1章 霊とは

〈霊の起源と本性〉

――霊とは何でしょうか。

「霊とは“創造物の中の知的存在”と定義できます。宇宙の顕幽両界に生息する知的存在で、物質界の物的諸形態と対照をなしています」

編者注――ここに言う霊とは個性をそなえた個的存在としての霊のことで、普遍的要素としての霊ではない。

――霊は神とは別個の存在でしょうか、それとも神の一部ないしは放射物で、その意味で“神の子”なのでしょうか。

「霊は神の作品です。機械が製作者の作品であるのと同じです。その機械は製作者のものですが、製作者そのものではありません。あなた方が素敵な物をこしらえた時、“これは我が子のようなものです”という表現をします。神との関係も同じです。その意味において我々は全て神の子です。神の造り給うたものだからです」

――霊には始まりがあるのでしょうか、それとも神と同じく永遠の過去から存在し続けているのでしょうか。

「もしも始まりが無いとしたら、霊は神と同等ということになります。が、霊は今も述べた通り神の創造物であり、神の意思(摂理)の支配下にあります。神が無始無終の存在であることに議論の余地はありません。が、その神がいつ我々を造り給うたかについては、我々も知りません。

神は無始無終の存在であるがゆえに絶え間なく創造し続けているに相違ないという意味においては、我々にも始まりはないと言えるかも知れません。しかし、繰り返しますが、我々一人一人がいつ創造されたかは誰にも分かりません。大いなる謎です」

――宇宙には知的要素と物的要素の二種がある以上、霊は物体が物的要素からこしらえられたように、知的要素からこしらえられたと考えてよろしいでしょうか。

「そういう理屈になることは明らかです。物体が物的要素の個別化によって生じたように、霊は霊的要素の個別化によって生じています。ただ、それがいつどのようにして為されたかは、我々にも不明だと申し上げているのです」

――霊の創造は常に行われているのでしょうか、それとも時間の始まりと同時に行われ、それきり行われていないのでしょうか。

「常に行われています。言い変えれば、神は創造活動をお止めになったことはありません」

――霊は非物質的存在であるという表現は正しいでしょうか。

「地上に比較すべきものもなく、言語で表現することもできないものを、どうして定義づけられましょう? 見たこともないものが定義できますか。“非物質的”というのは適切ではありません。“固定的形態がない”という表現の方がまだ少しは真実に近いでしょう。霊も創造されたものである以上は実体のある何ものかであるはずです。言わば生命のエキスです。が、それは人間の理解力の範囲内では表現できない状態で存在しており、あまりの霊妙さゆえに、人間の五感では感得できません」

――霊の存在にも終わりがあるのでしょうか。その始源である普遍的要素は永遠であっても、そこから出た個々の霊は、肉体が大自然に還るように、遅かれ早かれ、いつかは普遍的要素へ還っていくのではないでしょうか。始まりがあるものに終わりがないというのは理解し難いのです。

「人間に理解できないことは沢山あります。知性に限りがあるからです。しかし、だからといって“おかしい”と決めつける理由にはなりません。父親が知っていることの全てが子供に理解できるでしょうか。霊の存在に終わりはない――その問題について申し上げられるのは、現段階ではそれだけです」

〈根源界〉

――霊の世界は我々人間の目に映じている世界とは別個の存在なのでしょうか。

「そうです。霊の世界、ないしは固定的形態のない世界を構成しています」

――宇宙の秩序の点からみて、そちらとこちらの、どっちが主要なのでしょうか。

「霊の世界です。他の何よりも先に存在しており、物的なものが全て消滅した後にも存在し続けます」

――霊の世界は、物的世界が存在しようが消滅しようが、その本質には変わりないのでしょうか。

「変わりません。二つの世界はそれぞれに独立した存在です。それでいて、なおかつ、互いに絶え間なく関係し合っております。反応し合うのです」

――霊は宇宙空間にあって一定の枠に囲まれた範囲を占めているのでしょうか。

「霊はどこにでも存在します。無辺の宇宙に無数の霊が充満しております。気がつかないでしょうが、あなた方の周りに絶え間なく存在して、あなた方の行動を観察し、また働きかけております。霊は大自然のエネルギーの一種であり、神が定めた計画の推進のための道具なのです。しかし、霊だからといってどこへでも行けるわけではありません。霊性の低い者には“禁制”となっている地域があります」

〈霊の形態と動きと遍在〉

――霊にははっきりとした、ふちのある、一定の形があるのでしょうか。

「人間の肉眼で見るかぎり、そういうものはありません。が、我々にとってはちゃんとした形態があります。もっとも、人間の目には炎とか輝きとか微妙な火花にしか見えないでしょう」

