6節

〔この頃ホーム氏(1)と会った。その日は、たまたまダービーの日で、ホーム氏を通じて、ダービーのために霊的状態が悪く、仕事にならないと言ってきた。そこで翌日(五月二十九日)その点を質してみたところ、いろんなことを述べたあと次のように書いた。〕

そうした催しは道徳的雰囲気を乱し、われらを近づき難くする。そこにはわれらに敵対心をもつ邪霊が集結し、物欲を満たさんとして集まれる人間に取り入るすきを窺うのである。昨日はそうした物欲に燃える者が大挙して集結した。邪霊たちにとって彼らは恰好の標的である。アルコールが入り、野獣の如く肉欲に燃える者。大金を当てにして興奮する者。その当てが外れて絶望の淵に落とされる者、等々がいる。邪霊の誘いに最も乗りやすい者はこの最後に挙げた人種である。たとえそこまで落ち込まぬとしても、道徳的感覚が狂い、感情を抑え邪霊からの攻撃の盾となるべき冷静さと心の平衡が崩れ、つけ入る隙を与えることになる。絶対的悪とまでは行かぬが、自制心を失い狂乱状態に陥れる精神が攻撃の恰好の条件を用意することになる。こうしたものはすべからく避けねばならぬ。そうした心は霊的悪影響、未熟にして有難からぬ邪霊にまんまと掛かり易い。興奮のあまり節度と理性を失える精神にはくれぐれも用心されたい。

以上の如き理由のため、そなたが質せるような日は善の使者の努力が最も要請されることになる。総攻撃をしかけんとして集結せる邪悪な未熟霊の計画を不首尾に終わらせんがためである。

――しかし、そうなると全ての祝日もいけないことになりませんか。

必ずしもそうではない。祝日の雰囲気が感情の手綱たづなをゆるめさせ、喉を焼くアルコールと、欲情の満足と、霊を忘れた振舞いに追いやることになれば、その祭日は許し難きものと言えよう。手綱を奪われた肉体が霊の思うがままの支配下に置かれることになるからである。

しかし祝日が身体に休息を与え、魂に憩のひと時を与えることになれば、話はまた別である。過労によって疲弊した身体が心地よき適度な休息によって生気を回復するであろう。毎日の気苦労と煩事に悩み苦しめられている精神も、適度な娯楽に興じることによって緊張がほぐれ、しばし煩わしさを忘れることになろう。そうした心地よき気分転換がむしろ精神を引き締め、刺激することになるのである。そうしているうちに穏やかな静けさが魂を支配し、それが何にも増して天使の暖かき支配を容易にする。かくして天界の使者の威力が強化され、いかに強力なる悪霊の計画も功を奏さぬこととなる。祝日を人間の堕落の日とせぬためには、善霊の働きと人間の義務についての認識を深めねばならぬ。暴動と放蕩、肉欲とギャンブル、邪念と絶望しか生まぬ祝日はわれらにとりて少しも祝うべき日どころではなく、恐るべき日であり、警戒と祈りを忘れぬ日である。

神よ、無分別なる愚行に耽る理性なき魂を救い、守り給わんことを!

〔そのころ催した実験会がどうやらいい加減な現象によって邪魔されていたらしく、通信霊の心霊写真を撮ろうとした試みも失敗に終わった。写っていた霊は自らはレクターだと名のったが、友人の判断でわれわれとは何の係わりもない、いい加減な霊で、出席者の誰も知らないことが判った。私は何か通信を得たいと思って机に向かったが、一向にまともな通信が得られないので、やむなく諦めた。

その翌日いつもの受け身的な精神状態を取り戻した。すると、こちらから求めないうちに向こうから(ドクターが)通信を送ってきた。私は前日の実験会のことに言及して、あのような場合われわれのほうで為すべきことはどんなことか尋ねた。〕

