12節

〔本質においてプライベートなことを公表するのは決して私の本意とするところではないが、それを敢えてこうした形で公表するのは、一人の人間の思想的経験が他の大勢の人々の経験となり得るであろうし、私がたどって来た精神的ないし霊的葛藤の過程が、同じような過程をたどっている人々にとって参考になるかも知れないと考えたからである。

さて、その後数日間、そうした霊による宗教上の教訓の問題に関する通信が途絶とだえていたが、私の胸には以前にも増してさまざまな疑念が湧き起こり、それを遠慮なく書かせて貰った。当時の私の心境を思い起こすと、インペレーターの通信を読んで途方に暮れ、茫然自失の状態にあったようである。そんな目新しいものを受け入れる余裕はとてもなかった。そして私にとって最も気がかりだったのは“霊の身元”であった。その時の私の考えでは、霊の教説を云々するよりも、霊の地上時代の身元を明かしてくれる方が先決のように思えたのである。またそれ位のことは出来るはずだと信じていたので、それが叶えて貰えないことに焦燥を覚えたのである。今でこそ理解できるが、まず獲得すべきなのは“確信”であって、私が期待したような形だけの身元の証明ではその確信は得られないことが、当時の私には理解できなかったのである。

私を悩ませたのは、いわゆる霊界通信の多くが決して有害とまでは言わないにしても、愚かしく且ついい加減なものであるという印象を拭い切れないことであった。私はそれをキリスト教の思想家の教説と比較してみたが、やはり後者のほうが上であった。また私には霊の見解の中に大きな矛盾があり、あらゆる思想が混ざり合っているようにも思えた。個人的にもその殆どに共鳴できないし、それを受け入れる人にプラスになるとも思えなかった。これを信じる者は狂信家か熱狂者の類であると想像し、不快感さえ感じていた。内容的にも、また交霊会における現象にも大して魅力を覚えず、私はさきに述べた疑問点を書き連ねた。それは主として地上時代の身元の証明に関するものと、神と人間との関係つながり、及びスピリチュアリズムの一般的性格とその成り立ちに関するものであった。次がそれに対する回答である――

友よ、再び対話を交えることを嬉しく思う。そして、たとえこの機会に質問の全てに答えることが出来ず、また全てを解決し得ずとも、神と人間との関係並びにわれらの背負える使命についてそなたが抱いている誤解の幾つかを解くことが出来るであろう。

そなたの誤解の根源は神及び神と人間との関係についての誤れる概念にあるやに観ぜられる。人類の歴史を通じ、唯一にして同一の神の啓示が一貫して流れていることに間違いはない。が、人間がその啓示を理解せんとするうちに、愚かにもその本性と働きについて真実より大きくかけ離れた奇々怪々な概念を想像するに至った。

太古においては、そのお粗末なる概念は物体の形をとり、祈りが叶えられれば畏敬され、叶えられぬ時は即座に棄て去られることの繰り返しであった。彼らは、目の前の物体そのものは何の霊力も持たず、背後に霊が控えて筋の通れる祈りはこれを叶えさせんとしている事実を知らなかった。彼らにはそれ以上の神の概念は思いつかなかったのである。目に見え手に触れるものにしか神の概念を託し得なかった。この点を篤と注意するがよい。彼らの神の概念を託したのである。神そのものではなく、彼らが精一杯想像し得た未熟な概念だったのである。いい加減な占いの結果より情報を引き出し、これを規準に勝手に祭礼の規範を拵え、挙句にはそれを以って神を裁くに至った。自分らの想像せる神を裁いたのである。彼らは同族の者たちの間で畏敬の的とされる人間的属性を神の属性と考えた。人間から切り離せぬ幾つかの弱点を神も有するものと考えたのである。

かくして出来あがれる神は全てに先んじて己の名誉の維持に腐心する神であり、時に我慢強く、時には優しい慈悲心を持つ神であった。所詮は神を語る者がその時に神はかくあるべきであると想像せるものであった。要するにそれは栄光を授けられたる人間――普遍絶対性と全知全能を具えた人間であった。彼らはそういう神を想像し、そういう神ならば斯くするであろうと考えたのであった。かくの如くして、いつの時代においても神の概念にはその時代の特色が反映している。それは人間の成長と共に進歩する。その知的発達と洗練の度合に応じて進歩したものとなって行く。ほかでもない。その通路となる霊媒が無知の足枷より解放され、光と知識へ向けて進歩しただけ、それだけ神について正しき概念を把握することが可能となるが故である。

