2節

〔本章の通信も前章と同様インペレーターからのものである。地上という人格養成学校における最も望ましい生活はいかなる生活かという質問から始まった。インペレーターは頭脳と同様に心の大切さを強調し、身体と知性と愛情の調和の取れた発育が望ましいことを説いた。要するにバランスの欠如が進歩を妨げる大きな要因であると言う。そこで私は博愛主義者が理想的人間像なのかと尋ねた。すると――

真実の博愛主義者、全てに先んじて同胞の利益と進歩をおもんぱかる人こそ真実の人間、真の神の子である。なぜなら神こそ真の博愛主義者だからである。真の博愛主義者とは時々刻々と神に近づきつゝある者のことである。絶え間なき努力によりて永遠にして不滅の同情心を広げつつ、その不断の同情心の行使の中に、汲めども尽きぬ幸福感を味わう。博愛主義者と哲学者、すなわち人類愛に燃える人間と偏見なき道理探求者こそ神の宝――比類なき価値と将来性に満ちた珠玉である。前者は民族の違い、土地の違い、教義の違い、名称の違い等の制約に捉われることなく、一視同仁、全人類を同胞としてその温かき心の中に抱き込む。全ての人間を、友としてまた兄弟として愛するのである。思想の如何を問わず、ひたすらにその者の必要とするものを洞察し、それに相応ふさわしい進歩的知識を授けることに無上の喜びを覚える。これぞ真の博愛主義者である。もっとも、しばしば似て非なる博愛主義者がいる。己の名声を広めんがために己に同調する者、それにびへつらい施しをする者のみを愛する。かくの如き似非えせ博愛主義者はその真実の印である“博愛”を傷つける者である。

一方哲学者は一切の宗教、いかなる教派のドグマにも媚びず、一切の偏見を捨て、いかなる真理でも、いやしくも証明されたものはいさぎよく受け入れる。即ち、かくあるべき――従ってかくあらねばならぬという固定観念に捉われることなく、神的叡智の探求に邁進し、そこに幸せを見出す。彼には宝庫の尽きることを懸念する必要はない。何となれば神の真理は無限だからである。生命の旅を通じてひたすらに、より豊かな知識の宝の蒐集に喜びを見出す。言い換えれば神についてのより正しき知識の蒐集である。

この二者の結合、すなわち博愛主義者的要素と哲学者的要素とが一体となりし時、そこに完璧なる理想像ができあがる。両者を兼ね備えし魂は片方のみを有する魂より大いなる進歩を遂げる。

――“生命の旅”と言われましたが、これは永遠ですか。

然り。生命は永遠である。そう信ずるに足る十分なるあかしがある。生命の旅には二つの段階がある。即ち進歩的“動”の世界と超越的“静”の世界である。今なお“動”の世界にあり(そなたらの用語で言えば)幾十億年――限りある知性の範囲を超えて事実上無限の彼方までも進化の道程を歩まんとするわれらとて、超越界については何一つ知らぬ。が、われらは信ずる――その果てしなき未来永劫の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去の全てを捨て去り、神の光を浴びつつ宇宙の一切の秘密の中に寂滅じゃくめつする、と。が、それ以上は何一つ語れぬ。あまりに高く、あまりに遠すぎるのである。そなたたちはそこまで背伸びすることはない。生命には事実上終末はなきものと心得るがよい。そしてその無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院に通じる遥か手前の門に近づくことを心がけておればよい。

――無論そうであろうと思います。あなたご自身は地上に居られた時より神について多くを知ることを得ましたか。

神の愛の働き、無限なる宇宙を支配し導く暖かきエネルギーの作用についてはより多くを知ることを得た。つまり神については知ることを得た。が、神そのものを直接には知り得ぬ。これより後も、かの超越界に入るまでは知り得ぬであろう。われらにとっても神はその働きにより知り得るのみである。

〔ひき続いての対話の中で私は再び善と悪との闘いに言及した。それに対して、と言うよりは、その時の私の脳裏にわだかまっていた疑問に対して、長々と返答が書かれた。そして、これから地上に霊的な嵐が吹きすさび、それが十年ないし十二年続いて再び一時的ななぎが訪れると語った。予言めいたことを述べたのはこれが最初である。次に掲げるのは、内容的にはその後も繰り返し語られたことであるが、その時に綴られたまゝを紹介しておく。〕