レクターはそなたの混乱した精神状態のために、通信を送ることが出来なかった。そなたの混乱は実験会でのエネルギーの負担が大きすぎる所為せいである。あの実験会での霊言はまったく当てにならぬ。そなたの精神状態は異常なほど反抗的であった。写真に写った人物をレクターと思ったらしいが、レクターはあの種の現象には不慣れなので、そなたの度の過ぎた興奮が今のべた精神状態と相まって通信を不可能にしている事実までは彼自身も気づいておらぬ。あのような精神状態を感じた時は、いかなる話題についても通信を求めてはならぬ。そのような時に得た通信は当てにならず、不完全であり、往々にして危険でもある。

〔私の当惑は大きかった。そこであのような現象を度々見せられては私のささやかな信念がすっかり失われてしまうと不平を述べた。それまでは一度も体験したことがなかったからである。すると――

そなたはこれまで、われらのうちの誰かが付き添い、注意と保護を与え得る時以外は、あのような実験会には出席していない。昨日の実験会には物質的成分を操る霊しかいなかった。その結果あのような混乱となったのである。あの時も前もって注意を与えたが、ここで改めて警告しておく。あの時のそなたの反抗的精神状態では到底レクターには支配できぬ。そなたの興奮状態が通信を不可能にしたのである。

〔それ以来私は身体の調子が悪い時や、どこかに痛みのある時、あるいは精神的な悩みや心配事のある時、さらにまた、そうした人が近くにいる時や、混乱を来しそうな雰囲気の中にいる時は、絶対に自動書記をしないよう慎重を期した。その所為だと私は思うのであるが、その後の通信は実に規則正しく、且つ落ち着いた感じを与える。大体において筆致は驚くほど流暢で、書かれたノートを見ても一箇所の削除も訂正も見当たらない。内容の論調も全然ムラがなく一貫している。〕

可能なかぎり精神を受け身に、冷静に保つことである。仕事で過労ぎみの時、心配事で気分が苛立っている時、あるいは滅入っている時、こうした時はわれらとの交信を求めてはならぬ。交霊会に新たなメンバーを加えてはならぬ。調子を狂わせ、妨げにしかならぬ。余計な干渉をせず、全てを任せてほしい。メンバーの構成について変更すべきところはわれらから助言するであろう。会合する部屋を変更せぬように。そして出来るだけ受容性に富める心構えと健康体をもって出席してもらいたい。

――確かに、一日中身体と頭を働かせたあとは条件として良くないとは思いますが、日曜日はさらに良くないように見うけます。

日曜日はわれらにとりても好ましくない。何となれば、そなたの心身から緊張が消え失せ、魂が行動する意欲を失い、休息を求めんとするために、われらの働きかけに反応しなくなるのである。こうなると、われらはそなたに新たに現象を試みることに恐れを感じる。そなたへの危険を恐れて物理的実験を手控えるのである。

理由はそれのみにかぎらぬ。物理現象はわれらの本来の目的ではなく、補助的なものに過ぎぬからでもある。これまで述べてきたわれらの使命の証として見せているのであり、それのみに安住してもらっては困る。

日曜が好ましからぬ特殊な事情がもう一つある。人間は気づかぬであろうが、平日と条件が変わることによってわれらがこうむる困難である。前にも述べたことであるが、食事のあとすぐに交霊会に臨むことは好ましくない。われらが求める身体的条件は、受容性と反応の敏速性である。その受容性も、怠惰と無気力から生じるものであってはならぬ。アルコール類と共に腹一杯食した後の、あの眠気と無気力状態ほど交霊にとって危険なものはない。アルコールの飲用が物理現象を促す場合も無きにしもあらずであるが、われらにとっては障害でしかない。より物質的に富める霊の侵入を許し、われらの霊力が妨害されるのである。これまでもそうした妨害を頻繁に受けて参った。そなたはその点をよく考慮し、われらとの交信を求めるに際しては、何事につけ度を過ごさぬよう注意を払うがよい。身体が刺激物でほてり、食べ過ぎで倦怠感を覚えるようであってはならぬ。精神が眠気を催し、不活発となるのも良くない。いずれの状態もわれらにとっては思うように仕事が出来ぬ。状態そのものがかもし出す影響力がわれらにも及び、われらのエネルギーを大いに阻害する。出席者の中に一人でもそうしたメンバーがいる時、もしくは身体を病み苦しむ者がいても、われらには如何ともし難き状態が発生するのである。

