8章 霊の物質界への関与

〈霊界から覗いた人間の生活〉

――霊には人間のすることが全部見えますか。

「その気になれば見ることができます。絶えず人間の身の周りにいるのですから。ですが、実際問題として、関心のないことには注意を払いませんから、受け持ちの範囲のことにしか注意を向けていません」

――完ぺきに秘密にしていることでも分かりますか。

「あなた方が隠そうとしていることをよく見かけます。行為も思念も霊には隠せません」

――そんな時、霊の方ではどんな気持ちで見ているのでしょうか。

「それはその霊自身の質によります。低級ないたずら霊だったら人間がイライラするような事態を生じさせ、カッカするのを見て面白がるでしょう。高級霊であればその愚行を憐れんで、その欠点を改めさせる方向で指導するでしょう」

〈人間の思念・行動に及ぼす霊的影響〉

――人間の思念や行動は霊の影響を受けているのでしょうか。

「あなた方が想像する以上に影響を受けています。と言うのも、そもそも人間は霊の指示で動いているのですから」

――我々自身から出た思念と、霊によって吹き込まれた思念があるのでしょうか。

「人間も思考力をもった霊です。従って当然、自分から出た思いもありますが、次から次へと考えが湧き、しかも同じ問題に関してしばしば対立する考えが入り込んでくることも経験しているはずです。そうした場合、どちらかが自分のもので、どちらかが霊に吹き込まれたものです。二つが相反するものですから決心が揺れるのです」

――そんな時はどのようにして区別したら良いのでしょうか。

「強いて言えば霊からの示唆は、あたかも語りかけられたような感じで、自分自身が考えたことは大抵最初に思い浮かんだものと言えますが、実際問題としてはその区別はどうでも良いことです。区別できない方が良い場合もあります。それだけ自分一人による自由な判断の範囲が広がるわけで、結果的に正しい選択であれば、自分の判断力に自信がつきますし、間違っていれば自分自身の間違いとして責任を一身に背負えることにもなるからです」

――科学者や天才による発明・発見は自分で生み出すのでしょうか。

「自分の霊的産物であることもありますが、大抵は背後霊が教える価値があると判断し、正しく受け入れてくれると確信した上で示唆しています。その程度の科学者や天才になると、自分自身では生み出せないと自覚すると、無意識のうちにインスピレーションを求めるものです。一種のエボケーション(招霊)で、本人はそうとは気づいていません」

――示唆されたアイディアが善霊からのものか邪霊からのものかは何によって判断すれば良いのでしょうか。

「内容をよく検討することです。善悪を見分けるのは人間自身です」

――悪の道に誘い込もうとする邪霊の影響を排除することは可能でしょうか。

「可能です。と言うのは、邪霊が付きまとうのはその人間自身の思念や欲望が邪だからです」

――人間側が悪の誘惑を拒絶した場合、邪霊は誘惑をあきらめますか。

「あきらめるしかないではないですか。もくろみ通りに行かないと分かれば、彼らは誘惑を止めます。ですが、ネコが常にネズミを狙っているように、その後もずっとスキを狙っているものと思ってください」

――邪霊が人間を悪の道に誘う時、その人間の置かれた境遇につけ入るのでしょうか、それとも彼らの思うツボにはまるような事情をつくり出すことまでするのでしょうか。

「都合の良い条件が発生すればどんなことでも利用しますが、人間が良からぬ願望を抱くと、その目的の成就に向けて欲望を煽ります。人間はそれに気づきません。

例を挙げましょう。どこかの通りに大金の札束が落ちているとします。そこへその人間が通りかかりました。まさか霊が札束をそこへ置くはずはありません。そこを通りかかるように仕向けたのです。その札束を見つけてその人間はどういう態度に出るか――邪霊はそれを我がものとするように吹き込み、一方善霊は然るべきところへ届け出る考えを吹き込みます。どちらを選ぶか、それは当人の道義心の問題です。すべての誘惑は大体こんな風にして行われるのです」

