はじめに
霊的なものへの関心と心霊ブーム
ここ数十年間、心霊世界に対する人々の関心は非常に高まってきました。書店に行けば、必ずといってよいほど心霊書・予言書のコーナーが設けられ、従来の宗教書に匹敵する多くの本が並べられています。まさに心霊書の洪水といった様相を呈しています。また最近ではテレビで、超能力者や霊能者の登場する番組が増え、高い視聴率を上げています。こうした心霊番組は、各テレビ局における視聴率の手っ取り早い稼ぎ手として重宝がられています。このような動きの中で「霊」という言葉が一般社会に広く行きわたるようになり、今では決して特別な用語ではなくなっています。大人ばかりでなく子供も含めて、誰もが当たり前に「霊」「霊界」という言葉を用いるようになっています。現在は、ちょっとした“心霊ブーム”と言えます。
一九九一年のNHKの調査では、来世を信じる人は十二パーセントにとどまっていましたが、一九九九年の別の調査によれば、死後の世界を信じる人は五十一パーセント、輪廻再生を信じる人は五十六パーセント、霊魂の存在を信じる人は六十パーセントに上っています。この傾向は、若者ではさらに顕著になります。一九九二年の大学生を対象とした調査では、死後の世界については七十パーセント、星占いについては四十三パーセントの人が信じると答えています。また一九九五年の同じく大学生を対象とした調査では、あの世・来世を信じる人は六十三・五パーセントであることが明らかにされています。こうした世論調査の結果は、現在が“心霊ブーム”であることを示しています。
現代人の霊的世界に対する意識の高まりは、日本だけの現象ではなく、欧米においても等しく見られ、その事実は客観的な調査結果によっても確認されています。一九八〇年の米国ギャラップ世論調査によると、アメリカ人の七十一パーセントが来世を信じているという結果が出ています。またその後の世論研究協議会の調査では、アメリカの成人の四十二パーセントが、すでに死んだ誰かとの接触を持ったと信じていることが報告されています。このうち七十八パーセントの人が死者の姿を見、五十パーセントの人が死者の声を聞き、十八パーセントの人が死者と会話をしたということです。
一方、宗教世界に目を転じてみると、従来の既成宗教(仏教・キリスト教・神道)の教える死生観は人々の関心を失い、それに代わって歴史の浅い新宗教や新新宗教の教えが、人々の心を強く惹きつけるようになっています。新新宗教では、旧来のお伽噺風の死生観・教訓的意味合いの作り話的な死後世界像から、知的に満足できる新しい死生観・死後観を提示し、多くの信者を獲得するようになっています。
海外では、アメリカ西海岸から始まった“ニューエイジ運動”の存在が際立っています。ニューエイジは、一九六〇年以降の精神的・霊的世界に関わる大きな動きです。ニューエイジは、キリスト教を土台とする西洋文明の行き詰まりを打開する方向性として、アジアの精神文明・宗教に注目し、それらを西洋社会に取り入れることで新しい精神世界を確立しようとしました。このように欧米においてアジア文明の再評価がなされると同時に、アメリカ先住のレッド・インディアンの精神文化にも関心が向けられるようになりました。そうした動きの中で生じてきた“チャネリング”と呼ばれる霊媒現象に人々の注目が集まるようになり、この「霊媒現象」が、従来のキリスト教の教義に根本的な挑戦状を突きつけることになったのです。
これまでキリスト教は、心霊現象をすべて“サタンの仕業”と決めつけ迫害してきました。しかし現代社会において次々と発生している実際の現象を前に、もはやこれまでのような一方的な非難・攻撃は通用しません。今や伝統的なキリスト教の死生観・霊魂観は、根本から大きく揺さぶられるようになっています。
死と霊の問題は、人類共通の普遍的テーマ
そもそもなぜ“心霊ブーム”が起きるのでしょうか。それは人々が、死後の世界や前世・守護霊・未来予知・あの世からのメッセージといった「霊」に関する事柄に興味を持っているからです。もしこうしたものに関心や興味がなければ、メディアがいかに上手な仕掛けをしても、ブームは起きなかったでしょう。霊や霊界への強い好奇心が、ブームを燃え立たせる燃料となっているのです。心霊ブームの底辺には、人々の死や霊魂に対する強い関心があります。
少し難しい言い方をすれば、人間の心には、死生観(死とは何か?)・死後観(死後の世界とは何か?)・霊魂観(霊魂とは何か?)という根源的な問いかけが存在しているということです。そうした普遍的テーマが、常に人間の心に内在しているのです。人間が死や霊に関心を持つのは、それらが人間存在の本質そのものに関わっていることだからです。人間が霊的存在であるために、その本性からごく当たり前に滲み出てくるのです。死や霊について意識的に考えないようにしたり無視することは、自然な霊性の芽を自ら摘み取ることになってしまいます。死を恐れ、死を悲しみ、死後の世界に思いをめぐらす――これは動物にはない人間だけの特性です。まさにそれこそが、人間が「霊的存在」であることの証明と言えるのです。
こうした死生観・死後観・霊魂観といった人類共通の根源的な問題の答えを、人々はこれまで宗教に求めてきました。死への恐れを、宗教にすがって乗り越えようとしてきました。死後の世界に対する疑問を、宗教によって解決しようとしてきたのです。したがって地球上の大半の宗教が、死の問題を教義の中心に据えています。死の問題を語らない宗教は、ほとんど存在しないと言っても過言ではありません。もし宗教から死の問題を取り上げたなら、後に残るのは単なる倫理・道徳の
死という乗り越えることができない壁、どうしても避けられない宿命に、人々は宗教を通して立ち向かってきました。死という物質次元の有限性を打ち破ろうとしてきました。人類の誕生とともに常に宗教は存在してきましたが、それは人類の心の中に、永遠に対する切々たる願望があったからです。人間が生命を
もし死によって、すべてが消滅するなら?
