9節

〔前節に述べられた説にはまるで私に訴えるものが見られなかったので、私はそれが正統派の教会の教説と全く相容れぬものであること、しかも畏れ多くもキリスト教の根本教理の幾つかを侵犯するものであると反論した。そしてあの通信は途中で不純なものが混入しているのではないか、それに私が求めている肝心なものが脱落しているのではないかと述べた。もしあれをもって人生の指針として完璧だと言うのなら、私にはそれに反論する用意があった。すると次のような返答が書かれた。〕

われらが述べたるところは大凡の指針に過ぎぬが、それなりに真実である。ただし全てを尽くしているとは言わぬ。極めて大まかな原則であり、不鮮明なる点、欠落していることが少なからずある。が、本質的には間違ってはおらぬ。確かにそなたが霊的救いにとって絶対不可欠と教え込まれたる教義を多くの点で犯していることは認める。また何の予備知識も持たぬ者には新しき説のように響き、古き信仰形体を破壊するものの如く思われるかも知れぬ。が、実際はそういうものではない。いやしくも宗教的問題を思考する者ならば、先入観に束縛されず、かつ新たな真理探究に怖れを抱きさえしなければ、原則的にはわれらの霊訓を受け入れることが出来るであろう。古き偏見によりて足枷をはめられることさえなければ、全ての人間に薦められるべきものと信ずる。さきにわれらは、先ず夾雑物を取り除かねばならぬと述べた。破邪が顕正に先立つことを述べた。古きもの、不用のものをまず取り払う必要があると述べた。要するに建設のための地ならしをせねばならぬと述べたのである。

――その通りですが、私から観てあなたが取り払おうとされているらしき夾雑物は、実はキリスト教徒が何世紀にも亙って信仰の絶対的基本としてきたものです。

違う。必ずしもそうではない。そなたの言い分にはいささか誇張がある。イエスの地上生活についての記録は極めて不完全である。その記録を見れば、キリスト教会が無理やりに押しつけて来たイエスの位置・立場について、イエス本人は一言も語っておらぬことが判るであろう。真実のイエスはそのイエスの名を冠する教会の説くイエスより遥かにわれらの説くイエスに近き存在であった。

――そんな筈はありません。それに例の贖罪説――あれをどう思われますか。

ある意味では間違ってはいない。われらが許せぬのは神を見下げ果てたる存在――わが子の死によって機嫌を取らねばならぬが如き残忍非情なる暴君に仕立て上げた幼稚きわまる言説である。イエスの名のもとに作り上げた不敬きわまる説話――そのために却ってイエスの生涯の素朴なる偉大さ、その犠牲的生涯の道徳的垂訓を曇らせる結果となった誤れる伝説をわれらが否定したからとて、それはいささかもイエスの偉大さを減ずることにはならぬ。そうしたドグマの発生と、それが絶対的教義として確立され、挙句の果てに、それを否定、あるいは拒絶することが大罪とされるに至れる過程については、いずれ詳しく語る時節も来よう。

もしも神が人間と縁なき存在であり、全てを人間の勝手に任せているのであれば、神がその罪深き人間のために、わが子に大権をゆだねて地上へ派遣した事実を否定することが永遠の火刑もやむを得ぬ大罪とされても致し方ないかも知れぬ。キリスト教会のある教派はイエスの贖罪について絶対的不謬性を主張し、それを受け入れぬ者は生きては迫害、死しては永遠の恥辱と苦痛の刑に処せられると説く。これはキリスト教会においても比較的新しき説である。が、全てのドグマはこうして作られてきた。かくして、人間の理性のみでは神の啓示と人間のこじつけとを見分けることが困難、いや、不可能となる。同時にまた、その夾雑物を取り除かんとする勇気ある者が攻撃の的とされる。いつの時代にもそうであった。われらがより高き視点より人間的夾雑物を指摘し、それを取り除くべく努力したからとて、それが誤れる行為として非難される筋合いはないのである。