神が人間の受容性に応じて啓示を垂れるということは、これまでも度々述べてきた。当然そうあらねばならぬ。神も人間の霊媒を通じて啓示する以上、その霊媒の受容能力に応じたものしか啓示されぬのが道理である。神につきての知識が人間の受容度を超えることは有り得ぬ。仮に今われらがより完璧に近き神学を述べたとしよう。それはそなたには奇異に響き、理解することは不可能であろう。故にこれ以後もわれらは徐々にそなたの受容度に応じて真理を注入していくであろう。そしていずれは現代のそなたの観念の誤りに気づく日も来よう。が、今はまだその時機ではない。神について各自が抱ける概念が即ちその者にとっての神である以上、啓示がその受容度を超えることは絶対にあり得ぬ。事の本質上それは不可能なのである。

それ故そなたが神の働きの真意にまで言及して“そのようなことは絶対に有り得ない。それでは神の本質に反することになる。神がそのような行為に出られるはずがない。なぜなら、あの時も神はそのような行為に出られなかったからである”と述べるということは、言い換えれば“私の神の観念はかくかくしかじかであるから、今それ以外の観念は受け入れるわけにはいかぬ。私の信じるところによれば、私の神はそのような挙には出られないはずである”と述べていることになる。われらが指摘せんとするのはまさにそこである。そなたはそなた自身の神を拵え、そなた自身が相応しいと考える通りの働きを神に強要している。そのうち――この地上にせよ死後にせよ――そなたの視野が広がるにつれて新たなる光が射し込み、“なるほど自分は間違っていた。神は自分の想像していたものとはまるで違う。なぜ自分はあのような愚かな観念を抱いていたのであろう”と述懐する日も到来しよう。

これは全ての進歩的人間に言えることである。その目覚めの時は必ずしも地上生活中に到来するとは限らぬ。ある者は死後の新たな生活まで待たねばならぬ。が、この地上にて洪水の如き知識の恩恵に浴する者もいる。魂が古き信仰に魅力を失い、無味乾燥に思え、新たな、より真実味のある啓示を求める。干天の慈雨の如く、生命を生き返らせる何ものかを求めんとする。

さてそなたはそなたなりの啓示を得た。いや、今まさに手にしつつある。観方によればこれはそなたの精神が広がり、その受容力に応じた神の観念の入る余地が出来たしるしと言えよう。が、さらに観方を変えれば、外部より新たにして豊かなる神の啓示――人類の歴史を通じて得られた啓示と同じ根源からの啓示――が流入したと言うことも出来よう。

それはどちらでも構わぬ。啓示と理解力、知識と受容力とは常に相関関係にある。受容力が備わるまでは知識は授からぬし、精神がその不足を意識するほど進化するまでは、より高き啓示は得られぬ。その理由は単純である。精神そのものが啓示を受ける通路だからである。

そなたたちが抱いている神の観念は、全て人間の精神を濾過器として地上にもたらされたものである。神を求める人間的渇仰の具象化である。未熟なる精神の産物であり、その精神の欲求は必ずしもそなたの欲求とは一致せず、従ってその神は――と言うよりは、神についての見解は、そなたの見解とは異なる。それをそなたはどうにかしてそなたの思想構造に適合させんとするが、所詮それは叶わぬことである。何となれば、その観念たるや発達程度を異にするさまざまな人間による産物の混合物だからである。

よく考えるがよい。そなたはわれらの述べるところの観念が、そなたが聖なる記録より引き出したる観念と相容れぬことを理由に、われらを神の使徒とは認めぬと言う。では聞くが、われらの説く神が一体どの神と異なると言うのか。アダムと共に人間の姿で地上を歩き、何も知らぬ者たちの犯せる罪――今では些細なる過ちに過ぎぬとされている罪――に恐ろしき報復をしたと、まことしやかに語られているその神のことか。それとも、忠実なる友にその一人子を供物として捧げることを命じたという神のことか。あるいは、君主としてイスラエルを支配し、公衆衛生法規の発令と礼拝堂の建立に意を注ぎ、イスラエル軍と共に戦場に赴き、罪なき無抵抗の他民族を全滅させるための残忍この上なき法律と法規を発令したという神のことか。もしかしてその神は、イスラエル軍が流血と修羅場の中でもうあと数時間戦えるよう、ヨシュアに特別の力を与えて宇宙の運行を止まらせ、太陽系を麻痺させたという神のことであろうか。それとも、自分が選べる民イスラエル人が目に見える君主を要求したことに腹を立て、以後何百年にも亙って手を変え品を替えて報復し続けたという、あの神のことか。

さらに、われらの教えはそなたたちのいう大予言者の説ける神々のうちのいずれと相容れぬと言うのか。イザヤの神か。エゼキエルの神か。それともエレミヤの病的な心の産物であるあの陰気なる神か。それともかのダビデの神――半ば父の如く、半ば暴君の如く、残忍さと従順さとを交互に見せ、いつも矛盾と不合理に満ちた神か。それともヨエルの神か、ヨハネの神か。それともパウロのカルヴァン(1)主義的な、あの身の毛もよだつ天命と地獄と選抜、それに白日夢の如き物憂げな天国等の幻想のことか。そのいずれと矛盾するとそなたは言いたいのか。パウロかヨハネか、それともイエスか。

