(4)地上人の心と霊肉関係

脳と本能

さて肉体の“脳”ですが、これは霊の心の意識(霊的意識)に対する受信機であると同時に、肉体に対してはコントローラーの働きをしています。脳から発生する“本能”によって、肉体の維持存続がはかられます。肉体維持のために必要な欲求は、本能から発します。食欲・排泄欲・生存欲・種族維持欲・性欲・母性本能などによって、地上の動物はその種を維持存続させているのです。

このように私たちの肉体生命は、脳から発生する本能の欲求によって維持されるようになっています。本能はどこまでも、その個体の維持をはかるという目的を持ち、その個体の維持のためにのみ働きます。それゆえ本能は、常に“自分自身のため”という方向性、自分中心の方向性を取るようになります。

こうした本能は動物にもあり、それが人間と動物の共通部分となっています。動物には、人間のような「霊の心」も「霊的意識」もなく、肉体本能だけがあります。したがって、もし人間が「霊的意識」を全く持つことができなかったり、それを感じ取ったとしても無視して肉体本能の命ずるままに生活をするなら、霊的要素のない動物と同じ状態になってしまいます。まさに本能的人間・動物的人間になり、霊的存在とは言えなくなってしまいます。

地上人の心を形成する二つのソース

自分の内に心があることは、誰もが認めざるをえません。自分の心の存在を自覚していない人間はいません。では、その心はどこから発生しているのでしょうか? 心はどのようにして形成されているのでしょうか?――この質問に正しく答えることができる人はいません。心は誰もがその存在を実感しているにもかかわらず、最も謎に満ちたものなのです。これまで心は、思想上の重要なテーマとされてきましたが、現在に至るまで明確な見解は示されてきませんでした。“スピリチュアリズム”は、この難解なテーマについて人類史上、初めて明らかな答えをもたらしました。

それは私たち地上人は、別々のソース(発信源)から発信された別々の意識を「一つの心」として感じているという重大な事実です。地上生活で私たちが「心」として自覚するもの(顕在意識)は、脳を経て届けられた「霊の心の意識(霊的意識)の一部」と、脳から発生する「本能的意識」の二つから形成されているという心の秘密を解明したのです。

地上人の心を形成する二つのソース

心の中での「霊と肉の闘い」

「霊の心」は、もともと利他的指向性を持っています。一方「本能」は、すでに述べたように利己的指向性を持っています。このように全く相反する指向性を持った二つの意識が一つの心をつくり上げているため、心の中で激しい葛藤・対立が生じるようになります。「霊の心」に従って、より高い価値的な生き方をしたいと思うようになると、必然的に心の中で本能的思いと対立するようになります。これが古来より言われてきた「霊と肉の闘い」です。

利他的で清らかな世界を求めれば求めるほど、利己的な本能的思いと葛藤せざるをえなくなります。こうした霊と肉の葛藤は、肉体を持つ地上人にとっては、避けることができない宿命と言えます。

「霊主肉従と肉主霊従」・「霊優位と肉優位」・「霊中心と肉中心」

人間は神によって「霊的存在」として造られています。それは人間の霊が永遠に存在するのに対し、肉体は一時的であることからもうかがい知ることができます。また、すべての動物が霊体を持たず、地上かぎりの生活で終了してしまうのに対し、人間だけが死後も霊的身体をまとって永遠に生き続けるという驚くべき霊的事実があります。この事実は、人間が明らかに「霊的存在」として神によって創造されているということを物語っています。

こうした霊的事実は、私たち地上の人間は常に霊的なものを優位にした生き方を目指さなければならない、ということを意味しています。「霊の心」を肉体意識(本能)よりも優先する、「霊的意識」を心の中心におくという生き方をしなければならないということなのです。霊を肉よりも優位にすることを「霊主肉従」と言います。霊主肉従を別の言葉で表現するなら、心を霊優位にする・霊中心にするということです。霊主肉従の反対は「肉主霊従」であり、肉(本能)優位・肉中心ということになります。

霊的存在として造られている人間は、自らを霊主肉従の状態においてこそ「神の摂理」と一致し、調和を保つことができるようになります。そのとき人間は、初めて霊的存在としての資格を持つことができるようになるのです。「霊主肉従」は、人間が霊的存在として立つための最低条件であり必須条件です。そうした大前提の上に立ったときのみ人間は、霊的に成長していくことができるようになっています。

シルバーバーチの霊界通信では、霊主肉従のことを「霊が主人で肉はしもべ」「霊が王様で肉は家来」と表現しています。しかし残念なことに現在、地球上の大多数の人々は「霊主肉従」ではなく、「肉主霊従」の状態で地上人生を過ごしています。その結果、霊的成長をなすことができず、せっかくの地上人生を無駄に送ることになっています。

霊主肉従と肉主霊従

宗教における修行の本来の目的

宗教における修行の本来の目的は、この「霊主肉従」をいかにして確立するか、ということに集約されます。物質の道具である肉体を携えて地上生活を送りながら、自らを霊主肉従の状態に保つためには大きな困難と苦痛がともないます。厳しい自己コントロールの努力が要求されるようになります。肉体をまといながら、清らかな思いを持ち続けるのは並大抵のことではありません。本能的感情にすぐに翻弄ほんろうされ、醜い思いを抱くようになってしまいます。霊主肉従を維持することは至難の業です。これが修行者の内面における「霊的闘い」の実相であり、魂の浄化を目指す際の“霊的葛藤”なのです。魂の向上を目指す修行者や宗教者は、常にこうした霊的闘いと遭遇し、悩み苦しんできました。

しかしそうした苦しい霊的闘いも、死によって肉体を脱ぎ捨て霊体だけになると、その瞬間から消滅するようになります。肉体を脱ぎ去ると同時に、本能的思いは消えてなくなってしまうからです。したがって心の底から霊的な清らかさを求めてきた人間にとって、死は「霊肉の闘い」の苦しみから自分を解放してくれる祝福の時となります。「肉体本能」は、人間が物質界である地上世界で過ごすために必要なものとして“神”が与えたものです。それと同時に神は、人間自らが奮闘努力の中で「霊優位(霊主肉従)」の状態を確保し、霊的存在としての立場を保って霊的成長の道を歩むことを願われたのです。

正しい禁欲生活

高級霊による霊界通信は、地上人類への教訓として、真っ先に「霊主肉従」の大切さを強調しています。霊主肉従とは、物欲や本能に流されないようにするための努力であり、ある種の禁欲的生き方を意味します。とは言ってもその“禁欲生活”は、霊的摂理から逸脱した無意味で無駄なものであってはなりません。一般に見られる肉体行や荒行は、必ずしも人間の霊的成長にとってプラスにはなっていません。それどころか反対に、利己性・本能性を助長する結果を招いています。

しかし「霊的摂理」の上に立ったストイック(禁欲的)な生き方を心がけることは、地上の人間にとってマイナスになるどころか、大いに「霊的成長」をもたらすことになります。現代人は“ストイック”であることを極端に嫌い、まるで前近代的遺物であるかのごとく考える傾向がありますが、それは「霊的事実」を知らないところからくる間違った考え方なのです。

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