――そうかも知れません。しかしキリストの神性と贖罪の信仰は人間が勝手に考え出したドグマとは言えないでしょう。現にあなたも署名の頭にかならず十字を冠しておられます(†Imperator)。私の推測ではあなたも地上では私たちと同じ教義を信じておられたに相違ありません。もう一人の通信者のレクターも同じように署名に十字を冠します(†Rector)。あの方などは絶対とは言いませんが恐らくキリスト教の教義のために死なれた殉教者に相違ありません。その辺に矛盾のようなものを感じるのです。つまり、もしその教義が不要のもの、あるいは真理をき違えたもの――もしくは完全な誤り――であるとしたら、私はどう結論づけたらよいのでしょうか。あなたは死後ご自身の信仰を変えられたのでしょうか。あるいは、一体あなたは地上でのクリスチャンだったのでしょうか、そうでなかったのでしょうか。もしそうでなかったとしたら、なぜ十字を付けられるのでしょうか。もしクリスチャンだったとしたら、なぜ信仰を変えられたのでしょうか。問題は地上であなたがどういう方であったか、それ一つに関わっています。現在のあなたの言説と地上時代に抱いておられた信仰がどこでどう繋がるのか、そこが判らないのです。おっしゃることは確かに純粋であり、美しい教説だとは思いますが、明らかにキリスト教の教えとは違っています。またどう見ても署名に十字を付ける人が説く教えではありません。少なくとも私にはそう思えるのです。

この苦悶がもしも私の無知ゆえであるならば、どうかその無知を啓発していただきたい。もしも私がただの詮索好きに過ぎぬのなら、それはどうかご寛恕ねがいたい。私にはあなたの言葉と態度以外に判断の拠り所がないのです。私が判断しうるかぎりにおいては、あなたの言説と態度は確かに高潔であり高貴であり、また純粋であり、合理的です。しかしキリスト教的ではありません。現在の私の疑問と苦悶を取り除いてくれるような、納得のいく根拠をお示し願いたいと申し上げるのみです。

いずれ述べるとしよう。この度はこれにて終わりとする。

〔私は真剣に返答を求め、何とかして通信を得ようと努力したが、六月二十日まで何も出なかった。右の通信は十六日に書かれたものである。そしてようやく届いた返答は次のようなものだった。〕

友よ、これよりそなたを悩ませ続けて来た問題について述べるとしよう。十字架がわれらの教えとどう関わるかを知りたいのであろう。それを説くとしよう。

友よ、主イエス・キリストの教えとして今地上にて流布している教えには、主の生涯と使命を表象する、かの十字架に相応ふさわしからぬものが少なからずあるという事実をまず述べたい。各派の狂信家は字句にのみこだわり、意味を疎かにする傾向がある。執筆者一人一人の用語に拘泥し、その教えの全体の流れを疎かにしてきた。真理の探求と言いつつも実はあらかじめ説を立て、その説をこじつけて、それを真理と銘うっているに過ぎぬ。そなたたちの言う聖なる書(バイブル)の解説者をもって任ずる者が、その中より断片的な用語や文句を引用しては勝手な解説を施すために、いつしかその執筆者の意図せぬ意味をもつに至っている。またある者はいささかの真理探究心もなしに、ただ自説を立てるためにのみバイブルより用語や文句を借用する。彼らはそれはそれなりに目的を達するであろう。が、そうすることによりて徐々に、用語や表現の特異性をいじくり回すことにのみ喜悦を覚える者、自説を立てそれをこじつけることをもってしとする者たちによって、一つの体系が作り上げられていく。いずれもバイブルというテキストより、一歩も踏み出せぬことになる。

さきにわれらは、これより説くべく用意している教えは多くの点においてそなたたちのいう神の啓示と真っ向より対立すると述べた。

正統派のキリスト者たちは、一人の神秘的人物――三位一体を構成する一人が一握りの人間の心を捉え、彼らを通じて真理の全てを地上にもたらしたと説く。それが全真理であり、完全であり、永遠なる力を有すると言う。神の教えの全体系がそこにあり、一言一句たりとも削ることを許されず、一言一句たりとも付け加えることも許されぬ。神の語れる言葉そのものであり、神の御心と意志の直接の表現であり、顕在的にも潜在的にも全真理がその語句と言い回しの中に収められていると言う。ダビデ、パウロ、モーセ、ヨハネ、こうした予言者の訓えは神の意志と相通じるものであるのみならず、神の思念そのものであると言う。彼らの言葉は神の裁可を受けたものであると同時に、神自ら選択したものであると言う。要するに、バイブルはその内容においても形体においても神の直接の言葉そのものなのである。英語に訳されたものであっても等しくその一言一句が神の言葉であり、そなたたちが為せる如く細かく分析・解釈するに値するものとする。なぜなら、その翻訳に携われる者も、またその驚異的大事業の完成のために神の命を受けし者であるとしているからである。