そなたが耳にせるものは、これよりのちも続く永くかつ厳しい闘いのささやき程度に過ぎぬ。善と悪との闘いは時を隔てて繰り返し起きるものである。霊眼をもって世界の歴史を読めば、善と悪、正と邪の闘いが常に繰り返されて来たことを知るであろう。時には未熟なる霊が圧倒的支配を勝ち得た時期があった。ことに大戦のあとにそれがよく見られる。機の熟せざるうちに肉体より離れた戦死者の霊が大挙して霊界へ送り込まれるためである。彼らは未だ霊界への備えができておらぬ。しかも戦いの中で死せる霊の常として、その最期の瞬間の心は憤怒に燃え、血に飢え、邪念に包まれている。死せるのちもなお、その雰囲気の中にて悪のかぎりを尽くす。

霊にとりて、その宿れる肉体より無理やりに離され、怒りと復讐心に燃えたまま霊界へ送られることほど危険なるものはない。いかなる霊にとりても、急激にそして不自然に肉体より切り離されることは感心せぬ。われらが死刑を愚かにして野蛮なる行為であるとする理由もそこにある。死後の存続と進化についての無知が未開人のそれに等しいが故に野蛮であり、未熟なる霊を怨念に燃えさせたまま肉体より離れさせさらに大きな悪行に駆り立てる結果となっているが故に愚かと言うのである。そなたらはみずから定めた道徳的並びに社会的法律に違反せる者の取り扱いにおいてあまりに盲目的であり無知である。幼稚にして低俗なる魂が道徳を犯す。あるいは律法を犯す。するとそなたらはすぐにその悪行の道を封じる手段に出る。本来ならばその者を悪の力の影響から切り離し、罪悪との交わりを断ち切らせ、聖純なる霊力の影響下に置くことによって徐々に徳育を施すべきところを、人間はすぐに彼らを牢獄に閉じ込める。そこには彼と同じ違反者が群がり、陰湿なる邪念に燃えている。それのみか、霊界の未熟なる邪霊までもそこにたむろし、双方の邪念と怨恨とによって、まさに巣窟と化している。

何たる無分別! 何たる近視眼! 何たる愚行! その巣窟にわれらが入ろうにも到底入ることを得ぬ。神の使者はただ茫然として立ちすくむのみである。そうして、人間の無知と愚行の産物たる悪の集団(人間と霊の)をのあたりにして悲しみの涙を流す。そなたらが犯す罪の心は所詮癒せぬものと諦めるのも不思議ではない。何となればそなたら自らが罪の道に堕ちる者を手ぐすね引いて待ちうける悪霊にまざまざと利用されているからである。いかに多くの人間が自ら求めて、あるいは無知から、悪霊のとりこにされ、冷酷なる心のまま牢獄より霊界へ送り込まれているか、そなたらは知らぬし、知り得ぬことでもあろう。が、もしも人間が右の如き事実を考慮して事に臨めば、必ずや功を奏し、道を踏みはずせる霊、悪徳の世界に身を沈めし霊に計り知れぬ救いを授けることになろう。

罪人は訓え導いてやらねばならぬ。罰するのはよい。われらの世界でも処罰はする。が、それは犯せる罪がいかに己自身を汚し、いかに進歩を遅らせているかを悟らせるための一種の見せしめであらねばならぬ。神の摂理に忠実に生きる者たちの中に彼らを置き、罪を償い、真理の泉にて魂を潤すことを体験させてやらねばならぬ。そこには神の使者が大挙して訪れ、その努力を援助し、暖かき霊波を注ぎ込んでくれることであろう。然るにそなたらは罪人を寄せ集め、手を施すすべなき者として牢に閉じ込めてしまう。その後、さらに意地悪く、残酷に、そして愚か極まる方法にて処罰する。かくの如き扱いを受けし者は、刑期を終えて社会に復したのちも繰り返し罪を犯す。そしてついに最後の、そして最も愚かなる手段に訴えるべき罪人の名簿に書き加えられる。即ち死刑囚とされ、やがて斬首される。心は汚れ果て、堕落しきり、肉欲のみの、しかも無知なる彼らは、その瞬間、怒りと憎悪と復讐心に燃えて霊界へ来る。それまでは肉体という足枷あしかせがあった。が、今その足枷から放たれた彼らは、その燃えさかる悪魔の如き邪念に駆られて暴れまわるのである。

人間は何も知らぬ! 何も知らぬ! 己の為すことがいかに愚かであるか一向に知らぬ。己こそ最大の敵であることを知らぬ。神とわれらと、そしてわれらに協力せる人間を邪魔せんとする敵を利することになっていることを知らぬ。