改めて述べるまでもなく、神の啓示はいつの時代にもその時代の人間の受容能力に応じたものが授けられ、それがさらに人間の精神によって色づけされている。言い換えれば、神の観念は鮮明度の差こそあれそれを受けた霊感者の考えであったとも言える。精神に印象づけられた霊示がその霊感者を取り囲む精神的環境によって形を賦与されていった。即ちその霊感者の受容度に応じた分量の真理が授けられ、それが霊感者の考えによって形を整えたのである。真理の全てを授かれる者は一人としておらぬ。みなその時代、その民族の特殊なる要請に鑑みて必要なる分量のみが授けられた。今も引き合いに出せる如く、神の観念が種々様々であるのはそのためである。無論われらとわれらの説く神は、ヨシュアとその神ではない。パウロとその神でもない。もっともわれらは、その神を最も正しく理解しその真近に生活せるイエス・キリストによって、何も知らぬ民に寓話に託して説かれた朧気な神の観念を、われらの説く神と同列に置いて比較しようとは思わぬ。イエスは弟子の誰よりも鮮明に神を認識していた。その説くところは極めて単純にして平易であり、真摯であった。その神の教えもまた同じく平易そのものであった。“天にしますわれらが父”――無知なる人間が勝手に神の属性を決めつけ、他愛なき要求を神に押しつけている神学上の学説に比して、これはまた何という違いであろう!

神! そなたは神を知らぬ! そのうちそなたも、その目を遮るベールの内側に立てる時、そなたが愚かにも想像せる神の観念の誤りを知って驚くことであろう。真実の神はおよそそなたの想像せるものとは異なる。もしも神がそなたらの説くとおりのものであるとすれば、その神は創造者としてあるまじき侮辱を受けたとして、それを最初になすりつけたる傲慢無礼なる人物に報復すべきところである。

が、神はさようなものではない。人間のお粗末なる奴隷根性などにて捉えられる性質のものではない。神はそうした卑屈なる想像しか出来ぬ愚昧なる人間の無知を哀れみ、赦される。決して咎め立てはなさらぬ。無知は故意でさえなければ決して恥ではない。が、神は低劣なる観念をいつまでも後生大事にする愚かさ――己の偶像を宿す暗くカビ臭き心に、新たなる光を入れようとせぬ態度をこそお咎めになる。闇を好み、光を嫌い、いつまでも過去の未熟なる幻想にしがみつき、イエスの説ける単純素朴にして雄大なる神に美を見出し得ず、その崇高なる概念に未開時代の神人同形同性説を継ぎ木せねば承知できぬ者たちをこそ咎められるのである。そうした類の、より崇高なる教えを受け入れられぬ者たちは、今なお決して少なくはない。が、そなたはまさかその類ではあるまい!

もしもそなたが軽率にもわれらの教えを旧約聖書のそれと矛盾すると決めつけるのであれば、われらとしてはこう答えるほかはあるまい。すなわち、確かにわれらの教えは、神をあのような腹を立て嫉妬するが如き人間的暴君に仕立てた、古き不愉快きわまる教説とは大いに矛盾しよう。が、イエスを通じて授けられたる神聖そのものの啓示とは完全に軌を一にする。ただ、人間はそのイエスの教えを身勝手なる欲求によって余りに堕落させ、悲しいかな、その真の信奉者にまで背を向けしむるに至ったのである、と。

もしもわれらの述べる神および死後の生命についての言説に何一つそなたの心に訴えるものを見出し得ぬとすれば、それはそなたの魂がかつて喉を潤せる、より雄大にしてより単純素朴なる概念に魅力を覚えなくなったということであるに相違ない。たぶんそなたの魂が邪霊の策略にかかり、地上と神との間を遮る暗雲がそなたに恐ろしき影響を及ぼしつつあるということであるに相違ない。願わくはわれらがその暗雲を取り払い、今一度感化と安らぎの光をそなたの魂に注ぎ込むことが出来ればと思う。永遠に拭えぬほどの危害がそなたに及ぶとは危惧しておらぬ。そなたがこれまでの知識の基盤を総ざらいすることを、われらは別に残念とは思わぬ。それも無益ではあるまい。