かくして単なる用語と表現の上に、かの驚くべき教義と途方もなき結論が打ち出されることになる。無理もないことかも知れぬ。なぜなら、彼らにとりてはその一言一句が人間的謬見に犯されぬ聖なる啓示であるからである。然るにその実彼らの為せることは、己の都合よき文句のみを引用し、不都合なところは無視して勝手なドグマを打ち立てているに過ぎぬ。が、とにかく彼らにとってはバイブルは神の直接の言葉なのである。

他方、こうした考えをいさぎよく棄てた者たちがいる。彼らはバイブルの絶対性を打ち砕くことより出発し、ついにたどり着きたるところが他ならぬわれらの説くところと同じ見解である。彼らもバイブルを神の真理を説く聖なる記録として敬意を払うが、同時にそれはその時代に相応しきものが啓示されたものであり、故に今なお現代に相応しき啓示が与えられつつあると観る。バイブルは神と霊の宿命に関する人間の理解の発展過程を示すものとしてこれを読む。無知と野蛮の時代には神はアブラハムの友人であり、テントの入口にて共に食し共に語り合った。次の時代には民族を支配せる士師であり、イスラエル軍の先頭に立って戦いし王であり、幾人かの予言者の託宣によって政治を行なえる僭王であった。それがやがて時代の進歩と共に優しさと愛と父性的慈悲心を具えた存在となっていった。心ある者はこうした流れの中に思想的成長を見出し、その成長は決して終息せぬこと、人間の理解力は真理への渇仰を満たす手段を絶え間なく広げつつあるとの信念にたどり着く。故に真理探求者は少なくともその点についてのわれらの教えを受け入れる備えはある筈である。われらが求めるのはそういう人物である。すでに完璧なる知識を手にしたと自負する者に、われらは言うべき言葉を持たぬ。彼らにとっては先ず神と啓示に関わる問題についての無知をさとることが先決である。それなくしては、われらが何を説こうと、彼らは固く閉じ込められた己の無知と自負心とドグマの壁を突き抜けることは出来ぬ。彼らには、これまで彼らの霊的成長を遅らせ未来の霊的進歩の恐ろしき障害となるその信仰の誤りを、苦しみと悲しみの中に思い知らされる外に残された道はない。そなたがこれまでわれらの述べたるところを正しく理解すれば、これより更に一歩進めて、啓示の本質と霊感の特性について述べることにしよう。

われらに言わしむれば、バイブルを構成するところの聖なる書、及びその中に含まれていない他の多くの書はみな、神が人間に啓示する神自身についての知識の段階的発達の記録にすぎぬ。その底流にある原理はみな同じであり一つである。それと同じ原理がこうしたそなたとわれらとの交わりをも支配しているのである。人間に与えられる真理は人間の理解力の及ぶ範囲にかぎられる。いかなる事情のもとであろうと、それを超えたものは与えられぬ。人間に理解し得るだけのもの、その時代の欲求を満たすだけのものが与えられるのである。

さて、その真理は一個の人間を媒体として啓示される。よって、それは大なり小なりその霊媒の思想と見解の混入を免れぬ。と言うよりは、通信霊は必然的に霊媒の精神に宿されたものを材料として使用せざるを得ぬ。つまり所期の目的に副ってその材料に新たな形体を加えるのである。その際、誤りを削り落とし、新たな見解を加えることになるが、元になる材料は霊媒が以前より宿せるものである。したがって通信の純粋性は霊媒の受容性と、通信の送られる際の条件が大いに関わることになる。