〈憑依〉

――霊は人間の肉体に取り憑いて、その人間に代わって肉体を使用することができるのでしょうか。

「霊が憑依するといっても、部屋の中に入るような調子で人体に入り込むわけではありません。同じ欠点、同じ性癖をもつ人間と波動上でつながることはありますが、主体性を持つのはあくまでも肉体に宿っている霊です。霊と肉体とは一体不離の関係で結ばれており、神が定めた寿命が尽きるまで切り離されることはありません」

――俗に言う“取り憑く”ことはなくても、肉体に宿っている魂が低級霊によって支配され、思うように操られ、ついには自我意識がマヒしてしまうに至ることはないでしょうか。

「それは有り得ます。それが本来の意味での憑依の実態です。ですが、忘れないでいただきたいのは、そういう憑依現象は憑依される側の“弱み”または“自由意志”によってそういう事態になることを許しているということで、それがないかぎり発生しません。人間は永い間そういう現象をてんかんのような脳障害による症状と同じに考えて、霊的治療家よりも医者による治療にまかせてまいりました」(『霊媒の書』十三章参照

ブラックウェル注――霊的憑依現象を発生させる“弱み”とは、現世または前世における悪行への罰であり罪滅ぼしのことである。

――憑依された状態から自力で脱することは可能でしょうか。

「可能です。本気でその気になれば、いかなる束縛状態でも解くことができます」

――邪霊によって完全に憑依され、本人の自我意識が奪われたとします。そんな場合に第三者がその呪縛状態を解くことができるでしょうか。

「高潔な人格者が存在すれば、その意志の力で救済のための善霊の協力を引き寄せることが出来るかも知れません。人格が高潔であるほど霊力が強いですから、邪霊を追い払い、善霊(霊医)を呼び寄せることが出来るという理屈になります。ですが、そういう事態にまで至った場合、いかに優れた人物がいても、憑依されている本人が意識的に自由を取り戻そうとする意志を見せないかぎり、まったく無力です。

と言うのは、そういう人間は得てして依頼心が強く、堕落した好みや願望につけ入られても、それをむしろ快く思うものなのです。霊性の低い霊は高級霊から軽蔑されているというひがみ根性から救済に協力しようとしませんし、仮に協力しても邪霊集団の相手ではありません」

――悪魔払(エクソシズム)いの儀式は邪霊集団を追い払うのに役立ちますか。

「役には立ちません。真面目くさってそういう儀式をやっているのを見て、邪霊たちは小ばかにします。そして、ますます憑依状態を続けます」

――祈りはどうでしょうか。

「祈りが援助を呼び寄せることは事実です。ですが、その祈りがただ文句を唱えるだけのものでは何の効果もありません。天は自ら助くる者を助くとは至言です。自らは何も努力せずに、ただ願いごとを並べるだけの者には援助の手は差し延べません。ですから、憑依されている人間が、そもそも邪霊につけ入られることになった(依頼心が強いという)弱点・欠点を正すということがまず肝要です」

〈守護霊・指導霊〉

――人間各自には守ったり援助したりする目的で付いている霊がいるそうですが……

「います。霊的同志です。あなた方が指導霊(ガイド)と呼んでいるものです」

――守護霊(ガーディアン)というのはどういう存在でしょうか。

「霊格の高い指導霊のことです」

――守護霊の使命は何でしょうか。

「父と子供との関係と同じです。ある目的をもって、その成就のための道から外れないように、時には忠告を与え、悲しみの中で慰めを与え、苦難の中にあっては生き抜く勇気を与えたりします」

――誕生の時から付いているのでしょうか。

「誕生から死に至るまでです。しばしば死後霊界でも、あるいはその後の幾つかの再生生活でも守護霊として付くことがあります。霊的観点から見れば、物的生活を幾つ重ねても、ごく短いものです」

――守護霊という役目は自発的なものでしょうか、強制的なものでしょうか。

「あなた(カルデック)の守護霊の場合は要請されて引き受けていますから、義務としてあなたを見守っています。が、一般的に言えば守護霊は自分で親和性の強い人間を選ぶことを許されております。楽しみとして進んで引き受ける場合もありますし、使命ないしは義務として引き受ける場合もあります」

訳注――私が“英国の三大霊訓”と呼んでいるモーゼスの『霊訓』、オーエンの『ベールの彼方の生活』、そして『シルバーバーチの霊訓』のうち、守護霊が出てくるのは『ベールの彼方の生活』の第三巻のザブディエルと名のる霊だけで、他は守護霊以外の者が携わっている。

