(5)霊的世界とのストレートな交わり(瞑想・祈り)

――霊的成長のための強力な手段

“祈り”は、霊的成長のための強力なサポート

古来より多くの宗教では瞑想や祈りが勧められてきましたが、それは体験的に、瞑想や祈りに霊的効果のあることが実感されていたからです。

スピリチュアリズムでも“祈り”の重要性を強調します。いずれの霊界通信においても、瞑想・祈りの大切さを説いています。とは言っても、祈りによって霊的成長がなされるようになるわけではありません。多く祈ったからといって霊的成長が早く達成されるわけではありません。祈りは、どこまでも霊的成長のための一つの手段にすぎません。しかし祈りは霊的人生を歩むうえで、強力な助けとなり、大きな影響力を持っています。その意味で祈りは、霊的成長をなすための不可欠な実践内容と言えます。

さて“祈り”を実践しようとすると、「どのように祈ったらよいのか?」「何を祈ったらよいのか?」「正しい祈りと間違った祈りの違いとは何か?」など、あれこれと疑問が湧いてきます。

以下では霊的真理に照らして、祈りの意義と正しい祈りの方法について見ていきます。

何のために瞑想・祈りをするのか?

――“祈りの目的”

地上世界では、肉体の鈍重さのために霊本来の力を発揮できなくなっています。地上で肉体をまとって生活するのは、重いよろいのような衣服を着て運動をしたり、潜水服を着て水中で作業をするようなものと言えます。

地上で霊的成長をなすためには、まずこの肉体(物質)の壁を打ち破り、霊的意識を心の中心にする努力(霊主肉従の努力)をしなければなりません。心を「霊主肉従」の状態にしないかぎり霊的成長は得られず、動物と等しい本能だけに支配された人生を送るようになってしまいます。こうした霊を束縛する肉体の覆いを突き破り、霊的意識を前面に出すための行為が「瞑想・祈り」なのです。

人間は正しい瞑想・祈りの実践を通して霊的意識を高め、霊主肉従という霊的コントロールの力を得ることになります。

祈りの準備段階としての“瞑想”

瞑想は、祈りに先立って日常の意識を遮断しゃだんし、霊的意識を呼び戻すもので「祈りの準備段階」と言えます。古来よりいろいろな瞑想法が説かれてきましたが、スピリチュアリズムでは、自分に合ったものを見つけ出せばよいとします。あまりった瞑想法は必要ではなく、それほど効果も期待できません。「霊主肉従」という目的を達成できるなら、どのような方法(瞑想)でもよいのです。

日常生活の喧噪けんそうから離れ、一人静かな環境に身を置いて目を閉じると、たちまち意識は霊本来の世界へと向くようになります。こうした静寂の状況に入ると、霊と霊との共鳴度が高まるため、守護霊や背後霊は霊的影響力を行使しやすくなります。「日常の物質的意識を遮断して霊的意識を覚醒する」「霊的意識を引き上げることによって守護霊や背後霊との共鳴度を高め、霊界からの援助・影響力をより強く受けられるようにする」――この二つの点に瞑想の効果は言い尽くされます。

なかなか祈りができないときには

――祈りのためのウォーミングアップ

目を閉じた瞬間に雑念が消え、霊的意識がたちどころに戻ってくるのが理想ですが、実際にはなかなかそうはいきません。日常生活でのストレスや心配ごとが重なったり、心身の疲労がたまっていると、意識の切り替えはとても難しくなります。そうしたときに無理やり祈りをしても雑念が湧いてくるばかりで、意識を集中できないまま、だらだらと時間だけが過ぎ去ってしまいます。

そのような場合には、瞑想や祈りをすることよりも「霊的真理(高級霊の霊界通信・霊訓)」をじっくりと読む方がよいのです。霊的真理が私たちの心を強力に霊的世界へといざなってくれます。真理を読み進めるうちに、やがて霊本来の意識を取り戻すことができるようになります。心が高まりすっきりしたなら、その時点で祈りの前段階としての“瞑想”の効果は、すでに得られたことになります。そこで“祈り”に入っていけば、驚くほど意識はグングンと深い世界へ引き込まれていくようになるはずです。