バイブルのところどころに執筆者の個性と霊的支配の不完全さと執筆者の見解による脚色のあとが見られるのはそのためである。またそれとは別に、その通信が意図した民族の特殊なる必要性による特有の色彩が見られる。もともとその民族のために意図されたものだったからである。

そうした例ならば幾らでも見出せるであろう。イザヤ(1)がその民に霊の言葉を告げし時、彼はその言葉に己の知性による見解を加え、その民の置かれた当時の特殊な事情に適合させたのであった。申すまでもなく、イザヤの脳裏には唯一絶対の神の観念があった。しかしそれを詩歌と修辞的比喩でもって綴った時、それはエゼキエル(1)がその独特の隠喩的修辞でもって語ったものとは遥かに異なるものとなった。ダニエル(1)にはダニエル独自の神の栄光の心象があった。エレミヤ(1)にはエレミヤを通じて語れる“主”の観念があった。ホセア(1)には神秘的象徴性があった。そのいずれも同じ神エホバを説いたのであり、知り得た通りを説いたのである。が、その説き方が異なっていたのである。

のちの時代の聖なる記録にも同じく執筆者の個性が色濃く残されている。パウロ(2)然り。ペテロ(2)然り。同一の真理を全く異なる角度より観ているのもやむを得ぬことである。真理なるものは二人の人間が異なる観点より各々の手法にて説いたからとて、いささかもその価値を減ずるものではない。相違と言うも、それは霊感の本質にはあらず、その叙述の方法にあるに過ぎぬからである。霊感はすべて神より発せられる。が、受ける霊能者はあくまで人間である。

故に、バイブルを読む者はその中に己自身の心――いかなる気質であれ――の投影を読み取るということにもなる。神についての知識はあまりに狭く、神性についての理解はあまりに乏しい。故に過去の啓示にのみ生き、それ以上に出られず、かつ出る意志も持たぬ者は、バイブルにその程度の心の反映しか見出さぬであろう。彼はバイブルに己の理想を見出さんとする。ところが、どうであろう、その心に映るのは彼と同じ精神的程度の者のための知識のみである。一人の予言者の言葉で満足せぬ時は他の予言者の言葉の中より己の気に入る箇所を選び出し、他を棄て、その断片的知識をつなぎ合わせ、己自身の啓示を作り上げる。

同じことが全ての教派について言えよう。各派がそれぞれの理想を打ち立て、それを立証せんがために、バイブルより都合よき箇所のみを抜き出す。もとより、バイブルの全てをそのまま受け入れらる者は皆無である。何となれば全てが同質のものとは限らぬからである。各自が己の主観にとって都合よき箇所のみを取り出し、それを適当に組み合わせ、それをもって啓示と称する。他の箇所を抜き出した者の啓示と対照してみる時、そこに用語の曲解、原文の解説(と彼らは言うのだが)と注釈、平易なる意味の曖昧化が施され、通信霊も説教者も意図せざる意味に解釈されていることが明らかとなる。かくして折角の霊感が一教派のドグマのための方便と化し、バイブルは好みの武器を取り出す重宝なる兵器庫とされ、神学は誤れる手前勝手な解釈によって都合よく裏付けされた個人的見解となり果てたのである。

そなたは、かくの如くして組み立てられたる独りよがりの神学に照らして、われらの説くところがそれと異なると非難する。確かに異なるであろう。われらはそのような神学とは一切無縁なのである。それはあくまで地上の神学であり、俗世のものである。その神の観念は卑俗かつ低俗である。魂を堕落させ、神の啓示を標榜しつつ、その実、神を冒涜している。さような神学にわれらは何の関わりも持たぬ。神学と矛盾するのは当然至極のことであり、むしろ、こちらより関わり合いを拒否する。その歪める教えを修正し、代わりて神と聖霊についてより真実の、より高尚なる見解を述べることこそわれらの使命なのである。

