3節
〔前節の通信が書かれた時の勢いはこれまでになく激しいものだった。一ページ一ページきちんと余白を取り、段落をつけ、実に細かい文字で書き、God(神)の文字だけは必ず大文字で書いた。書き上がったものを見るとまさに書き方の手本のようだった。が、書き綴っている時は手がヒリヒリし、腕ががくがくして、強烈なエネルギーが身体を流れるのを感じた。書き終わった時はぐったりとして横になるほど疲れ果て、頭の奥に激しい痛みを覚えた。そこで翌日さっそくその頭痛の原因を尋ねた。すると非常に穏やかな筆致でこう綴られた――〕
あの時の頭痛はエネルギーの強さと、それをそなたより引き出す時の速さが度を越したからである。あのような重大なる問題については熱烈さを伴わずしては書けぬ。われらが地上へ派遣されたそもそもの目的が、その種の問題にそなたの関心を向けさせることにあるからである。われらは神の定めたる不変の法則に従うことの重大性を何としても強く印象づけておきたく思う。それを犯すことは己を危うくすることでしかないからである。
戦争は人間の欲望と野心、怒りと
人間の社会制度と国家機構には改めねばならぬことが数多くある。取り入れねばならぬものが数多く存在する。
例えば人間の社会は大衆のための法律と言いつつその実、犯罪人を
もしこれを無知の産物と言うのでなければ、神への冒涜と言わねばなるまい。われらは神の恵み以外の何ものももたらさぬ。地上の同胞にとって、われらは神の真理の担い手にほかならぬ。人間がその罪深き心と卑しき生活によりて同類の邪霊を引き寄せその邪性を倍加すれば、その罪は人間自らが背負わねばならぬ。邪霊たちは人間の蒔いたタネを刈り取っているに過ぎぬ。邪霊を咎める前にまず人間自らがその過ちを知らねばならぬ。魂と
――いま一度肉体的快楽を求めるとはどういう意味ですか。
こうした地縛の霊たちは、地上時代の肉体的欲望と性向とを多分に残している。それを直接感識する器官はすでにないが、欲求だけは消えぬ。飲んだくれは相変わらず酒と性の味が忘れられぬ。否、むしろ一段と強く求める。いくら耽っても満足を得ることができぬためである。魂の中に欲望の炎が燃えさかる。その欲望に駆られて、かつての通いつめた悪徳の巣窟へと引きつけられ、そこで快楽に耽る人間に取り憑き、その者の堕落を一層深めていく。かくして再び地上生活を味わい、同時にその人間が深みにはまり行くのを見て、悪魔の如く、してやったりと、ほくそえむ。悪徳が引きつがれ、罪悪と悲しみを産み続ける。魂を奪われたその哀れなる者は目に見えぬ悪の使者に駆りたてられ、泥沼に深く深く沈んで行く。家では妻と子が飢えと悲しみに言葉もなく打ち暮れている。そのまわりを、打つべき手を全て失いたる守護霊(1)が、為すすべもなく徘徊する。
こうした例を持ち出すのは、地縛霊が酒色に耽る人間を
――そうすることによって、いま例を挙げられたような憑依が防げるということですか。
さよう。最後には防げる。人間の側より餌を撒くが如き愚を続ける現状が維持されるかぎりは、それ以外には方法はあるまい。
――幼くして死んだ子供は一気に高い世界へ行くのでしょうか。
そういうことは有り得ぬ。地上生活ならではの体験は決して免除されることはない。確かに、汚れを知らぬという利点のおかげで“浄化のための境涯”は速やかに通過できよう。が、体験と知識の不足は、それを補い鍛練することを仕事とする霊による指導を仰がねばならぬ。故に、地上生活を中途で打ち切られることは、このままでは魂の成長を遅らせ損失を招くのみと見なされた場合を唯一の例外として、決して得にはならぬ。与えられし宿命に甘んじ、己の成長と同胞の福祉のために精を出し、神を崇め、神に奉仕し、背後霊の指導に素直に従う者こそ、地上生活を最大限に活用した者と言えよう。そうした地上生活を送れる人間たちは改めて学び直すものはなく、従って霊界での向上も速やかである。魂の向上を妨げるのは、あらゆる種類の
――地上に戻ることだけが進歩のための唯一の手段ではないでしょう。
無論である。しかもそれが普通一般のことでもない。われらの世界には数多くの教育施設が用意されている。また、一度失敗した方法は二度と採用せぬ。
〔このあと霊の住居と仕事について通信が続いたが、私には今一つ理解がいかないので、筆記者は自分の境涯以外のこと、というよりもむしろ、その上の界の事情にも通じているのかどうか、また、地上よりもっと低い境涯への誕生もあるのかどうかを尋ねてみた。すると、霊にも霊界の全てに通暁する能力はないこと、また魂が向上発達し完成されていく、いわゆる“試練”もしくは“浄化”の環境と、そのあとに来るいわゆる超越界――いったん突入したら(よくよく特殊な場合を除いて)二度と戻ることのない“無”の世界――との間には大きな懸隔があるということだった。そしてこう綴られた。〕