――「唯物主義」のもたらすもの
宗教は、人間は死によって消滅してしまうものではないと主張してきました。宗教は、死の彼方にも自分という自我は存在し続けるとします。そうした考え方を前提にして、宗教は死の問題の解決をはかってきました。その意味で宗教は“唯物論”と正反対の立場にあります。
ここで、もし死によってすべてがなくなってしまうとするなら、すなわち唯物論者の言うことが正しいとするなら、現実の世界はどのようになってしまうのかを考えてみることにしましょう。「あと半年しか生命がないとするなら……」――
死によってすべてのものが消滅してしまうとするなら、おそらく大半の人間は「できるだけ楽しいことをしよう。少しでも心地よいこと・嬉しいことをして過ごさなければ損だ」と思うようになるでしょう。そして
死によってすべてが消滅するという「唯物主義」が事実であるとするなら、人間社会は間違いなく本能的快楽主義・金権主義・物質中心主義、そして利己主義という弱肉強食の世界をつくり出すことになります。“自分さえよければそれでいい”という「利己主義(エゴイズム)」の嵐が社会全体を覆うことになります。すべての人が物質的喜び・本能的喜びを最優先して求めるようになると、本能的快楽主義・刹那的快楽主義が社会全体を支配し、“金権主義”が蔓延するようになるのです。そして“
今や多くの現代人にとって価値のあるものとは、自分に本能的快楽と喜びを与えてくれるモノと金に他なりません。力のある者とは、お金を持っている人間のことであると考えています。人々は、自分の快楽を自由に求めることができる金持ちを心の中では軽蔑しながらも、その一方では
自殺は、なぜ間違っているのか?
もし死によってすべてが無に帰してしまうとするなら、自殺はそれほど悪い行為とは言えないことになるのかもしれません。遺族に迷惑をかけ、心に傷を負わせるといったことがなければ、自殺を肯定する人間の言い分にも一理があり、正当性があるように映ります。自殺は、それほど大きな罪ではないようにも思えます。病気によって耐えがたいほどの肉体の苦しみを抱えていたり、生活苦や金銭苦のどん底で将来に対して何の希望も持てないようなときには、フッと“自殺”が脳裏をよぎるようになります。人間はあまりの苦しみの中に立たされると、次のように思うものです――「人間は皆、いずれ死んでいく。あと三十年もすれば自分も友人も皆、死んでいるはずである。ひょっとしたら十年先には、自分はもう死んでいるかもしれない。遅かれ早かれ死ぬことになるのなら、今死んでも少しばかりあとで死んでも大差はない。苦しいだけの人生なら、いっそのこと早く死んだ方がましだ……」と。
もし自分の身内が、こうした考えにとらわれるようになったとき、あなたはその人を、どのようにして思いとどまらせることができるでしょうか。死によってすべてがなくなるとするなら、自殺はそれほど間違ったことではないのかもしれません。人間は早晩、死ぬことは避けられません。そうした現実を前にして、少々早く死ぬことを自分で選んだとしても、どのような理由でそれが“悪”とされるのでしょうか。いったい誰が、こうした考えを押しとどめることができるのでしょうか。
説得力を失った従来の伝統宗教
宗教は本来、“唯物論”とは全く反対の立場にあります。宗教は、死によってすべてが終わるのではないと主張してきました。その主張を人々が納得して受け入れるとするなら、本能的快楽主義への歯止めがかけられることになります。物質だけに価値をおくようなことはなくなり、“自分さえよければそれでいい”といった露骨な「利己主義」を社会から駆逐することができるようになります。
現代人が死や死後の世界について考えるとき真っ先に問題とするのは、これまで宗教で言われてきたような内容が本当であるのかどうか、事実であるのかどうか、ということです。話の内容が真実であると感じられるなら説得力を持つことになりますが、従来の宗教の教えでは、現代人の知性に十分な満足を与えることは難しくなっています。死後の世界の存在を事実であると信じさせることはできなくなっています。