バイブルより出でし神の観念がかくもそなたたちの間にはびこるに至った今一つの原因は、霊感の不謬性を信じるあまり、その一字一句を大切にしすぎるのみならず、本来霊的な意味を象徴的に表現しているに過ぎぬものを、あまりに字句どおりに解釈しすぎたことにある。人間の理解の及ばぬ観念を伝えるに当たりては、われらは人間の思考形式を借りて表現せざるを得ぬことがある。正直のところ、その表現の選択においてわれらもしばしば誤りを犯す。表現の不適切なるところもある。霊的通信のほとんど全てが象徴性を帯びており、とくに正しき観念に乏しき神の概念を伝えようとすれば、その用語は必然的に不完全であり、不適切であり、往々にして選択を誤れる場合が生ずるのは免れぬ。いずれにせよ、所詮象徴的表現の域を出るものではなく、そのつもりで解釈して貰わねばならぬ。神につきての霊信を字句どおりに解釈するのは愚かである。

さらに留意すべきは、神の啓示はそれを授かる者の理解力の程度に合わせた表現にて授けられるものであり、そのつもりで解釈せねばならぬということである。バイブルをいつの時代にも適用すべき完全な啓示であると決めてかかる人間は一字一句を字句どおりに受けとめ、その結果、誤れる結論を下すことになる。衝動的性格の予言者が想像力旺盛にして熱烈な東方正教会(3)の信者に説き聞かせたる誇張的表現は、彼らには理解できても、思想と言葉を大いに、あるいは完全に異にせる他民族にその字句どおりに説いて聞かせては、あまりに度が過ぎ、真実から外れ、徒に惑わせることになりかねぬ。

神についての誤れる冒涜的概念も多くはそこに起因しているとわれらは観るのである。もともと言語なるものが不備であった。それが霊媒を通過する際に大なり小なり色づけされ、真理からさらに遠くれる。それがわれらが指摘せる如く後世の者によりて字句どおりに解釈され、致命的な誤りとなって定着する。そうなってはもはや神の啓示とは言えぬ。それは神について人間が勝手に拵えたる概念であり、しかも未開人が物神に対して抱ける概念と同じく、彼らにとっては極めて真実味をもつものである。

繰り返すが、そのような概念にわれらは同意できぬ。それどころか、敢えてその誤りを告発するものである。それに代わる、より真実にして、より崇高なる知識を授けることが、われらの使命なのである。またその使命の遂行に当たりては、われらは一つの協調的態勢にて臨む。先ず一人の霊媒に神的真理の一部を授ける。それがその霊媒の精神において彼なりの発達をする。正しく発展する箇所もあれば、誤れる方向へ発展する箇所もある。若き日に培われたる偏見と躾けの影響によって歪められ曇らされる部分もあろう。では、より正しき真理を植えつけるに当たりて、いっそのことその雑草を根こそぎ取り除くべきか。精神より一切の先入観念を払拭すべきか。それはならぬ。われらはそうした手段は取らぬ。万一その手段を取らんとすれば、それには莫大な時間を要し、下手へたをすれば、その根気に負けて、霊媒の精神を不毛の状態のまま放置することになりかねぬ。

そのようなことは出来ぬ。われらは既に存在する概念を利用し、それを少しでも真理に近きものに形づくって行くのである。いかなるものにも真理の芽が包蔵されているものである。もしそうでなければ一挙に破壊してもよかろう。が、われらはそうしたささやかな真理の芽に目をつけ、それに成長と発達を与えんとする。われらには人間が大切に思う神学的概念がいかに無価値なるものかがよく判る。が、それもわれらが導く真理の光を当てれば自然崩壊するものと信じて、他の重要なる問題についての知識を提供していく。取り除かねばならぬのは排他的独断主義である。これが何より重大である。単なる個人的見解は、それが無害であるかぎり、われらは敢えて取り合わぬ。

そういう次第であるから、在来の信仰がトゲトゲしさを和らげてはいるものの、それは形の上でのことであり、極めて似た形で残っていることが多々ある。そこで人は言うのである――霊は霊媒自身の信仰を繰り返しているに過ぎぬではないかと。そうではない。今こうしてそなたに述べていることがその何よりの証拠である。確かにわれらは霊媒の精神に以前より存在するものを利用する。が、それに別の形を与え、色調を和らげ、当座の目的に副ったものに適合させる。しかもそれを目立たぬように行なう。そなたの目にその違いが明瞭となるほどの変化を施すのは、その信仰があまりにもドグマ的である時に限られる。

