(2)利他愛の実践(人を正しく愛する)

利他愛一色の霊界

地上と霊界の際立った違いの一つは、地上世界では「利己性・自己中心性」が支配的であるのに対して、霊界では「利他性・利他愛」だけが存在しているということです。霊界では他人に与えること・先に与えることが常識となっていて、自分だけが利益を得ようとする者はいません。自分だけが愛されたい、先に愛されたいと思う人間はいません。こうした利己的な思いを持つと、たちまち心が苦痛を覚え、いたたまれなくなってしまうのです。肉体の異常は痛みとして感じられますが、霊界での利己性という“霊的罪”は、強烈な心の痛みとして迫ってきます。

一方、地上世界では、自分のことよりまず先に他人のことを考える人間は、ほとんどいません。周りの人々の幸せを真っ先に心配する人間は、稀にしか存在しません。もしそうした人間がいるなら、その人は特別な聖人として見なされるようになるでしょう。

しかし霊界では、すべての住人が地上の聖人のような人間ばかりなのです。霊界では、他人に愛を与えること・他人に尽くすことに大きな喜びと楽しさがともなうため、自然と利他愛の実践に向かうようになります。そのため霊界には、利己性という地上の未熟さ(悪)は一切存在しません。利他愛のみが存在するようになっています。何という地上世界との違いでしょうか!

スピリチュアリズムは、霊界で当たり前になっている「利他愛の実践」を地上の常識にしようとする計画です。それによって地上人全員が、霊的成長の道を確実に歩むことができるようにしようとする人類救済活動なのです。

利他愛の実践は、霊的成長の大原則・大鉄則

利他愛の実践を通して、「霊的成長」という地上人生の最大の目的が達成されるようになります。そのため高級霊は、声を大にしてその重要性を説いているのです。利他愛の実践は、霊的成長の大原則であり大鉄則です。それなくしては霊的成長は得られません。利他愛の実践こそ、スピリチュアリズムの真髄であり、神の摂理に一致する道なのです。スピリチュアリズムの実践論は、この「利他愛」に集約されます。

シルバーバーチは、利他愛の重要性について次のように述べています。

「他人のために施した善意は決して消えません。なぜなら善意を施す行為に携わることによって霊的成長が得られるからです。博愛と情愛と献身から生まれた行為はその人の性格を増強し、魂に消えることのない印象を刻み込んでいきます。」

利他愛の第一歩は、霊的視野で相手を見ること

幸いにして私たちが、他の人々に先駆けて霊的真理を手にしたということは、周りの人々に対して霊的に上から愛する立場に立った、ということを意味します。では、先に真理を知った者としての「正しい愛(利他愛)の実践」は、具体的にどのようなことから始まるのでしょうか。

利他愛の実践の第一歩は――周りの人々を「霊的視野で見る」ということです。霊的視野に立って相手を眺めるとき、自然と“祈り”の思いが湧き上がってくるようになります。そうした祈りの思いを持つことこそが利他愛の出発点であり、相手に対して真実の愛を注ぐことになるのです。

目の前の人を霊的視野から眺め、自分と同じように神によって造られた存在であり、永遠の霊的成長の道を歩んでいる人間であることを思い起こしてください。そして肉体の奥にある“魂”が、真実のその人であることを確認してください。どのような人間であっても自分と同じ「神の子供」であり、神の家族の一員であり、霊的兄弟姉妹であることに思いをめぐらせ、一刻も早く真理を受け入れられる時がくるように心から願ってください。

「すべての人々が少しでも早く霊的人生を歩めるようになってほしい」という祈りの中には、いかなる物質的な援助やボランティアよりも、深くて大きな愛が含まれています。それは霊界にいる高級霊たちが、地上人の幸せのために全力を傾け、働きかけているのと同じ愛の行為と言えます。霊界人と同じ視点に立ち、最高の利他愛を実践していることになるのです。

単なる同情心だけでは駄目

――霊的視野から相手の霊的成長を願うことこそが“真実の愛”

利他愛を実践するうえで大切な注意点があります。それは同情心は持たなければならないけれども、決してそれに流されてはならない、ということです。霊的真理を知らない一般の人々は、同情心を持って手を差し伸べることが愛であるかのように思っていますが、必ずしもそうではありません。相手が困っているときに手を差し伸べることは確かに優しさであり愛の行為なのですが、その人間の「霊的成長」を考慮すると、安易に手を貸してはならない場合があるのです。親切心・同情心からの手助けが相手の霊的成長を妨げ、かえってマイナスになることがあるのです。

本人の霊的成長やカルマ清算のために、苦しみの体験がどうしても必要なことがあります。そうした状況に置かれている人への正しい愛の示し方とは、ただ単に同情したり、安易な慰めの言葉をかけることではありません。一番よいのは、本人がその苦しみを自分で乗り越えられるように見守り、そっと陰で祈ってあげることなのです。それが“真実の愛”の在り方になるのです。

