(5)神は法則を通じて霊界・宇宙・万物を支配する存在者

……「法則の神」

摂理による神の支配

高級霊が神について論じるとき必ず言及するのが、神の造られた「摂理(法則)」です。宇宙とそこに存在する万物は、神の造られた摂理(法則)によって厳格に支配され維持されています。宇宙に発生するすべての現象が、神の造られた一連の法則によって引き起こされているのです。

宇宙の天体の規則正しい運行、物質のミクロの世界における運動の完璧性、また生物・生命界における狂いのない規則性――こうした宇宙に存在する秩序は、世界が「神の摂理」によって支配されていることを示しています。

神の完全性を示す摂理の完璧性

神が霊界・宇宙のすべてを支配し管理するために造られた「摂理(法則)」には、神の偉大さ・完全性がそのまま反映されています。地上人類は神の造られた摂理を通して、神の全知全能性を知ることができます。宇宙を支配する摂理は、神の知性の一面を表しています。摂理の完璧性を通して、神の知性がいかに完全なものであるかを知り、神がまさしく全知全能の方であることを理解することができます。

高級霊は、神の摂理の完璧性に対して幾度となく感嘆の思いを述べています。私たちも霊界の高級霊にならって、宇宙の天体の運行や物質のミクロの世界の運動、そして自然界の営みの中に神の完全性を見い出し、神の姿の一端に触れ、感動に浸りたいものです。

摂理を通して現れる神

神によって創造された人間も、当然「神の摂理(法則)」の支配を受けます。人間は常に神の摂理の枠内にあり、摂理を通して神と接点を持ち、神と間接的な関係を保つことになります。神――摂理(法則)――人間という関係の中で、神が直接人間に働きかけるようなことはありません。

こうした“神”を人間サイドから見るなら――「神は常に法則として現れる」ということになります。神と法則が一体(一つ)になって“法則の神”として現れることになります。

厳格な摂理の支配と、完全平等・完全公平の世界

神は、法則を通じて霊界と宇宙を支配しています。その支配の仕方は機械的であり、正確・厳格であり、そこには何ひとつ例外はありません。もし神の摂理による支配に例外があるとするなら、神みずからが宇宙全体の秩序を崩すことになってしまいます。

そうした神の法則の機械性・厳格性は、人間サイドからすると、無慈悲で冷酷な神が存在しているように見えます。神は人間を愛もなく無慈悲に支配し、どんなに苦しくても手を貸してくれない、というように映ってしまいます。実際、歴史上の多くの信仰者が、熱心に神を信じながらも途中から神をのろい、最後には神に反抗するようになっていきました。

摂理は一点の妥協もなく、常に機械的な正確さと厳格さをもって万物を支配しています。この摂理の支配から逃れられる人間は一人もいません。それゆえすべての人間の間に、完璧な平等と公平が維持されるようになっています。人間はとかく、神に対して自分への特別な配慮を願いがちです。しかし法則による厳格な支配は、全人類を完全平等・完全公平に扱うシステムとなっています。そこには特別な恩寵おんちょうもえこひいきもありません。人間サイドの個人的事情によって、神の摂理が変更させられるようなことは決してないのです。

神に対する正しい姿勢・正しい信仰とは

人間が神に近づくためには「神の摂理(法則)」を正しく理解し、それにそって生活を営むように努力するしかありません。神に特別な配慮を願うのではなく、自分の方から神の造られた摂理に合わせていくべきなのです。そうした努力こそが、まさに“正しい信仰”と言えます。

神を信じる者は、ともすると自分の願いが聞き届けられ、特別な配慮が与えられることを期待します。神によって奇跡が起こされ、他人とは異なる恩恵がもたらされることを祈ります。敵をらしめ、罰してくれることを祈り求めます。地上の信仰者の心の内には、常にこうした神への期待・願望が潜んでいます。しかしそのような祈りは、すべて無視されることになります。なぜなら摂理を通して世界を支配するシステムの中では、神が直接、地上人の願いに応じるようなことはないからです。神が格別の計らいによって奇跡を起こすようなことは絶対にないからです。

これまで地上人類は、神に自分の願い事を聞き届けてもらおうとする間違った信仰・的外れな信仰を延々と続けてきました。必死に神に願い事をすることが熱心な信仰だと錯覚してきたのです。

摂理の背後に“神の慈悲”が存在する

摂理が支配する世界は、一見すると、とても冷たく無慈悲な世界のように映ります。しかし、この摂理の背後に“神の慈悲”が存在しているのです。すべての摂理(法則)は、神の大きな慈悲から造り出されました。摂理(法則)自体には慈悲はありませんが、それを造った神の心の内には、人間の幸せと成長を願う“親の愛”があるのです。

もし人間が自分だけに特別な慈悲を願うなら、神の愛が分からなくなり、法則の冷たい無慈悲な面だけが前面に迫ってくるようになります。そして、「神などいない!」ということになってしまいます。神を正しく理解する者のみが、厳格な摂理の支配の中に「神の愛」が遍在していることを知ることができるのです。

――シルバーバーチは、しばしば「神とは法則です」という表現をしていますが、この言葉は誤解を招きがちです。シルバーバーチの神観の真意を理解するためには、次の箇所を併せて読む必要があります――「神は大自然の法則より、もっと大きい存在です。なぜなら、その法則を支配しているのが神だからです。神とは、その自然法則と同時に、それが作動する仕組みをもこしらえた無限なる知性です。」

シルバーバーチは、はっきりと「摂理は神が造られたものである」と述べています。すなわちシルバーバーチは、摂理は神の属性であって、神そのものではないことを明らかにしているのです。

――シャカは、自然界の法則に注目しました。そしてこの世の万物は相互関係の中で存在し、常に生生しょうじょう流転るてんし変化しているという「縁起えんぎ説」「無常説」を説きました。「万物はたえず移り変わり、一つとして不変なもの・不変な実体はない。しかるに人間は永遠に憧れ、不変な実体を願い求めるところに執着が起こり、苦しみが発生するようになる」とシャカは考えました。

自然界の法則性に注目したシャカの姿勢に問題はありませんが、シャカが明らかにした“法”は、神の造られた物質界の「摂理(法則)」のごく一部分にすぎません。それをもって根本真理としたことは、大きな錯覚・誤謬と言えます。またその自然界の法則を拡大解釈し、第一原因である神の存在を否定したことは明らかに間違っていると言わざるをえません。

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