仮にここに神も霊も否定し、目に見え手で触れるものしか存在を認めぬ者がいるとしよう。この唯物主義者が神への信仰を口にし、死後の生活を信ずると言い出せば、そなたはその変わりように目を見張ることであろう。それに引きかえ、人間性が和らげられ、洗練され、純化され、崇高味を増し、また粗野で荒々しき信仰が色調を穏やかなものに塗りかえられていった場合、そなたたちにはその変化が気づかぬであろう。その変化が徐々に行なわれ、かつ微妙だからである。が、われらにとりては着々と重ねたる努力の輝ける成果なのである。荒々しさが和らげられた。かたくなにして冷酷、かつ陰湿なるところが温められ愛の生命を吹き込まれた。純粋さに磨きがかけられ、崇高さが一層輝きを増し、善性が威力を増した。かくして真理を求める心が神と霊界についてより豊かなる知識を授けられたことになるのである。

人間の見解が頭ごなしに押さえつけられたことはない。それに修辞を施し変化を与えたのみである。その霊的影響力は現実にそなたたちのまわりに存在している。そなたたちは全くそれに気づいておらぬが、霊的使命の中でも最も実感のある有難き仕事なのである。

故に、霊は人間の先入観を繰り返すのみと人が言う時、それはあながち誤りとも言えぬことになる。その見解は害を及ぼさぬものであるかぎり、そのまま使用されているからである。ただ、そうと気づかれぬように修飾を施してある。有害とみたものは取り除き抹消してしまう。

とくに神学上の教義の中でも特殊なるものを取り扱うに当たりては、可能なかぎり除去せずにそれに新しき意義を吹き込むべく努力する。なぜなら、そなたには理解できぬかも知れぬが、信仰というものはそれが霊的にして生命あるものであれば、その形態は大して意味をもたぬものだからである。それ故われらは既に存在する基盤の上に新たなものを築かんとするのである。とは言え、その目的の達成のためには、今も述べた如く真理の芽をとどめている知識、あるいは知性の納得のいくものであるかぎり、大筋においてそのまま保存はするものの、他方において、ぜひ取り除かねばならぬ誤れる知識、あるいは人を誤らせる信仰もまた少なしとせぬ。そこで建設の仕事に先立って破壊の仕事をせねばならぬ。魂にこびり付きたる誤れる垢を拭い落とし、出来うるかぎり正しき真理に磨きをかけ純正なものにする。われらが、その頼りとする人間にまずその者が抱ける信仰の修正を説くのはそのためである。

さて、かく述べれば、すでにそなたには今のそなたの苦悶のいわれが判るであろう。われらはそなたが抱ける神学上の見解を根こそぎにしようというのではない。それに修正を加えんとしているのである。振り返ってみるがよい。かつての狭隘なる信仰原理が徐々に包括的かつ合理的なものへと広がってきた過程が判るであろう。われらの指導のもとにそなたは数多くの教派の神学に触れてきた。そうしてその各々に程度こそ違え、真理の芽を見て来た。ただその芽が人間的偏見によりて被い隠されているに過ぎぬ。またキリスト教世界の多くの著書をそなた自ら念入りに読んで来た。そこに様々な形態の信仰を発見してそなた自身の信仰の行き過ぎが是正され、荒々しさが和らげられた。太古の哲学の研究に端を発し、各種の神学体系に至り、そこからそなたに理解し得るものを吸収するまで、実に長き、遅々たる道程であった。

すでに生命を失い、呼吸することなきドグマで固められし東方正教会の硬直化せる教義、人間的用語の一字一句にこだわる盲目的信仰に痛撃を浴びせしドイツの神学者たちによる批判、そなたの母国と教会における高等思想の思索の数々、その高等思想ともキリスト教とも無縁の他の思想の数々――そなたはこうしたものを学び、そなたにとって有用なるものを身につけてきた。長く、そして遅々とした道程ではあったが、われらはこれより更に歩を進め、そなたをいよいよ理想の真理――霊的にして実感に乏しくとも、そなたの学びしものの奥に厳然と存在する真理へと案内したく思う。地上的夾雑物を拭い去り、真実の霊的実在を見せたく思うのである。