――それには色彩がありますか。

「もし霊視力があれば、ぼんやりとしたグレーからきらびやかなルビー色まで、いろいろに見えるでしょう。その人の霊性の程度によって違います」

――霊が移動するのに時間を要しますか。

「時間を要するかと言われれば要しますが、その速さは思念と同じです」

――思念は霊そのものの動きでしょうか。つまり霊がその場所まで運ばれるのでしょうか、それとも霊によって思考された想念体でしょうか。

「思念のあるところには霊が存在します。思念を発するのは霊だからです。思念は霊の属性です」

――霊が一つの場所から別の場所へ移動する時、通過する途中の距離と空間を意識しますか、それとも行きたいと思った瞬間に着いているのでしょうか。

「どちらのケースもあります。じっくりと途中の距離を意識したいと思えば意識できますし、距離の意識を完全に消すこともできます。霊の意志と霊格の程度によります」

――物質は霊の動きの障害になりませんか。

「なりません。霊はあらゆるものを貫通します。空気・地面・水・火、何でも貫きます」

――霊は遍在することが可能でしょうか。つまり、自分自身を分割したり、一度に複数の場所に姿を見せることができるでしょうか。

「霊そのものを分割することはできません。が、霊は思念を発する中枢で、全方位に自我を放射することができますから、同時に数か所に姿を見せることはできます。太陽は一つですが、全方位に光を放射し、大変な距離にまで及びます。が、太陽そのものが分割されるわけではありません」

――その放射の能力はどの霊も同じですか。

「大変な違いがあります。霊性の発達程度によって違います」

〈ペリスピリット〉

――霊には外部を被うものはないのでしょうか。何らかの“もの”で包まれているのでしょうか。

「強いて地上の譬えで言えば水蒸気のようなもので包まれていますが、我々自身にとってはしっかりとした外被です。しっかりとしていても大気中を何の抵抗もなく動けますし、宇宙空間を神速自在に移動できます」

訳注――植物の胚を包む外胚乳をペリスパームperispermということからカルデックは、スピリットを包むものという意味でperispiritperiは周囲を意味する接頭語)という用語をこしらえている。

この後の通信内容から察するに、霊界の各界層ごとにその波動に似合ったペリスピリットがあって、界層が高くなるほどその質が精妙化していくという。

――そのペリスピリットはどこから摂取するのでしょうか。

「所属する天体の普遍的流動体から取り寄せます。各天体によってペリスピリットの質が異なります。それゆえ天体を移動する時は、衣服を着更えるようにペリスピリットを取り替えます」

――すると地球圏より波動の高い世界から下降して地球圏内で仕事をする場合は、鈍重なペリスピリットをまとうわけですか。

「その通りです。地球圏へ入るには地上的波動の物質で身をくるむ必要があります」

――それは形を装うことができるのでしょうか。また人間の五感に感応するようにもなりますか。

「それは可能です。霊の思いどおりに形を装うことができます。夢の中、あるいは覚醒中でも、霊姿を見せることができるのはそのためです。手で触れることができるほどにもなります」

〈霊の格付け〉

――霊は全て平等なのでしょうか、それとも霊格の差による階級があるのでしょうか。

「その時までに到達した霊性の進化の程度に従って階級ができています」

――その階級には決まった数があるのでしょうか。

「数は無限です。霊性の進化の程度に境界や区分けは存在しません。ということは霊には一定の、あるいは恣意的な区分け法は通用しないということですから、どこに視点を置くかによって、さまざまな分け方もできる理屈になります。しかしながら、霊の性格を総合的に観察すると、大きく三つの基本的な階級ないし段階に集約できるようです。

まず最高級界が“純粋霊”とでも呼ぶべき、完成の域――といっても相対的な意味においてのことですが――に到達した霊です。

二番目の階級が進化の階梯の中間に位置する霊で、霊性の浄化が唯一の願望となり、一途に進化向上を目標としている霊です。

そして三番目つまり最低界層には向上の観念の乏しい霊、および完全からは程遠い霊がいます。その特徴を挙げれば、無知で、邪悪性を好み、向上を妨げる低級感情の全てを秘めております」

――二番目のランクの霊は完全への願望を抱いているだけで、それを達成する力量はそなわっていないのでしょうか。

「それぞれに達成した純粋性の度合いに応じてその力量をそなえております。ある者は科学的知識に優れ、ある者は叡知に優れ、またある者は憐憫れんびんの情に長けています。しかし、一様に言えることは、まだまだ誘惑と苦難による試練を必要とするということです」

