーゼスの『霊訓』、カルデックの『霊の書』とともに“世界三大霊訓”に数えられています。それは、まさに二十世紀最大の人類の文化的遺産と言っても過言ではありません。