まず知ってほしいことは、イエス・キリストの霊的理想は、神との和解だの、贖罪だのという付帯的俗説も含めて、そなたたちが考えているものとは大凡本質を異にするものであるということである。それは恰も古代ヘブライ人が仔牛を彫ってそれを神として崇めた愚かさにも似ていよう。われらはそなたの理解しうるかぎりにおいて、そなたたちが救い主、贖い主、神の子として崇めるイエスの生涯に秘められたる霊的事実を知らしめたく思う。イエスがその地上生活で身をもって示さんとした真の意味を教え、われらが取り除かんとする俗説がいかに愚劣にして卑劣であるかを明らかにしたく思うのである。

そなたはそうしたわれらの訓えがキリストの十字架の印とどう係わりがあるのかと尋ねた。友よ、あの十字架が象徴するところの霊的真理こそ、われらが普及を宣誓するところの根本的真理なのである。己の生命と家庭と地上的幸福を犠牲にしてでも人類に貢献せんとする滅私の愛――これぞ純粋なるキリストの精神であるが、これこそわれらが神の如き心であると宣言するものである。その心こそ卑しさと権力欲、そして身勝手なる驕りが生む怠惰から魂を救い、真実の意味での神の御子とする、真実の救いである。この自己犠牲と愛のみが罪を贖い、神の御心へと近づかしめる。これぞ真実の贖いである! 罪なき御子を犠牲いけにえとして怒れる神に和解を求むるのではない。本性を高め、魂を浄化する行為の中にて償い、人間性と神性とがその目的において一体となること(4)――身は地上にありても魂をより一層神に近づけて行くこと――これぞ真実の贖いである。

キリストの使命もその率先垂範にあった。その意味において、キリストは神の顕現の一つであり、神の御子であり、人類の救い主であり、神との調停者であり、贖い主であった。その意味においてわれらはキリストの後継者であり、こののちも引き続きその使命を遂行していく。十字架のもとに働き続ける。キリストの敵――たとえ正統派の旗印とキリストの御名のもとであっても、無明の故に、あるいは強情のゆえにキリストの名を汚す者たちに、われらは敢然と戦いを挑むものである。

ある程度霊的真理に目覚めた者にとりても、われらの説くところには新しく且つ奇異に感じられるところが少なくなかろうと想像される。が、いずれはキリストの真実の訓えがわれらの説くところと本質において一体であるとの認識に到達する時代ときが訪れるであろう。その暁には、それまで真実を被い隠せる愚劣かつ世俗的夾雑物は取り払われ、無知の中に崇拝してきたイエスの生涯とその教えの荘厳なる真実の姿を見ることであろう。その時のイエスへの崇敬の念はいささかでも真実味を減ずるどころか、より正しき認識によって裏づけされる。すなわち、われらが印す十字架は不変なる純粋性と人類への滅私の愛の象徴なのである。そなたにその認識を得さしむることこそ、われらの真摯なる願いである。願わくばこれを基準として、われらの使命を裁いてもらいたい。われらは神の使命を帯びて参った。その使命は神の如く崇高であり、神の如く純粋であり、神の如く真実である。人類を地上的俗信の迷いより救い出し、汚れを清め、霊性と神性とに溢れたる雰囲気へと導いて参るであろう。

われらの述べたるところをよく吟味されたい。そうして導きを求めよ。われらでなくともよい。その昔、かのイエスという名の無垢と慈悲と滅私の霊を地上に送りし如く、今われらを地上に送りし神に祈れ!

イエスを今なおわれらは崇める。

その御名をわれらは敬う。

その御ことばをわれらは繰り返す。

その御訓えが再びわれらの中に生き返る。

イエスもわれらも神の使いである。

そしてその御名のもとにわれは参る。

†インペレーター

〔注〕

  • (1)

    いずれも旧約聖書に出てくる予言者。

  • (2)

    いずれも新約聖書に出てくるイエスの弟子。

  • (3)

    Eastern Church 東ヨーロッパ、近東、エジプトを中心とするキリスト教会の総称。

  • (4)

    贖いを意味する英語atonementが語原的にat-one-mentすなわち、“一体となること”を意味することを示唆しながら説いている。

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