従来の宗教の教え(死生観・死後観・霊魂観)では、科学時代に生きる人間の心をとらえることはできません。これまで宗教で言われてきたような死後の世界を、現代人はもはや受け入れることはできません。その結果、急速に伝統宗教離れが進むようになっています。従来の伝統宗教は、死の問題を現代人の知性に合った形で説明することができなくなっています。
今のように科学が発達していなかった時代には、人々は宗教の教えをそのまま信じてきました。そのため宗教は、権威を維持することができたのです。しかし現代は、すでにそうした状況にはありません。人々は時代遅れとなった教えを唱え続けている宗教に見切りをつけ、自分の知性が納得できる道を探し求めるようになっています。キリスト教は、観念的な死生観・死後観を説くだけです。さらには心霊現象のすべてを“サタンの仕業”と決めつけて、心霊現象についてまともに論じる力さえ持ち合わせていません。その結果、多くの人々がキリスト教から、新しい死生観・霊魂観を唱える“ニューエイジ”へと移っていくことになりました。
死の問題・霊の問題に対する説得力を失った伝統宗教は、現代人の心をとらえることができずに信頼をなくしました。それが信者離れを引き起こし、新新宗教などの新しい宗教の力を大きくすることになりました。
“スピリチュアリズム”の登場
人々の心が伝統宗教から離れつつあった十九世紀半ば、欧米からスピリチュアリズム運動が始まりました。そしてその後、スピリチュアリズムは瞬く間に、欧米諸国を巻き込んだ一大運動に発展していきました。
“スピリチュアリズム”は、人類の共通テーマであり宗教が使命としてきた「死と霊に関する問題(死生観・死後観・霊魂観)」を現代において正面から取り上げ、それを現代人の知性が満足できるような形で示そうとする運動です。従来の宗教が説得力をなくした死生観・死後観・霊魂観を明確に解き明かし、現代人が失いかけている健全な霊性・精神性・知性を復興することを目的としています。しかも、それを従来の宗教のような形式をとらずに達成しようとする「心霊啓蒙運動・霊性復興運動」なのです。
“スピリチュアリズム”の呼称について
これまで日本では、スピリチュアリズム(spiritualism)は“心霊主義”と訳されてきました。しかし心霊主義という訳語では、スピリチュアリズム本来の内容を正確に言い表すことができないだけでなく、むしろ反対に狭く偏ったイメージを与えてしまうことになります。そのため本書では、英語の原語をそのまま踏襲して“スピリチュアリズム”と呼ぶことにします。
本書の目的と構成
本書は、スピリチュアリズムについて正しく理解していただくことを目的としています。本書では、さまざまな角度からスピリチュアリズムについて解説し、スピリチュアリズムの全体像(アウトライン)を分かりやすく説明しています。
本書は大きく二部に分かれています。前半ではスピリチュアリズムの始まりとその後の歩み、すなわち「スピリチュアリズムの歴史」を取り上げています。後半ではスピリチュアリズムによってもたらされた思想――「霊的真理と霊的知識」を取り上げています。
改訂版(新版)について
『スピリチュアリズム入門』の発行から、すでに十年が過ぎました。初めはスピリチュアリズムに関心を持った方々に正しく理解していただきたいとの思いから、内容の吟味も十分でないまま出版に踏み出すことになってしまいました。自費出版ということもあり、当初は初版のみで終わるであろうと考えていました。
しかしその後、ニューズレターを創刊して「シルバーバーチの霊訓」の宣伝をしていくうちに、『スピリチュアリズム入門』『続スピリチュアリズム入門』を求める方が次第に増えてきました。多くの方々から、本書を通してスピリチュアリズムをしっかり理解することができるようになって本当によかったとの感謝の声が次々と寄せられる中で、いつの間にか版を重ねることになり十数年が経ってしまいました。そこでこの度の再版にあたっては内容をもう一度吟味し、曖昧な箇所には手を入れ、さらに表現方法を改めて改訂版として出すことにしました。
本書が、スピリチュアリズムを正しく理解するための手助けとなり、スピリチュアリズムへの道しるべとなることを心から願っています。
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