訳者あとがき

「霊媒の書」のあとがきでは翻訳に当たっての私の心構えのようなものを端的に述べさせていただいたが、その中の一要素として原著者――カルデックは編者で、実質的には聖ルイを中心とする霊団――の姿勢を反映させることも重要な役割であるとの認識から、この「霊の書」では特にその点でいろいろと工夫を凝らしたつもりである。

例えばモーゼスの『霊訓』では霊団の統括霊であるインペレーターの威厳に満ちた、それでいてモーゼスを叱咤激励する時の、峻厳の中にも限りない愛を秘めた言葉に感極まり、訳者としての立場を忘れて滂沱ぼうだの涙に暮れることがしばしばだった。勢い、訳文も壮重なものとなった。

シルバーバーチはそれとはまた違った、曰く言い難い、現世を達観しながらも現実にしっかりと足を置いた爽快な叡知の泉に魂がうるおされる思いがして、抑え難い感謝の情に涙を誘発されることが、これ又、しばしばだった。それは今でも変わらない。何気なく原書や訳本を開いて読み進んでいくうちに、どっと涙が溢れる。訳本の場合は自分の訳であることを忘れている。これは一体どこから出るのであろう?

さて本書を通してお読みくださった方は、聖ルイを中心とする霊団の姿勢が右の二つの霊団とは違うことにお気づきであろう。その特徴を端的に示している箇所を一、二挙げると、「霊媒の書」では八章の中で「口はばったいようですが、こんな分かり切ったことを延々としつこく聞き出そうとするのは、いい加減お止めなさい」とクギを刺すところがある。「口はばったいようですが」は口調を和らげるために私が書き加えたのであって、原文はいきなり「止めなさい」である。インペレーターがモーゼスを叱咤する時の厳しさとは少し違うのである。

またこの「霊の書」では、死の過程の中での霊の心境を聞かれて、島流しの刑期をようやく終えて、これで自由の身になれると思ってワクワクしている、と言った表現をしているところがある。地球を流刑の地になぞらえているのである。確かに地上界が太陽系の中でも下から数えた方が早いほど低級な惑星であることは、高等な霊界通信の一致するところであるが、流刑の島に擬えたのは私も初めてお目にかかった。

翻訳を進めながら私は、こうした冷徹ともいうべき態度、日本流の言い方をすれば“一刀両断に切って捨てる”ような酷しさは一体どこからくるのだろうかと考えた。

霊団はアウグスティヌスやソクラテス、プラトン、ヨハネ、パウロなどの古代霊を除いて大半は中世から近代に活躍したフランス人で、統括霊が“聖(セント)ルイ”と称されたルイ王朝の第九世である。

ルイ九世は歴代の王の中でも“理想像”とされるほど傑出した人物だったようで、学問と芸術の振興にも力を入れている。十三世紀の人物であるが、聖アウグスティヌスやソクラテスなどの大人物を従えた霊団を指揮するほどの霊格をそなえていたのであろう。

地上の交霊会の司会者として最終的にこの二冊の大著を編纂することになったカルデックも、出生前から霊団との打ち合わせができていたはずで、その使命は十分に果たしたと言えるのではなかろうか。不遇だった時代に多くの教育書や道徳書、とくに本書にも出ているフェヌロンの著作をドイツ語に翻訳していることも、霊団側の配慮であろう。

問題は、モーゼスの場合と同じく、キリスト教神学を基盤とした人生観・宇宙観が根強かったことである。が、近代教育の父と言われるペスタロッチのもとで学び、その自由闊達な総合教育の理念に馴染んでいたのも霊団側の準備だったと私は見ているが、その彼にとってもスピリチュアリズム思想との出会いは驚天動地の革命的事件だったことであろう。

霊界通信の可能性に得心が行った後、キリスト教のドクマを中心に質疑応答が展開していったのは西洋人として当然のことで、本書にもそれが随所に見られるが、彼の質問を“しつこい”ものにしたもう一つの要素として、各地で催されている交霊会へ出席してみて、そのいい加減さを知ったことである。勢い自分が司会をする交霊会でも警戒心を強め、徹頭徹尾“疑ってかかる”態度に出るようになった。

霊的なことに関してはまず疑ってかかるという態度は大切であるが、それも度が過ぎると幼稚に響くようになる。私も“しつこいなぁ”と思い、内容的に重要性がないとみたものは削除した。