――しかし栄養不足による虚弱な心身では仕事にならぬと思いますが。

われらは節制を説いているまでである。食事によって体力をつけねばならぬが、食したものが消化するまでは交霊に入ってはならぬ。日常の仕事のためには適度に刺激物を摂ることも必要であるが、それも常に用心して摂取すべきであり、まして、われらとの交霊は先に述べた条件を厳守した上でなければ絶対に始めてはならぬ。心または身体が眠気を覚えたり注意を持続できぬような時、もしくはどこかを病んでいたり痛みを感じている時は、こちらからの指示がないかぎり机に向かってはならぬ。同じく、満腹している時は低級霊の活動が優勢となることが予想され、われらには近づけぬ。そのような条件のもとでは物理現象も質が低下し、粗暴となり、好条件のもとで行われる時の如き品の良き美しき現象は望めぬ。

われらにとっては極端が困るのである。断食で衰弱しきった身体ではもとより仕事にならぬが、飽食によって動けぬほど詰め込まれたる身体もまた用を為さぬ。節制と中庸、これである。友よ、そなたたちが少しでもわれらの仕事をやり易くし、最良の成果を望むのであれば、交霊会には是非とも感覚明晰にして鋭敏なる身体と、柔順にして受容性に富める精神状態にて臨んでもらいたい。そうすればそなたたちの期待以上のものが披露できよう。列席者全員が調和し構成が適切であれば現象は一層上質となり、述べられる教訓も一層垢抜けし、信頼性に富むものとなろう。先にそなたの言及せる光――〔当時よく交霊会で無数の燐光性の発光体が見られた。〕あれも好ましき条件のもとでは淡く澄み曇りが見られぬ。好ましからぬ状態の時は、鈍く薄汚く曇って見えるであろう。

〔しばしば交霊会に出現していた夫婦の霊が、別の仕事の境涯へ向上して行ったと聞いていたので、夫婦の絆は永遠のものかどうかを尋ねた。〕

それはひとえに霊的嗜好の類似性と霊格の同等性による。その両者が揃えば二者は相寄り添いて向上できる。われらの世界には共通の嗜好をもつ者、同等の霊格をもち互いに援助し合える者同士の交わりがあるのみである。われらの生活においては魂の教育が全てに優先し、刻一刻と進化している。同質でなければ協同体は構成されぬ。従って当然互いの進化にとって利益にならぬ同士の結びつきは永続きせぬ。地上生活において徒らに魂を傷つけ合い、向上を妨げるのみであった夫婦の絆は、肉体の死とともに終わりを告げる。逆に互いに支え合い援助し合う関係にあった結びつきは、肉体より解放されたのちも、さらにその絆を強め発展していく。そして二人を結ぶ愛の絆が互いの発達を促す。かくの如く両者の関係が永続するのは、それが地上で結ばれた縁であるからではなく、相性の良さゆえに、互いが互いの魂の教育に資するからである。かくの如き結婚の絆は不滅である。但しその絆は親友同士の関係程度の意味である。それが互いの援助と進化によって一層強化されていく。そして互いに資するところがあるかぎり、その関係は維持されていく。やがてもはや互いに資するものがなくなる時期が到来すると、両者は別れてそれぞれの道を歩み始める。そこには何の悲しみもない。なぜなら相変わらず心を通じ合い、霊的利益を分かち合う仲だからである。もしも地上的縁が絶対永遠のものであるとすれば、それは悲劇までも永遠であることを意味し、向上進化が永遠に妨げられることになる。そのような愚行は何ものにも許されていない。