知らぬと同様に、愚かさの極みである。邪霊がほくそえむようなことに、あたら努力を傾けている。凶悪人から身体的生命を奪う。単なる過ちを犯したに過ぎぬ者に復讐的刑罰を与える。厚顔にも、法の名のもとに流血の権利を勝手に正当化している。断じて間違いである。しかも、かくして傷つけられし霊が霊界より復讐に出ることをそなたらは知らぬ。神の優しさと慈悲――堕落せる霊を罪悪と憤怒の谷間より救い出し、聖純と善性の進歩の道へ導かんとして、われら使者を通じて発揮される神の根本的原理の働きを知らねばならぬ。右の如き行為を続けるのは神の存在を皆目知らぬが故である。そなたらは己の本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら判らぬ高き所より人間を座視し、己の権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、己の創造物については、己に媚び己への信仰を告白せる者のみを天国へ召して、その他に対しては容赦も寛恕もなき永遠の刑罰を科してほくそえむ、悪魔の如き神をでっち上げた。そうした神を勝手に想像しながら、さらにその神の口を通じて、真実の神には身に覚えもなき言葉を吐かせ、暖かき神の御心には到底そぐわぬ律法を定めた。

何たる見下げ果てたる神! 一時の出来心から罪を犯せる無知なるわが子に無慈悲なる刑を科して喜ぶとは! 作り話にしてもあまりにお粗末。お粗末にして愚かなる空想であり、人間の残忍性と無知と未熟なる心の産物に過ぎぬ。そのような神は存在せぬ! 絶対に存在せぬ! われらには到底想像の及ばぬ神であり、人間の愚劣なる心の中以外のいずこにも存在せぬ。

父なる神よ! 願わくは無明むみょうの迷える子らに御身を啓示し、御身を知らしめ給え。子らが御身につきて悪夢を見ているに過ぎぬこと、御身につきて何一つ知らぬこと、御身につきてのこれまでの愚かなる概念を拭い去らぬかぎり真の御姿を知り得ぬことを悟らしめ給え。

然り。友よ、そなたらが設けたる牢獄、法的殺人、その他、罪人の扱い方の全てにおいて、その趣旨がことごとく誤りと無知の上に成り立っている。

戦争および大量虐殺に至っては尚のこと恐ろしきことである。本来同胞として手を繋ぎ合うべき霊たち――われらは身体にはかまわぬ。一時的に物的原子をまとえる“霊”こそわれらの関心事である――その霊たちの利害の対立をそなたらは戦闘的手段によりて処理せんとする。血に飢えし霊たちは怨念と憤怒を抱きつつ肉体より引き裂かれ、霊界へと送り込まれる。肉体なき霊たちは燃えさかる激情にさらに油を注がれたる如き激しさをもって地上界を席巻し、残虐と肉欲と罪悪に狂う人間の心を一層駆り立てる。然るにそのって来るそもそもの原因は単なる野心の満足、一時のきまぐれ、あるいは王たる資格に欠ける王子の愚かなる野望に類するものであったりする。

ああ、友よ、人間は何も知らぬ。まだまだ知らねばならぬことばかりである。しかもそれを、これまで犯せる過ちを償うため、苦くかつ辛き体験を通じて知らねばならぬ。人間は何よりもまず、愛と慈悲こそ報復的処罰にまさる叡智なることを知らねばならぬ。かりにもし神がそなたたちが想像せる如く、人間が同胞を処罰する如くに人間を扱うとすれば、そなたたち自らも間違いなくそなたらの想像せる地獄へ堕ちねばならぬ。神につきて、われら神の使者につきて、そして自身みずからにつきて、そなたたちはまだまだ知らねばならぬ。それを知った時はじめて真の進歩が始まり、邪霊を利する行為でなく、われら神の使者の使命達成のために協力することになろう。

友よ、もしもわれのメッセージの有用性と利益につきて問う者があれば、それは無慈悲と残虐と怨念の産物に代わりて、優しさと慈悲と愛の神を啓示する福音であると告げよ。神ヘの崇敬の念と共に、愛と慈悲と憐憫れんびんの情をもって全生命を人間のために尽くさんとする霊的存在につきて知らしめんがためであると告げよ。人間が己の過ちを悟り、神学的教義の他愛なさに目覚め、知性を如何にして己の進歩のために使用するかを学び、与えられたる好機を己の霊性の向上のために活用し、死してのち同胞と再会せる時に、地上での言動を非難されることのなきよう、常に同胞のために生きることを教えるものであることを告げよ。これこそがわれらの使命であることをその者たちに告げるがよい。これを聞いてもし彼らが嘲笑し、己のお気に入りの説にて事足れりと自負するならば、その者たちには構わず、真理を求めてやまぬ進取的霊に目を向けるがよい。そして彼らに地上生活の改革と向上を意図せる神のメッセージを告げるがよい。そして彼ら真理に目覚めぬ者のために祈れ。死して目を覚ませる時、己の惨憺さんたんたる光景に絶望することのなきよう祈ってあげるがよい。

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