(1)寂しさと嫉妬

“寂しさ”は、霊的エネルギーの欠如から発生

多くの地上人は寂しい心を抱えたまま生活しています。常に孤独感にとらわれています。寂しさは、「霊的エネルギー(神の愛)」が欠如しているところから生じます。霊的エネルギーが切れると自動的に寂しくなるのです。これは「霊(魂)」の自然な反応であり、肉体の水分が不足するとのどが渇くのと同じことです。

霊界では必要な霊的エネルギーはすぐに補充されるようになっているため、地上人のように長い間、寂しさや孤独感を持ち続けることはありません。寂しさや虚しさや孤独感は地上ならではの苦しみであり、霊的成長のためのチャンスとなるありがたいもの、霊的成長にとって必要なものと言えます。

地上で生活するかぎり、霊的真理を知っているからといって、寂しさや孤独感が消え去ることはありません。それどころか、なおいっそう厳しい形で迫ってくるようになるのが普通です。

寂しさの克服

寂しさがおそってきたときには――「心の持ち方や考え方が神の摂理(霊的真理)からずれている。早く修正しなさい」という警告と考えるべきです。このとき霊的真理を武器として正しく用いて対処するなら、霊的成長が促されるようになります。しかし大半の人々は寂しさに負けて物質的快楽に走り、霊的成長の道を踏み外し、大きなカルマ(霊的負債)をつくり出してしまいます。霊的人生を歩もうとする人間にとって、寂しさの克服は“生命線”とも言えるほどの重要な意味を持っています。

霊的真理を知らないこの世の人々は、酒や娯楽やおしゃべりに興じたり、男女愛に逃げ道を求めたり、SEXやドラッグにのめり込んで寂しさを忘れようとします。何とかして寂しさを紛らわせようとします。しかし今述べたように、寂しさや虚しさは霊的エネルギーの欠如から発生している以上、そうした物質的・肉欲的手段では解消することはできません。霊的手段によって霊的エネルギーを取り入れないかぎり駄目なのです。

寂しさにとらわれそうになったときにはグッと踏みとどまり、霊的真理を集中して読んだり、祈りに専念することが必要です。こうした霊的努力を通して魂に霊的エネルギーが呼び込まれ、寂しさが拭い去られるようになるのです。

“嫉妬”という醜い利己愛

嫉妬(ジェラシー)も、寂しさと同じような原因から生じます。人間関係を深めようとすると、必ず直面するのがこの“嫉妬”の問題です。利他愛で他人を愛そうとするにもかかわらず、突如、嫉妬が湧き上がり、醜い利己愛が心を支配してしまうのです。嫉妬は男女間だけでなく、ありとあらゆる人間関係の中にも入り込んできます。

嫉妬の醜い実情を前にすると、人間が完全な愛の持ち主になるのは、いかに難しいことかを実感するようになります。純粋な愛の持ち主になりたいと願っても、嫉妬という醜い利己的感情が希望を打ち砕いてしまうのです。利他愛の実践を心がける人間は、必ずと言ってよいほど、この嫉妬の問題で苦しむようになります。

今、地上で嫉妬の思いを払拭できずに苦しんでいる人には考えもつかないことでしょうが、霊界には嫉妬は一切存在しません。霊界では嫉妬の思いは、きれいさっぱりとなくなってしまうのです。嫉妬というしつこく醜い感情は、肉体本能から発生します。したがって肉体を脱ぎ捨てると、嫉妬は存在しなくなってしまうのです例外として“地縛霊”は嫉妬を魂の中に刻み込んだまま、しばらくの間、幽界下層で生活します)

嫉妬を“霊的生理現象”という観点から説明すると、次のようになります。嫉妬の深層には、「他人より多く愛されたい。もっと多くの人々から愛されたい」という独占的な“利己愛”が存在しています。嫉妬に苦しみがともなうのは、“利己性”という霊的摂理からのずれがあるからです。私たち地上人は霊界人と違って肉体を持っているため、神の愛をストレートに感じることができません。それに対し霊界人は、必要な霊的エネルギーを常に取り入れられるため、神の存在と愛を実感できるようになっています。「神の愛」でいつも心が満たされ完全に満足することができるため、愛を独占したいという思いが湧いてこないのです。それゆえ霊界人は嫉妬を持つことがないのです。

地上人の大半が霊的エネルギー(神の愛)の枯渇状態・愛に対する欲求不満状態に陥っています。そうした地上人が神に愛を求めようとしないなら、必然的に周りの人間に愛を求めるようになります。「他人から少しでも多く愛されたい。他人よりも多くの愛がほしい」と思うようになるのです。愛の刺激と喜びは何にもまして大きいため、人間は自分に与えられる愛の多少についてきわめて敏感になり、ここから嫉妬が発生するようになるのです。