――それは分かります。しかし私の観たかぎりでは、知的にも道徳的にも同等とは思えない者同士が互いに深く愛し合っているケースがあるように思えるのですが。

愛し合う者同士を引き裂くことは絶対に出来ぬ。そなたたちはとかくわれら霊同士の関係を時間と空間の観念にて理解せんとする故に納得がいかぬのである。霊同士はそなたたちの言う空間的に遠く離れていても親密に結び合うことが出来るということが理解できぬであろう。われらには時間も空間も存在せぬ。われらは知性の発達程度が完全に同一でない限り直接の交流は有り得ぬ。それはわれらには全く有り得ぬことなのである。が、たとえわれらの言う同一の発達程度まで到達していなくとも、真実の愛があれば、その絆によって結ばれることは可能である。愛は距離をいかに隔てても霊同士を強く結びつける。それは地上においても見られることである。離ればなれになった兄弟も、たとえ海を隔て、別れて何年経ようとも、兄弟愛はいささかも失われぬ。求めるものは異なるかも知れぬ。物の考え方も違うであろう。が、共通の愛は不変である。夫に虐待され死ぬ思いに耐えつつ、なおその夫を愛し続ける妻もいる。

肉体の死は妻をその虐待の苦しみから救ってくれる。そして天国へと召される。一方地上の夫はさらに地獄の道を下り続けるであろう。が、たとえ二人は二度と結ばれることはなくとも、夫への妻の愛は不滅である。その愛の前に空間は消え失せるのである。われらにとりても空間は存在せぬ。これでそなたも朧気おぼろげながらも理解がいくことと思うが、われらにとりての結合関係とは発達程度の同一性と、嗜好の共通性と、進化の協調性を意味するのであり、そなたたちの世界の如き一体不離の関係などというものは存在せぬ。

――では聖書の「天国では嫁を貰うとか嫁にやるとかいうことはなく、すべて神の使いとして暮らすのみである」という言葉は真実ですか。

その言葉どおりである。さきにわれらは進歩の法則と交わりの法則について述べたが、その法則は不変である。現在のそなたにとりて立派と思えることも、肉体の死とともに捨ててしまうであろうことが数多くある。地上という環境がそなたの考えを色づけしているのである。故にわれらとしても、比喩を用い、地上的表現を借りて説明せざるを得ぬことが多々ある。それ故われらの世界にのみ存在して人間の世界に存在せず、現在のそなたの知識を超越し、従って地上の言語によって大凡おおよそのことを伝えるほかなき事情のもとで用いた字句にあまりこだわりすぎてはならぬわけである。

――なるほど。それで霊界通信に食い違いが生じることがあるわけですか……

そうした食い違いは通信を送る霊の無知から生ずる場合、それから霊媒を通じて伝える能力に欠けている場合、さらにまたその時の交霊の状態が完全さを欠く場合などによく生ずる。他にも原因はある。その一つが、人間側が単なる好奇心から下らぬ質問をするために、つい霊の方も人間の程度に合わせて下らぬ返答をしてしまう場合である。

――しかし高級霊ならば、“愚か者の愚かな質問に答える”ことをせずに、その質問者をさとせばいいでしょう。

無論できることならそうしたい。しかし愚かしき精神構造はそうした配慮を受けつけようとせぬものである。類は類を呼ぶ。一時の気まぐれや愚かな好奇心の満足、あるいはわれらを罠にはめんとする魂胆からしか質問せぬ者は、同程度の霊と感応してしまう。そのような心構えではわれらとの交信は得られぬ。敬虔にして真摯なる精神ならば、その受容性に応じた情報と教訓を自ら引き寄せる。自惚れが強く、軽薄で、無知で、ふざけた質問しかせぬ者は、似たような類の霊しか相手にせぬ。もとよりわれらは相手にせず、たとえ相手にしても、適当にあしらっておく。そうした連中は避けるがよい。下らぬ愚か者ばかりである。

〔注〕

  • (1)

    D.D.Home(1833-1886)心霊史上最大・最高と評される英国の霊媒で、霊能の種類においても驚異性においても他に類を見ない。とくに空中浮揚現象は有名で、いつでもどこでもやってみせた。

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