インペレーターもモーゼスの守護霊ではない。その上にもう一人プリセプターと名のる最高級霊が控えていたというが、多分それが守護霊であろう。シルバーバーチもバーバネルの守護霊ではない。六十年間についに一度も出現していない。

このカルデックの守護霊も誰であるかは分からない。聖ルイは守護霊ではないはずである。そう判断する理由は、大きな仕事においては守護霊は総監督として見守るだけで、直接的には携わらないというのが、私の知るかぎり、通例だからである。

――一人の人間の守護霊となった以上は他の人間の面倒は見ないのでしょうか。

「そうとは限りません。が、控え目にはなるでしょう」

――守護霊が人間を見捨てるということが有り得ますか。

「いくら忠告を発しても聞く耳を持たず、低級霊の誘いに完全にはまってしまったと見た場合は、手を引くことがあります。と言っても見捨てるわけではありません。わずかなチャンスを狙って善の道に引き戻そうとします。守護霊が人間を見捨てるのではなく、人間の方が守護霊の言うことに耳を貸さなくなるということです。霊性が目覚めて善性を求めるようになれば、喜んで受け入れます。

それほど労が多く、報われることが少なく、忍耐のいる仕事に高級霊が携わるのが信じられないと思われる方には、こうお答えしましょう。まず第一は、我々は高遠の世界からわざわざ地上まで下降してくるわけではありません。計り知れないほどの距離も我々には何の障害にもならず、次元を異にする世界にいても交信は可能だということです。

もう一つは、我々には人間には想像もできない資質があるということです。神は我々の手に負えないほどの仕事は決して課しませんし、人間を、友も援助者(背後霊団)も付けずに地球という孤島に島流しにしたわけではありません。一人一人に必ず守護霊が付いており、父が我が子を見守るように、一瞬の休みもなく見守っています。言うことを聞いてくれれば喜び、無視されると残念がっております」

――人間が悪の道に入って行くのを守護霊も許すことがあるとおっしゃいましたが、それは邪霊集団に太刀打ちできないからでしょうか。

「そうではありません。太刀打ちする、つまり邪霊集団と張り合うよりも、思い切ってその道に入らせても本人は必ずや間違いを悟って大きく成長するという確信があるからです。

守護霊は常に賢明な助言の思念を送っていますが、必ずしも聞き入れてもらえません。邪霊がつけ入るのはそうした弱点、スキ、慢心などを通してです。それに負けるのは、抵抗するだけの霊性が身についていないことを意味します」

――守護霊を必要としなくなる段階があるのでしょうか。

「あります。生徒が十分に学んで先生を必要としなくなる時期があるように、守護霊がいなくても一人で十分にやって行ける段階が来ます。しかし、地上界に関するかぎり、そういうことは有り得ません」

――歴史上の有名人の名を名のっている守護霊は間違いなくその人物でしょうか。

「そうとは限りません。同じ霊系に属する、ほぼ霊格の同じ霊である場合があり、多くの場合、当人から依頼を受けて出ています。(偽っているわけではなく)人間の方が名前にこだわるものですから、それで安心させる意味でその名を使用するのです。あなた方だって使いの用事を言いつけられて、どうしても都合がつかない時は代理の者を行かせることがあるでしょう。それと同じです」

――霊界へ行って守護霊に会えばそれと分かりますか。

「分かります。と言うのは、多くの場合、再生する前まで顔見知りの間柄だからです」

――未開人や文明人で道徳的意識の低い人にでも守護霊がついているのでしょうか。

「守護霊の付いていない人間はいません。ただ、割り当てられる責務によって守護霊の霊格も違ってきます。読み書きを習い始めたばかりの子供に大学教授を家庭教師に付けますか。神は常に一人一人の人間の本性とそれまでに到達した霊性に応じて守護霊を付けます」