嫉妬の克服は、最も困難な霊的闘い

嫉妬の克服は、人間にとって最も困難な霊的闘いの一つです。嫉妬という拭い去ることの難しい感情を、どのように克服したらよいのでしょうか? 私たち地上人は肉体を持っているため、どうしても嫉妬の思いを持つようになってしまいます。それはある意味で、物質世界に住む人間の宿命と言えます。

問題は、嫉妬が湧き上がってからの処理の仕方なのです。嫉妬が湧き上がってきたときに、どのように対処するかによって、それを霊的成長のチャンスにすることもできるし、反対に苦しみと醜い思いをさらに増幅させることにもなってしまうのです。結論を言えば「嫉妬に対する闘い」は、霊的真理を徹底して活用する以外に方法はありません。

神と守護霊に愛されている事実を思い出す

嫉妬を乗り越えるために真っ先になすべきことは、神と守護霊から愛されている霊的事実を思い出すことです。今この時も、神は宇宙よりも大きな愛で私たちを愛してくれています。そして将来にわたって、変わらぬ愛で愛してくれるのです。また守護霊も、常に私たちを愛してくれています。守護霊の愛は地上のいかなる人間の愛よりも深く、肉親や配偶者、親友や恋人の愛もはるかに及びません。その愛は、一点の利己性もない純粋な利他愛・無償の愛です。守護霊は私たち一人ひとりの背後にいて、一生の間ずっと付き添い、ひたすら私たちが幸福になるためだけに心を砕き導いてくれるのです。

神と守護霊から絶大な愛で愛されている事実を思い起こすとき、自分は決して独りぼっちではないことを実感します。それどころか身に余るほどの愛に包まれていることに感動するようになります。

寂しさを感じたり、嫉妬の思いに駆られたときには、神と守護霊から愛されている事実を何度でも思い出しましょう。その事実を繰り返し自分の心に言い聞かせましょう。もし少しでも神と守護霊の愛を実感できるなら、その瞬間に嫉妬の思いは消え去ります。「寂しさに負けて嫉妬の思いにとらわれていたのは間違いであった。寂しく思う必要など何ひとつなかった。それはただ、自分が大きな愛で愛されていることを忘れていたにすぎない」との心境に至るはずです。

神と守護霊の愛に気がつけば、もう地上の人間から愛されても愛されなくても、どちらでもいいと思えるようになるのです。

与えることだけが自分の使命であると決意する

次の対処法としては、「与えることだけが自分の務めである」と決意することです。霊界では愛を与えることが優先され、先に愛されたいと思う人間はいません。霊界では受けることよりも与えることが大切であって、それが常識となっています。自分のことを後回しにして先に人を愛してこそ、喜べるようになっているのです。そのため霊界には、地上のような嫉妬は存在しません。

私たち地上人は肉体を持っているため、完全に霊界人のようにはいきませんが、彼らの愛の在り方を見本とすべきです。「与えることだけが自分の使命であり、なすべき務めである。相手から与えられること、愛されることを期待するのはやめよう。人から良く思われようと悪く思われようと、どちらでもいい。それよりも先に人を愛すること、与えることだけに専念しよう。自分の務めは、ただ与えることだけであって、人から愛されることではない」と心を割り切ってしまうのです。その瞬間に嫉妬の思いは消え去っているはずです。

嫉妬の思いにとらわれたときには、次の二つの霊的真理をすぐに思い起こし、自分に言い聞かせます。「今、自分は神と守護霊から最高の愛で愛されている」「自分の使命は与えることであって、周りの人々から愛されることではない」――こうした真理によって心を立て直すことが、嫉妬に対する最高の闘い方であり、摂理にそった正しい対処方法なのです。

絶えず霊的エネルギーを充電する

とは言っても実際には、すぐには嫉妬の思いをふっきれないときがあります。頭では真理を理解していても、霊的エネルギーを取り入れられないと感情を治めることができず、いつまでもすっきりしない状態が続いてしまいます。そうしたときには、どうしても霊的エネルギーの充電が必要となります。

そのための最も良い方法が「霊的真理」を徹底して読むことです。真理をじっくりと読む中で、少しずつ霊的エネルギーが取り入れられ、心が広がっていくようになります。すると今あげた二つの霊的真理が実感のともなったものになり、たちまち心がすっきりするようになります。

ただし地上にいる間は、しばらくするとまた霊的エネルギーがなくなり、嫉妬の思いが頭を持ち上げてくるようになります。したがって絶えず「霊的闘い・内面の闘い」が必要となるのです。一日に何度も真理を思い出し、心を整理しなければならないこともあります。それは清らかさの上限を押し上げるための価値ある努力であり、真理を知らない人には決して真似のできない歩みです。それは、まさしく地上における高次元の霊的闘いなのです。

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