もし霊的真理を読んでもなかなか日常意識をふっきれないときには、次のようなさまざまな対策を講じるようにします。

  • ヨーガ・呼吸法などをする
  • 心を静め高める良い音楽を聴く
  • 自然散策・散歩などをする
  • 霊的にすっきりした人と会って話をする 霊的にすっきりした人と会って話をする霊的にすっきりした人と会って話をする
  • 水浴・断食などをする
  • 運動をして汗を流す

これらは、いずれも「霊主肉従」を推し進めるための方法です。ここで最も大切なことは、心を覆っている物質的意識と闘って勝利しようとする気迫です。日常の意識を拭い去って心がすっきりするまで、諦めずに努力し続ける忍耐が必要です。気力を振りしぼってこれらを実行してみると、必ず心は清々しくなり、明るくなっていきます。

“祈り”は、神に対する率直な語りかけ

祈りは、神に向けての率直な語りかけです。瞑想が物質世界とのつながりを遮断し、霊的意識を取り戻すことを目的としているのに対し、祈りは神に向けての働きかけであり、直接的な霊的触れ合いを求めることです。神のふところに飛び込むことなのです。

私たちの祈りは、霊界の天使や守護霊を通じて神に届きます。祈りの方法は、基本的には人間に語るのと同じです。一人の人間に向かって話しかけるのと同じようにすればよいのです。祈りの場は、まさに神と自分という「一対一の聖域」となります。

何を祈るのか?

――“祈りの内容”

さて、ここで問題となるのが「何を祈ったらよいのか?」ということです。神も守護霊も、祈る私たちの心の内をすべて知っています。私たちの霊的成長にとって必要なものや過去のカルマの内容、また今後どのような人生を歩むようになるのかも知っています。こうした相手を前にして、「いったい何を祈ったらよいのか?」ということになります。自分のすべてを知っている相手に対して、「わざわざ祈る必要があるのか?」という疑問が湧いてきます。

しかし、それでも祈りは不可欠な霊的行為なのです。祈りは、きわめて有意義な霊的実践なのです。なぜなら、それを通して確実に神との霊的触れ合いが深まり、霊的成長にとってプラスとなる、さまざまな力を与えられるようになるからです。

祈りの実践においては、神に対する最低限のマナーを守らなければなりません。まず神に祈ってよいことと悪いことがあります。自分に都合のいいご利益や霊的成長とは無関係なことを求めたり、因果律を無視したような身勝手な願い事をしてはなりません。そうした祈りは、私たちの霊的成長を願い導いてくれている神や守護霊に対して失礼にあたります。ご利益を求める祈りは“利己主義”そのものであり、霊的成長にとってマイナスになるだけの愚かしい行為です。間違った祈りは、霊的真理についての無知から生じる利己的な要求にすぎません。そのような祈りを、神がまともに受け取るはずがありません。それどころか“低級霊”のイタズラやカラカイを引き出すことになってしまいます。

この意味からすると、地球上の大半の宗教者の祈りは失格です。最低限のマナーさえ守っていないからです。正しい祈りは、霊的真理を正確に理解したうえでのみ可能となることなのです。

正しい祈りの内容とは、次のようなものです。

  • 霊的真理にそって、もっと自分の心を成長させたい。だからその道を援助してほしい
  • 魂成長のための苦しみに耐える力を与えてほしい
  • 自分の醜い心をなくし、弱い心を強くしてほしい
  • 自分の心に、もっと深い愛をやどらせてほしい
  • 周りの人々が、少しでも早く真理を受け入れ幸せになってほしい
  • 時期のきた人に出会わせてほしい
  • もっと人々のために働かせてほしい。自分を道具として役立ててほしい

こうした純粋な祈りなら、神は聞き届けてくれます。「人のために役に立ちたい、奉仕したい!」という心からの願いは、地上に神の道具となる人間が出現することを待ち望む高級霊たちを惹きつけることになります。摂理の範囲内で、最大限の導きや援助をしてくれるはずです。声に出して(小声で)祈ることは、時にはとてもよい方法となります。声に出すことで自分の考えている内容が明確になり、祈ってよいことと悪いことの区別も明瞭になるからです。

言うまでもないことですが、祈りに際しては、まず自分の心を「霊的真理」で整理しなければなりません。真理によって自分の心の中の不純な思いを払拭した後に、祈りに臨む(神に語りかける)ということです。

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