――守護霊とは別に、善悪の判断力を試す目的で邪霊も一人一人に付けられているのでしょうか。

「“付けられている”という言い方は正しくありません。確かに、悪の道へ誘い込もうとしてスキを伺っている複数の低級霊が必ずいるものです。が、仮にその邪霊の一人が実際に人間に付きまとうようになったら、それはその邪霊が何らかの意図をもってやっていることです。その場合は言わば善と悪との闘いとなるわけで、どっちに軍配が上がるかは当人の判断力にかかっております」

――守護霊のほかにも面倒をみてくれている霊がいるのでしょうか。

「今述べたように悪の道に誘惑しようとする邪霊が何人もいるように、守護霊(ガイド)の指示のもとで面倒をみてくれている指導霊が何人かいます。霊格の高さはまちまちですが、親和性があり、情愛で結ばれております」

――そうしたガイドは使命があって付くのでしょうか。

「霊によっては一時的な使命を仰せ付かっている場合がないでもありませんが、一般的には、良きにつけ悪しきにつけ、情緒的に共通する霊が付くものです」

――今のお言葉ですと親和力で結ばれている霊でも善霊と悪霊とがいることになりますが……

「その通りです。性格のいかんにかかわらず、相通じ合う霊に取り囲まれていると思うがよろしい」

――“親しい霊”は“親和力で結ばれている霊”および“守護してくれる霊”と同じでしょうか。

「“守護に当たる”とか“親和性に富む”という表現にもいろいろと意味合いがあります。どう呼んでも構いませんが、“親しい霊”という場合は“身内の霊”といった家族的な意味合いが強いです」

――社会、一都市、一国家にも特別の霊団が付いているのでしょうか。

「付いています。そういう集団には共通した目的があり、その目的によって指示を与える霊格の高い霊団が付いています」

――その種の霊団は一般個人の霊団よりも霊格が高いのでしょうか。

「個人の場合でも集団の場合でも人間側の霊性の発達程度に応じた霊団が組織されます」

〈人間生活への霊力の行使〉

――霊団は道徳上の忠告や指導をするだけでなく、日常生活のことも気遣ってくれているのでしょうか。

「その人間に関わるあらゆる側面に気を配っています。責務としてやらねばならないことに関連して、いろいろと忠告を発しています。問題は人間側がそれに耳を傾けてくれないことで、結局は自分の判断の誤りで問題を大きくしているのです」

――思念で忠告する以外に、直接的に霊力で働きかけることはないのでしょうか。

「あります。ですが、それにも許される自然法則の範囲があり、それを超えることはありません」

――例えばある人が梯子をのぼっていて、途中で梯子の段が折れて落下して死亡したとします。このような場合、そういう宿命を果たすために霊力でその梯子を折るようなことをするのでしょうか。

「霊が物質に働きかける力を持っていることは明らかですが、それはあくまでも自然法則の運用のためであって、ある予期せぬ出来事を起こすために法則に逆らって演出するようなことは許されません。

今おっしゃった事故の場合は梯子の材木が腐っていたか、その人間の体重が重すぎたかの、いずれかの原因で折れたのでしょう。つまり自然法則の結果です。そのことと、その人間の死との関連は、そういう梯子を使用するような事態に至るというところに運命的な働きがあったと見るべきであって、殺すために超自然現象で梯子を折るということをするわけではありません」

――もう一つ例を挙げますと、急に嵐になって近くの大木の下に雨宿りをしていたら、その木に雷が落ちて死亡したとします。この場合、霊がその木を目がけて雷を落としたのでしょうか。

「これも先ほどの例と同じです。雷は自然法則に従ってその木に落ちたのであって、その人を殺す目的でその木に命中させたわけではありません。その人がその木の下にいようがいまいが雷は落ちたでしょう。肝心な点はその木に雨宿りしようという考えを抱いたことです」

――地上時代に他人に危害を与えた者が霊界へ戻ると、その時に抱いた敵意は消えるものでしょうか。

「自分の行為の間違いに気づき後悔の念を抱く者が多いのですが、相変わらず敵意を抱き続けているケースも少なくありません。そういう関係は試練の延長として神が認めているのです」

――我々第三者がその種の迫害に終止符を打たせる方法はないものでしょうか。

「多くの場合、祈ることによって終止符を打たせることができます。憎しみの念に対して愛の念を送り返すことによって、邪念に燃える霊に徐々に反省の気持ちを芽生えさせます。そして忍耐強く続けることによって愛は邪悪な企みに優ることを知らしめ、憎しみの空しさを抱かせ、かくして攻撃することを止めさせることになります」