――最下層の霊は全て邪悪なのでしょうか。

「そういうわけではありません。善いこともしなければ悪いこともしない、無気力で、どっちつかずの生き方をしている者もいれば、邪悪性を好み、悪事を働く機会を見つけると喜ぶという者もいます。さらには軽薄で、愚かで、気まぐれで、邪悪というよりはイタズラ好きで、積極的な敵意に満ちているわけではないが、狡猾で油断がならないといった者、働きかけやすい人間に付きまとって誇大妄想を抱かせては愉快がっている者、気晴らしに下らぬ取り越し苦労のタネを蒔いて喜んでいる者など、いろいろです」

〈霊の進化〉

――霊にはもともと善なる者と悪なる者とがいるのでしょうか、それとも本来はまったく同じもので、それが各自の努力で善性を増して行くのでしょうか。

「本来は同じであるものが努力によって善性を増して行きます。その善性の成長の過程が低い界層から高い界層への向上となって表れるのです」

――善性の高い霊として創造される者と邪悪性の強い霊として創造される者とがいるのでしょうか。

「神は全ての霊を無垢と無知の状態で創造されています。言い変えれば、何も知らないということです。その一人一人に神は使命を持たせてあります。その達成のための努力の中で啓発され、真理を知ることによって徐々に完全に近づき、つまりは神ご自身に近づくように配剤されています。

霊にとって完全とは永遠不変の無垢の喜悦の状態です。神によって課せられた試練をくぐり抜けることによって叡知を身につけていくのですが、問題はその試練への対処の仕方です。素直に受け入れ、そこに目論もくろまれたものを速やかに理解していく者がいる一方、不平だらだらで対処し、その意義を悟らず、いつまでも完全と至福の境涯から遠く離れたままの者もいます。自業自得です」

――今のお説ですと、霊はその起源においては幼い童子のごとく無知で経験に欠けるが、さまざまな人生体験を経て少しずつ叡知を身につけていくということのようですが……

「おっしゃる通りです。その譬えで結構です。子供は反抗ばかりしているといつになっても無知で欠点だらけです。従順さに応じてその成長度も決まってきます。ただ、地上の人生には限りがあります。一方、霊の旅は永遠の彼方へと延びているのです」

――永遠に低界層に留まる霊もいるのでしょうか。

「いません。全てが完成へと向かいます。懲罰の期間がいくら長かろうと、いつかは変化するものです。人間の親でも、出来の悪い我が子を生涯勘当するでしょうか」

――進化向上を速めるのも遅らせるのも本人の自覚しだいということでしょうか。

「その通りです。向上心の強さと神の摂理に従順たらんとする願望の程度によって、ゴールに速く着く者もいれば遅い者もいるということになります。ひねくれ者で怠け者よりも素直な子の方が学ぶのは速いのではありませんか」

――霊が退化することは有り得ますか。

「有り得ません。進化するにつれて、それまで進化を阻害していたものを理解します。そうやって一つの試練を克服するごとに霊はその試練のもつ教訓を学び取り、二度と忘れることはありません。静止することはあっても退化することは決してありません」

――ある霊を最高の界層へ到達させるために、神が、その霊が受けるべきだった試練を免除してやるということは有り得ますか。

「もしも全ての霊が初めから完全無欠なものとして創造されていたら、完全性を成就することから生じる喜悦を味わう資格があるでしょうか。奮闘努力をしないところに一体いかなる価値が生まれるのでしょうか。申し上げますが、そもそも霊が上下善悪さまざまで、言わば“不平等”であるという事実は、互いの霊性の進化にとって有意義なことなのです。さらに言えば、各霊が進化の途上において一つ一つ成就していく使命は、宇宙全体の調和を確信する上において、それなりの意義を持つように配剤されているのです」

――全ての霊は悪の道を通って善へ到達するのでしょうか。

「悪の道ではありません、無知の道です」

――ある者は善の道をたどり、ある者は悪の道をたどるのはなぜでしょうか。

「自由意志というものがあるのをお忘れですか。初めから邪悪な霊として創造された者はいません。みな無垢と無知の状態で創造されているのです。ということは善にも悪にも向かう可能性があるということです。邪悪になったのは、自らの自由意志でそうなったまでのことです」

――まだ自我意識が芽生えていない原初において、どうやって善と悪とを選択する自由が得られるのでしょうか。

「自由意志というのは自我意識の発達にともなって獲得されていくものです。もしも自分の意志とは別個の原因にそそのかされて善悪の選択が為されるとしたら、その霊には自由意志はないことになります。その選択を決定づける要因はその霊の内部にあるのではなくて外部にある――つまり自由意志で選んで従った外部の影響力にあります。人類の堕落と原罪という有名な比喩に秘められているのは、この自由意志のことです。誘惑に負ける者もいれば、屈せずに耐え抜く者もいます」