七つの試練界の最高界から超越界の最低界への突入は人間の死にも似ていよう。が、その超越界につきてはわれらも殆ど聞かされていない。ただ、われらがこうしてそなたを見守っている如く、その世界の至聖なる霊もわれらを援助し導いて下さっていることは承知している。が、それ以外の客観的な事実については何も知らぬ。判っているのはその世界の霊はいよいよ神的属性が完成に近づき、宇宙の根源に通じ、神を身近に拝むことを得るらしいということのみである。われらとてまだまだその至福の境涯からは程遠い。まだまだ為さねばならぬことがある。その遂行の中に喜びを見出しているところである。霊といえども己の得た経験と知識に基いて語っていることを承知しておく必要があろう。奥深き問題についても、それまで知り得たかぎりの知識の範囲で解答を出す。故に真実から外れたことを述べることも有り得るわけであるから、そうした霊を咎めてはならぬ。霊の世界についてわれらが間違いなく言えることは、そなたらの住む地球が七つの下層界のうちの最高界であり、その上に七つの活動の世界があり、さらにそのあとに七つの超越的瞑想界が存在するということである。(2)但しその七つの各界には数多くの“境涯”が存在する。自ら堕落の道を選べる者が遂に後戻りの出来ぬ境涯まで落ち込んで行く理由については、すでに少しばかり述べた。絶え間なく悪を求め、善を拒絶していくことは必然的に純粋なるもの善なるものへの嫌悪感を
こうした境涯の霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより、魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求の芽生えた時が更生への第一歩である。その時より神聖にして気高き波長に感応するようになり、救済団による手厚き看護を受けることになる。地上にも自らを犠牲にして悪徳の世界に飛び込み、数多くの堕落者を見事に更生せしめている気高き人物がいる如く、われらの世界にもそうした奈落の底に沈める霊の救済に身を投じる霊がいる。そうした霊の努力によりて善に目覚め、堕落の生活より救済され、浄化の境涯における長く辛き試練を経てついに悪の影響と断絶し、清らかにして善なる霊の保護のもとに置かれた霊は決して少なくない。かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。それより更に深く沈みたる境涯についてはわれらも多くを知らぬ。漠然と知りたるところによれば、悪徳の種類と程度によって、さまざまな区別がなされている。中には善なるものへの欲求を全て失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んで行く者がいる。そして遂には意識的自我を失い、事実上、個的存在が消滅していく。少なくともわれらはそう信ずる。
ああ、なんと悲しきことであることか! が、有難きことに、こうした霊は稀にしか存在せず、よくよくの事情にて善と聖へ背を向けた者に限られる。これがイエスが弟子たちに語れる“死に到る罪”である。聖書に言う“聖霊に対する罪”(3)である。すなわち聖なる神の使徒の声に背を向け、聖と純と愛の生活を棄てて悪徳と不純の生活を選びし罪である。動物性が霊性を駆逐し、身体までも
これぞ聖書に言うところの、聖霊を汚す“赦し難き罪”(4)である。赦し難きとは神が赦さぬというのではない。自らその道を選びたるが故である。その道が性分に合い、いささかの悔い改めの念も感じぬためである。
罰は常に罪そのものが生み出す。それが罰の本質であり、決して第三者によりて割り当てられるものではない。法を犯したことによる不可避の結果なのである。その罰より完全に免れることは絶対に出来ぬ。もっとも、悔い改めによりてその苦しみが和らぐことは有り、その結果として罪悪への嫌悪感と善への志向を
さきに地上の法の違反者の取り扱いの愚かさを指摘したのは、こうした観点に基づいてのことであった。万一われらが同じ要領で過ちを犯せる霊を扱ったならば、真の救済は有り得ず、堕落霊の境涯はすっかり身を滅ぼせる霊でひしめき合うことであろう。が、神はそうはさせぬ。そうしてわれらはその神の命を受けし者なのである。
〔注〕
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GuardianまたはGuardian angel地上に生をうけた霊(人間)と同じ霊系に属する類魂の一人で、誕生時あるいはそれ以前から付き添い、他界したのちも、事実上永遠に、切っても切れない絆で結ばれている。
英語と同様、守護霊(ガーディアン)という文字に“守る”という意味があるために、とかく守護霊とは何ごとにつけて守ってくれる霊とばかり想像されがちであるが、本来の使命は本人の地上での使命の達成と罪障消滅すなわち因果律を成就させることであって、それを挫折させまたは阻止せんとする勢力から守ってくれることはあっても、ぜひとも体験せざるを得ない不幸や病気等の“魂の試練”まで免除してくれることはしない。
ただ、各家庭によって躾の仕方が異なるように、守護霊によって考え方や方針が異なる。従って守護霊とはこういう働きかけをするもの、と一概に論ずることはできない。
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死後の世界の分類の仕方は、視点の置きどころによって諸説がある。したがって他の説と数字だけで比較するのは適当でない。
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マタイ 12-31~32
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同右