〈自然界における霊の働き〉

――自然界の大変動は偶発的なものでしょうか、全てに神の意図があるのでしょうか。

「何事にも理由があります。神の許しなしに生じることは何一つありません」

――そうしたものは全て人間との関連性があるのでしょうか。

「人間に関連したものも時にはありますが、大部分は大自然が均衡と調和を取り戻そうとする働きに過ぎません」

――全ての現象の根源には神の意図があるに違いないことは認めますが、霊が物質に働きかけることが出来るからには、霊が神の意志の行使者として自然界の構成要素に働きかけて自然現象を起こしているのではないかと思うのですが……

「その通りですし、それ以外には考えられません。神が直接物質に働きかけることはありません。無限の階梯の一つ一つの界層に神の意志の行使者が控えています」

――例えば嵐を起こす場合、一人の霊の仕業でしょうか、それとも大勢の霊の仕業でしょうか。

「大勢の霊です。数え切れないほどの大群と言った方がいいでしょう」

――その場合、自由意志によって、知識と意図をもって現象を起こすのでしょうか、それとも理性のない本能的衝動から発しているのでしょうか。

「知識と意図をもって携わっている者もいれば、本能だけで働いている者もいます。譬え話で説明しましょう。

今大海のどまん中に一群の島ができつつあるとします。その島の生成について神が認知していないはずはありませんし、その群島の出現が大海という地球の表面の調和に影響を及ぼさないはずはありません。ところが、その生成に携わるのは最下等の極微動物であり、神の道具として使用されているという認識などみじんもありません。ただ動物の本能で働いているだけです。

同じことが最下等の霊的存在についても言えます。自由意志もなく、何の目的なのかについての自覚もないまま大自然のさまざまな側面での現象の演出に携わっております。指令を発する存在がいて、それに反応して働く存在(精霊)がいます。それが知的進化を遂げて指令を発する立場にまわり、造化の仕事から倫理・道徳の摂理の管理へと進みます。

このように大自然は根本の原子から始まって大天使に至るまでの雄大なスケールの存在の調和によって進化しており、その全体像は地上の人間の理解力では遠く及びません」

〈戦争と霊〉

――戦争が行われている時は霊界でも敵と味方がいるのでしょうか。

「当然います。そして戦闘意欲をかき立てています」

――戦争はどちらかの側に非があると思うのですが、なぜ非のある側に味方する霊がいるのでしょうか。

「改めて申すまでもないことですが、霊の中には混乱と破壊だけを楽しみにしている邪霊集団がいます。そういう連中にとっては戦争のための戦争であって、正当とか不当とかはどうでも良いことなのです」

――司令官が作戦を練るに当たって霊団から指示が与えられるでしょうか。

「当然です。他の生活面と同様に、作戦にも参加します」

――敵方の霊がまずい作戦を吹き込むことも有り得ますか。

「有り得ます。しかし司令官にも自由意志があります。守護霊団が吹き込む作戦と敵方の霊団が吹き込む作戦のどちらに決断するかに迷い、結果的に作戦に失敗した時は、その責任は自分が負わねばなりません」

――司令官の中には予知能力のある人がいて作戦の行方を予見することがあるそうですが……

「天才的な軍人によくあることです。いわゆるインスピレーションを的確に受け取れる人で、それを受けた時は自信をもって命令を発します。霊団から送られてくるもので、それを天賦の霊能で受け取ります」

――戦闘中に戦死した霊はどうなるのでしょうか。霊界でも戦い続けるのでしょうか。

「戦い続ける者もいますし、撤退する者もいます」

――戦場の爆音やときの声などは相変わらず聞こえるのですか。

「聞こえます、そっくりそのまま」

訳注――シルバーバーチの霊言に次のような一節がある。

「これが戦時下となると、いろいろと問題が厄介となります。何しろ何の準備もできていない、何の用意もしていない人間が大挙して霊界へ送り込まれてくるのですから……みんな自分が死んだことすら知りません。(中略)死んだことにも気づかずに死んだ時と同じ行為を続けております。地上戦で死んだ者は地上戦を、海上戦で死んだ者は海上戦を、空中戦で死んだ者は空中戦を戦い続けております。そのうち、期間は各自まちまちですが、少し様子が違うことに気づき始めます。