――外部の影響というのはどこから来るのでしょうか。

「未浄化霊です。とりこにして支配しようとする者たちで、自分たちの誘惑に負けていくのを見るのが愉快なのです。比喩で“サタン”として描かれているのは、その誘惑のことです」

――そういう誘惑は創造された当初からあるのでしょうか。

「霊としての存在のあらゆる側面において付きまとい、自制心がついて完全に抵抗できるようになり、邪霊があきらめるまで続きます」

――神はなぜ霊が間違った道へ迷い込むのを許すのでしょうか。

「各自に選択の自由を与えているところにこそ神の叡知があるのです。成就した時の功績もその霊自身のものとなるからです」

――当初から迷うことなく正しい道を歩む者と、悪の道のドン底まで迷い込む者とがいるからには、その中間には大なり小なりの無数の逸脱があるわけですね?

「まさにおっしゃる通りです。その段階の数だけ、霊の歩んでいる道があるということです」

――極悪非道の道を歩んでいる霊でも、いつかは正しい道を歩むようになるものでしょうか。

「なります。ただし“永遠の苦悶”の期間は他の霊よりも長いでしょう」

編者注――ここでいう“永遠の苦悶”というのは、低界層の霊が先が予見できないために現在の苦悶が永遠に続くと信じている状態のことと解釈すべきであろう。新たな誘惑が次から次へと訪れ、なかなか自制心がつかないのである。

――そういう長い迷いの末にようやく最高界へたどりついた霊は、神の目から見て、順調にたどりついた霊よりも功績の点で劣るのでしょうか。

「神は両者を同じ目、同じ愛で受け入れます。一時は邪霊の部類に入れられたことがあったとは言え、そうなる前は他の全ての霊と同じく、善と悪に対しては完全に無色だったのですから」

――知的能力においても霊は平等に創造されているのでしょうか。

「全ての霊が知的にも平等に創造されています。ただし、自分がいずこより来たのかということだけは誰も知りません。その謎の解明に向かって各自が自由意志で存分に知性を働かせないといけません。その度合いによって、霊性の面と同じく知性の面においても、進歩の速い者と遅い者とが出てくるわけです」

――天使とか大天使とか呼ばれている存在は普通の霊とは別の、特殊な存在の範疇に属するのでしょうか。

「特殊なものではありません。あらゆる不完全性から浄化されつくした霊は進化の最高の段階に到達し、あらゆる側面での完全性を具現しております」

――その天使たちもやはりあらゆる進化の段階をへて向上して行ったのでしょうか。

「あらゆる段階を一歩一歩向上して行ったのです。ただし、前にも述べたとおり、与えられた使命を不平も言わずに受け入れた者は速やかにゴールに到達し、道草を食った者は同じゴールへの到達が遅くなります」

――創造された時から特別に完全性を身につけている霊はいないとおっしゃいましたが、そういう特殊な霊がいることを物語る伝承説話がほとんどの国に見られるのはなぜでしょうか。

「地球という天体は永遠の過去から存在しているのではありません。地球が存在するようになる遥か以前から、無数の霊がすでに最高界にまで到達していました。地上の人間がそういう霊は永遠の過去からずっと完全な状態でいるのだと想像したのも無理はありません」

訳注――信頼のおける霊界通信では、当初から高級界に所属しているいわゆる“神霊(※天使)”の存在を指摘するもの、あるいはそれを暗示するものが少なくない。多分カルデックの時代にはあまり深入りしないことになっていたのであろう。半世紀後のシルバーバーチの霊言に次のような問答がある。

――物質界に誕生する霊としない霊とがいるのはなぜですか。

「霊界の上層部つまり神庁には、一度も物質界に降りたことのない存在がいます。その種の霊にはそれなりの宇宙での役割があるのです。物的器官を通しての表現を体験しなくても進化を遂げることができるのです。当初から高級界に所属している神霊であり、時としてその中から特殊な使命を 帯びて地上に降りてくることがあります。歴史上の偉大なる霊的指導者の中にはそうした高級神霊の生まれ変わりである場合がいくつかあります。」

――いわゆる“悪魔”というのは存在するのでしょうか。

「もしも悪魔が存在するとすれば、それも神が創造したものということになります。ですが、邪悪と残忍の中に永遠に生きるものを神が創造するなどということが考えられますか。もしも悪魔と呼ぶに相応しいものが存在するとすれば、それは地球および地球程度の低級界にのみ存在する偽善者のことです。正義の神の代理人のごとき口を利きつつ、その本性は残忍で執念深く、神の名において忌まわしい行為を犯しつつ、それが神へのお追従のつもりでいるのです」

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