これほど高度な内容が盛り込まれていながら他の霊訓と少し感じが違うのは、そういう経緯から出ていると私は見ている。

さて二冊の著書に盛り込まれた通信に直接携わった霊は何人だったかというのも私の関心事の一つだった。出てきた氏名だけを数えれば二十四名であるが、本文の問答の中で署名が付いているのは聖ルイ、エラステス、フェヌロン、聖アウグスティヌス、プラトン、パウロ、ラメネイの七名だけである。他にも、いかにもフランスらしい氏名、例えばジャンヌ・ダルクやルソー、ナポレオンといったお馴染みの名が目白押しである。イエス・キリストまで登場している。

しかしカルデックはそれらを巻末に集めて批評を加え、適確に裁いている。その批評の中には日本の心霊関係者も反省材料とすべきものが少なくないので、二、三紹介しておきたい。

例えば“ナポレオン”からの通信を紹介したあとカルデックが次のようなコメントをしている。

「この世に謹厳で実直な人間がいるとしたら生前のナポレオンこそその一人だった。その信念、その簡潔な文章は知る人ぞ知るところであるが、もしもこの通信がそのナポレオンからのものだとしたら、どうやらナポレオンは死後、不思議なほど堕落してしまったようだ。これは多分、ナポレオンの騎兵隊の一人がナポレオンを気取って書いたものであろう」

次に“イエス”と署名のある通信を二つ紹介してから――「この二つの通信文で言っていることは、これといって読んで毒になるものはないが、あのイエスがこんなぎこちない、気取った、大ゲサで滑稽な文章しか書けないのだろうか。(中略)一連の通信文には共通したニュアンスがあるところから判断して、これらは全部一人の低級霊が書いたものであろう」

“ジャック・ボシュエ”というカトリックの大司教だった人物の署名のある通信文のあと――「このメッセージにはケチのつけようがない。それどころか、深遠な哲学的思想、そして透徹した助言も盛られていて、普通の者はあのボシュエからのものに相違ないと信じるであろう。(中略)が、聖ルイに尋ねたところ、内容は確かに申し分ないが、ボシュエのものと思ってはいけない。書いた霊はある程度ボシュエのインスピレーションを受けていたかも知れないが、“ボシュエ”の署名のあとに付してある“アルフレッド・ド・マリナック”という人物が書いたものである、という返答だった。そこでその霊を呼び出して質してみた。

“いかなる了見でこんなごまかしをなさったのですか”

“いつか人間の注目を集めるような通信文を書いてみたいと思っていたんです。私の文章力は弱いので、でかい名前を使ったまでです”

“でも、すぐにニセモノということがバレることが見通せなかったのですか”

“どういうことになるか誰にも分かったもんじゃありませんよ。あなただってかつがれたかも知れないじゃないですか。見る目のない連中はボシュエのものと信じたでしょうよ”

確かに、有名人の署名があるものだとすぐに本物と信じたがるところに、低級霊をつけ上がらせる原因がある。そうした低級霊の策謀を挫折させる道は洞察力を働かせる以外にはないが、そのためには豊かな経験と学習を重ねるしかない。交霊会を催す前にしっかりと勉強してほしいと我々が忠告するのはそのためである。熱心な研究家が煙に巻かれたり当惑するような体験を避ける道は、こちらがしっかりと勉強するしかないのである」

最後に言及しておかねばならない問題として、カルデック霊団は心霊治療ないし霊的治療に関しては論じていないことが挙げられる。私見では、スピリチュアリズムのために結成された幾つかの霊団にはそれぞれに役割分担があり、その背景には時代の進展に合わせた配剤があるはずである。

霊的治療の重要性を前面に押し出したのはシルバーバーチで、時代がハリー・エドワーズを筆頭とする数多くの有能なスピリチュアル・ヒーラーが輩出した時代と重なったのも偶然ではないであろう。

聖ルイの霊団には主として倫理・道徳に関する霊的原理を説くという役割が割り当てられていたのであろう。第三部は本書の圧巻で、これほど綿密に、しかも理路整然と摂理の働きを説き明かしてくれたものは他に類を見ない。

熟読玩味の上、日常生活の指針としていただければ有り難いと思っている。

平成八年十月

近藤千雄

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