身体や精神に障害のある人を前にすると、誰もが「かわいそうに、気の毒に」と思ってしまいます。そうした同情心は人間として持つべき当たり前の感情です。しかし、それと同時に「霊的視野」から相手を見ていかなければならないのです。

シルバーバーチは障害者についての質問に、次のように答えています。

「同情心を失ってはいけません。が、同時に一つひとつの現象の背後に、因果律の機械的法則があることも忘れてはいけません」

第一部「人間の運命」の箇所でも述べましたが、心身のハンディキャップは、実は再生に先立って「魂の成長」のためにわざわざ本人が希望したものであることが多いのです。霊的成長にとっての必要性から、あえて本人が選んだ試練であるということです。こうした霊的な理由に照らしてシルバーバーチは――「お気の毒と言う必要さえありません」と述べています。

霊的視点に立てば、心身に障害があることは決して不幸ではありません。それどころか霊界に入ってから受ける喜びを考えるなら、むしろ幸せと言うべきなのです。永遠の霊界という観点からするなら、その苦しみの体験はほんのわずかな期間にすぎません。霊界に行けば、身体の不自由は全くなくなります。肉体を持っている間の苦しみは、霊界において何十倍もの幸せをもたらすことになるのです。

霊的に見たとき本当に不幸なのは、身体の不自由な人や精神に障害を持った人ではありません。五体満足でありながら霊的真理を知らず、霊的成長とは無縁な人生を送る人間のことです。魂の成長にとって必要な苦しみの体験を避け、楽しみやこの世の富や名声ばかりを追い求めて生きる人間のことなのです。

障害のある人を前にすると、つい同情心だけで眺めてしまいます。しかしその人にとっても霊界が本来の生活の場であり、地上は一時的な滞在場所にすぎないという霊的事実を思い出すなら、同情心を持ちつつも冷静に相手の霊的成長を願えるようになります。自分の家族が障害者であっても、それほど悲しんだり絶望するようなことはなくなります。

私たちは、心身の障害を持った本人ならびに家族に対し――「地上の苦しみに耐えてカルマを切り、霊的成長の道を歩んでください」と祈ってあげるべきです。そうした“祈り”は、同情の言葉を口に出して言うよりも、はるかに深い愛の行為なのです。

――重度の精神薄弱者の場合は、自分で自分のことを自覚していないように見えますが、実は本人の霊的意識においては、きわめて大きな苦痛を味わっています。こうしたケースは、前世でつくった重いカルマの罪滅ぼしであることが多く、摂理の働きによって半強制的に再生人生を歩まされているのです。

また、そうした人間を抱えた家族は当然、苦しみの体験をすることになりますが、その運命を喜んで受け入れることによって必要な罪の償いがなされていくようになります。

自分にできる精いっぱいの援助をする。どのような人にも分け隔てなく愛を示す

利他愛とは、自分より恵まれない人々に手を差しのべる行為です。困っている人々のために誠心誠意、見返りを期待せず、自分の持っているものを与え援助してあげることです。こうした無償の行為が利他愛の実践です。

この際、大切な点は――「自分の好みでない人に対しても平等に与える」ということです。同情心を持てる人に手を貸すのは、誰にとっても容易なことですが、自分にとってイヤな人間・好みでない人間に対して無償の行為をするのは、とても難しいことです。しかし自分の気が向かない人には奉仕できないというのであれば、その人の行為は本当の利他愛とは言えません。それは単なる自分の好みの行為にすぎなくなり、“霊的価値”はありません。 利他愛においては、どのような奉仕をするのか、どのようなボランティア活動をするのかということよりも、「自分の好みでない人に対しても分け隔てなく与えることができるかどうか」という心の姿勢が重要となるのです。

こうした観点に立ってみると、この世の人間関係(夫婦・親子・家族・仲間など)の在り方には、よくよく注意が必要となります。地上の人間関係の根底には、動物本能の名残なごりである“利己性”が潜んでいます。家族のために自分を犠牲にしているというだけでは、本当に利他愛があるとは言えません。人類のためなら大切な家族さえも犠牲にできるというときのみ、「真実の愛(利他愛)」が存在するようになるのです。利他愛こそ真実の愛であり、霊的な愛なのです。

そうした霊的な愛によって家族が結ばれたとき、死後においても愛の絆が続くことになります。本能(血縁)レベルでのつながりしかない場合には、霊界に入ると家族はバラバラになってしまいます。

地上は、利他愛の実践の訓練場

霊界では霊的成長レベルの等しい者同士が一つのグループをつくって生活しているため、初めから深い愛の関係を築くことができるようになります。

それに対して地上では、霊的成長レベルの異なる人間が同一平面上に住んでいるため、愛の実践にはさまざまな困難がともなうようになります。真実の愛の関係をつくるためには多くの努力が必要とされます。まさしく地上世界は――「真実の愛(利他愛)の実践」を通して霊的成長を達成する訓練場として神が用意した所なのです。

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