さしたる意味もなき些細なる問題に捉われることは止めることである。大なる問題、神につきてのより明瞭なる啓示の必要性、神およびわれら神の使徒につきて、今地上を席巻しつつある冷ややかなる無知と無関心の問題、われらの説く崇高なる教義、そしてわれらが明かす生命躍如たる来世等を十分に検討するがよい。想像の産物に過ぎぬ“悪魔”の問題で心を悩ますことは止めることである。真摯なる者、純心なる者、誠意ある者にとっては神学がまことしやかに説く悪魔も閻魔も存在せぬ。悪は近づけぬのである。邪霊は逃げ去り、悪の勢力も彼らの前では無力となる。そのまわりは天使によりて保護され、明るき霊の支配を受け、進むべき正しき道へと導かれる。

彼らの前途にはかぎりなき知識と、彼らの知性を昂揚し気高くする全てのものが待ち受けている。悪魔などは、自ら創造せぬかぎり、恐れるに足らぬ。善性への親和力が善なるものを引き寄せるのである。まわりには守護に当たる霊が控え、自ら求めぬかぎり邪霊の餌食えじきとはならぬ。悪の誘惑や罠が特別免除というのではない。試練の時に味わわされる雰囲気も免れることは出来ぬ。魂が悲しみと懊悩の暗雲に被われ、罪の重荷に打ちひしがれるやも知れぬ。すなわち、あたりに見る不幸と悪に己の無力さを感じ、良心の苛責に苦しめられることもあろう。が、悪魔が彼らをとりこにし、あるいは地獄へと引きずり下ろすなどということは絶対にない。そうした懊悩も悲しみも良心の苛責も、所詮は魂の経験の一部であり、その体験の力を摂取して、魂は一段と向上して行く。それは進歩の手段として守護霊が用意せる試練であり、故に細心の注意をもって悪の勢力から保護してくれているのである。

悪を好み、霊性の発達を欠き、肉体的欲望に偏れる者のみが、肉体を棄てたのちもなお肉体的欲望を棄て切れぬ同質の未発達霊を引き寄せるのである。悪の侵入の危険に曝されているのは、そうした類の人間のみである。その性癖そのものが悪を引き寄せる。招かれた悪が住みつくのである。そうした人間が、地上近くをうろつきまわり、スキを見ては侵入し、われらの計画を邪魔し、魂の向上のための仕事を挫折させんとする霊を引き寄せるのである。さきにそなたは軽率にも霊界通信なるものがいい加減にして益になるとは思えぬと述べたが、それは全てそうした低級なる邪霊の仕わざである。

友よ、そなたはその点の理解を誤っている。低級なる人間が自ら招いた低級なる霊の仕わざをもってわれらを咎めてはならぬ。咎めらるベきは聖純なるものや高尚なるものを嫌い、低俗にして下劣なるものを好む他愛なき人間的愚行の方である。かの愚かなる法律をまず咎めよ。単なる風習と流行によって助長されたに過ぎぬ愚行と罪状によって行く手を阻まれ堕落の道へと引きずり下ろされた数多くの人間を、何の準備もなきまま死後の世界へと追いやる法律をまず咎めるベきである。さらには酒場、精神病院、牢獄、そしてそういうものによって増幅されたる情欲と悪魔の如き強欲を咎めよ。無数の霊が永遠の火刑に処せられるとは実にこのことである。そなたらの想像せる物的ほのおではない。死後もなお消えやらぬ業欲が炎の如く魂を焼き続けるのである。燃えるだけ燃え、その強欲を焼き尽くして、ようやく魂が清められる。さよう、咎めらるベきは善霊を偽りてそなたらをごまかし、軽薄と誤りによって翻弄せんと企てる低級霊たちである。

これ以上のことはまたの機会としよう。すでにわれらは予定せるもの以上のことを述べた。それに、余の耳に神への礼拝の時の到来を告げる声が聞こえる(2)。これより余もその礼拝の儀式に参列する。願わくば余の祈りが慈悲ぶかき神の御胸に届き、そこより流れ出る御恵みの流れの一すじがそなたにも届き、なごみと静かなる確信がそなたの悩める魂を癒し、慰めとならんことを祈る。

(†インペレーター)

〔注〕

  • (1)

    John Calvin 十九世紀の神学者、宗教改革家。カルビンとも。

  • (2)

    高級神霊界においては「讃仰さんごうの祈り」という儀式がよく行なわれる。

    シルバーバーチ霊が語っているところによると、とくにイースターとクリスマスの頃には地球浄化の大事業すなわち「スピリチュアリズム」に携わっている世界各地の霊団の指導霊が一堂に会し、計画の進捗しんちょくぐあいの報告と今後の方針の決定が為される。その時の主宰霊がほかならぬ地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた人物であるという。

    無論これは「ナザレのイエス」として地上に降誕する以前から行なわれていたはずで、日本神道の祝詞で八百万の神々が「高天原に神集えに集え給う」と述べているのは、そのことではなかろうか。

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