全体としては以前と変わらないのに気をつけて見るとどうも辻褄が合わない。奇妙な、あるいは無気味なことがくり返されていることに気づきます。殺したはずの相手が死んでいない。銃を撃ったはずなのに弾丸が飛んで行かない。敵兵に体当たりしても少しも動かない。触っても気がつかない。大声で話しかけても知らん顔をしている。そしてその光景全体に霧のような、靄のような、水蒸気のようなものが立ち込めていて、薄ぼんやりとしている。自分の方がおかしいのか相手の方がおかしいのか、それも分からない。時には自分が幻影に惑わされているのだと思い、時には相手の方が幻影の犠牲者だと考えたりします。

が、そのうち――霊的意識の発達程度によってそれが何分であったり何時間であったり何日であったり何か月であったり何年であったり何世紀であったりもしますが――いつかは自覚が芽生えます。その時やっと援助の手が差しのべられるのです。」

――仮に霊が傍観者として冷静に戦場の様子を見つめていれば、たおれた人間から霊が次々と離脱して行く様子が見えますか。

「全ての戦死者の死が一瞬の間に成就されるわけではありません。大抵は、肉体的には即死の状態でも、霊はそのことに気づきません。精神的に落ち着きを取り戻すと自分の死体がそばに横たわっていることに気づきます。が、その過程が実に自然なので動揺することはありません」

〈魔よけ・呪術〉

――邪悪な人間が邪霊の助けを借りて怨みの相手に危害を加えることはできますか。

「できません。そういうことは神が許しません」

――でも、呪術をかける力を持った人間がいるという信仰がありますが……

「強力な生体磁気を持っている人間がいます。その人間の心が邪悪であればそれを悪用することは考えられます。その場合に似たような邪悪な霊が加担することも有り得ることです。しかし、それを超自然的な魔力のせいにしてはいけません。それは自然法則に無知な迷信的人間の想像力の中にのみ存在するものです。魔力が存在する証拠とされているものは自然な原因の働きによるものを間違って観察し、さらに間違った解釈をした結果です」

――霊の意念を操ることが出来るとされる呪文や秘法の効果は実際にあるのでしょうか。

「本当にそういうものを信じているとしたら、その効果はその人が嘲笑の的になることだけです。もしも信じていないのにそういうことをしているとしたら、それは詐欺師であり、処罰に値します。その種の儀式は全てペテンです。霊を操るような秘密の言葉やしるし、魔よけなどは存在しません。なぜなら、霊は思念で感応するのであって、物的なものではないからです」

――でも、そういう儀式の中には霊が伝授してくれたものがあるのではないでしょうか。

「おっしゃる通りです。霊の中には摩訶不思議な加持や呪文を教える者がおり、それをもとに、いわゆる“おまじない”をする人がいますが、そういう人たちは低級霊の良い遊び相手にされており、摩訶不思議をすぐに信じたがる性格をもてあそばれています」

――良い悪いは別として、魔よけの威力を信じることが実際に霊の力を呼び寄せることにならないでしょうか。魔よけが精神を集中する媒体となって、その人の思念を活発にすると思うのです。

「そういう働きは一応考えられます。しかし呼び寄せる霊の程度を決めるのは、霊を呼び寄せる動機とその人間の心証の純粋性です。魔よけなどの効果を信じるほど単純な人間が高尚な動機で行うということはまず考えられません。

つまるところ、この種の儀式や行事にこだわるのは、人間を騙すことばかり考えている未熟な霊に取り憑かれやすい低俗な精神構造の人間であることを証明していると考えてよろしい」

――では“魔法使い”はどう理解したらよいのでしょうか。

「そう呼ばれている人間がもし性格的に真面目であれば、予知能力に類する超常能力でもそなえている人と考えられます。普通の人間に理解できないことをやってみせるために超能力の持ち主とされているだけです。学者だって無学な人間から見れば超人的に見えるのではないでしょうか」

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