(2)霊的成長を促す「利他愛の実践」

霊的成長こそが地上人生の目的であり、人間にとって最も大切なものであることが分かりました。では霊的成長を達成するためには、具体的に何をしたらよいのでしょうか。どのような生き方をしたら、霊的成長がなされるのでしょうか。

霊的成長のバロメーターは「利他愛」

霊界の高い界層にいる高級霊と、幽界下層の暗い境域にいる低級霊・未熟霊の内的性質を比較することによって、何が人間の霊的成長を促す要因となっているのかが明らかになります。

結論を言えば、霊的成長の高いレベルにある高級霊と、霊的成長の低い低級霊・未熟霊の違いは「利他愛の度合い」にあります。霊的成長レベルの差は、霊が利他愛をどのくらい持っているのか、ということにおいて決定されるのです。これは「利他愛」こそが、霊的成長のバロメーターであるということを意味しています。

宇宙と霊界に遍在する「神の愛」

神によって造られた世界(宇宙・霊界)には、神の愛があまねく及んでいます。神の愛は、すべての存在物・生命体・意識体を包んでいます。神はその愛から、ご自分が造られた万物を維持・支配するシステムを設けられました。それが「神の摂理・法則」です。神はこの法則によって、宇宙・霊界に調和と秩序をもたらしています。神はこの法則を通じて、人間に臨んでいます。そのためすべての人間が、神によって「完全平等・完全公平」に愛され扱われることになります。「神の愛」の平等性は、摂理の支配というシステムの中で成就されているのです。

霊界では、神の存在を疑ったり否定したりする霊はいません。それは物質世界である地上界とは違って「神の愛」が実感をともなって認識されるため、神の存在を否定しようにも否定できないからです。地上人の中で自分たちを取り巻く空気の存在を疑う者はいませんが、それと同じように、霊界人の中で神の愛の実在を疑う霊はいないのです。それどころか霊界での神の愛の実感は、地上の空気以上に強烈に迫ってきます。霊界のすべての霊が、神の存在と神の愛を身近に鮮烈に感じ取っています。そのため神の愛が霊界中に充満していることを疑う霊はいないのです。

「神の愛」の本質

――完全な利他性・無償性

宇宙・霊界の万物を造られた神は、人間にとって「霊的親」であり、その愛は「親の愛」以外の何ものでもありません。親は子供の幸福を何よりも願います。自分の幸せよりも子供の幸せを真っ先に願います。親は子供が幸せになった姿を見たとき、初めて自分も幸せになれるのです。神が私たち人類に対して注ぐ思いは、まさしくこの「親の愛」なのです。

神の愛は、自分のことより相手のことを先に心配する愛であり、自分よりも先に相手の幸せを願う愛です。そこには一切の打算や見返りへの期待はありません。神の愛は、こうした「完全な利他的愛」「完全な無償の愛」なのです。完全な利他性と無償性が、神の愛の本質なのです。

霊的成長とは、「神の愛」を身につけていくこと

神によって生み出された子供(人類)が成長するとは、親なる神を手本として親に似ていくことです。それは神の愛を自らの内に築き上げていくことに他なりません。「神の愛」――すなわち利他的愛・無償の愛を多く身につければつけるほど、神の性質に似ることになり、神からの愛を多く受けられるようになります。神に似ることによって、さらに多くの神の愛が魂に流れ込んでくるようになり、神の愛の良き“受容器”となれるのです。そして今度はその愛を、周りの人々や動物・存在物に与えることによって、神の愛の良き“授与器”となっていくのです。神が万物を愛するように、自分自身が神の愛を与えることができるような人間になる、自分を通して神の愛を顕現させることができるような人間になる、ということです。こうしたプロセスを経て、神の愛をより多く受けて、より多く与えることができるようになっていきます。これが「霊的成長・魂の成長」ということなのです。

霊界の上層に行けば行くほど、そこに住む高級霊たちは多くの神の愛を受け、そして多くの神の愛を互いに与え合っています。それによって彼らは、神の愛からもたらされる“愛の喜び”を満喫し、より多くの美をつくり出すことができるようになっているのです。

利他愛の実践こそが、霊的成長の道

地上にいる私たちにとって「神の愛の実践」――すなわち「利他愛の実践」こそが最も大切な生き方となります。利他愛の実践によってのみ、人間は神に似ていくことになり、霊的成長を達成することができるようになっています。利他愛の実践のないところでは、霊的成長をなすことはできません。どれほど真理を学び、多くの霊的知識を身につけても、また厳しい修行を積み重ねても、利他愛の実践がなければ霊的成長は達成されないのです。

利他愛実践の重要性を、シルバーバーチは次のように述べています。

「宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも、神の愛があればこそです。全宇宙を動かし、全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が、自分の愛する者だけでなく、血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。愛は自分より不幸な者へ向けて、自然に手を差しのべさせるものです。

全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて、人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。

好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。好感のもてない人を愛する――これが魂の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではありません。確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければなりません。

かわいそうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心のあった人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。最高の徳は利他愛です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであるがゆえに愛する、愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。

神は無限なる愛であり、自己のために何も求めません。進化向上の果てには、己のためには何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界にたどりつきます。ただ施すのみの世界です。

我欲を捨て、他人のために自分を犠牲にすればするほど、内部の神聖がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。真の愛は、人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表れます。

愛の真の意義を悟るのは霊の世界にきてからです。なぜなら愛の本質は霊的なものだからです。愛は魂と魂、精神と精神とを結びつけるものです。神の顕現なのです。互いが互いのために尽くす上で、必要ないかなる犠牲をも払わんとする欲求です。愛は己のために何も求めないのです。」

以上のように、シルバーバーチの“愛”についての説明を見てきましたが、「利他愛」こそが「神の愛」であり、霊的成長の決め手であり、人間の価値を決定する尺度であることが分かっていただけたと思います。

人類は地上に誕生して以来今日に至るまで、宗教・道徳・哲学によって、より良い生き方、より価値のある生き方、より崇高な人生を模索してきましたが、その答えは――「利他愛の実践」という簡単な言葉の中にすべて含まれることになります。あらゆる宗教の教えは、この利他愛の実践というシンプルな教訓の中に集約されることになります。「利他愛の実践」こそが、人間にとって最高の生き方であり、真実の宗教的生き方なのです。

利他愛実践の重要性を強調したイエス

人類思想史上、この利他愛の重要性を最も適切に説いたのはイエスでした。キリスト教が“愛の宗教”と言われるようになったのは、イエスが神の愛を「利他愛・無償の愛」として明確に説き、人間がその神の愛にならって隣人を愛することを主張したからです。イエスの教えはシンプルでしたが、最も霊的真理の核心をついたものでした。イエスによって「神の愛」という霊的真理の一番の本質が明らかにされたのです。イエスが生前に教えを説いたのはわずか三年間にすぎませんでしたが、その教えが「神の摂理」と完全に一致していたため、その後、二千年間をかけて世界中に行きわたることになりました。

一方、それとは別にキリスト教会という人間がつくり上げた組織は、霊的事実からおよそ懸け離れた間違った教義(原罪思想・贖罪しょくざい思想・三位一体説など)を捏造ねつぞうし、せっかくのイエスの教えを台なしにしてしまいました。結局、霊的真理をねじ曲げたまま、今日まで存続することになりました。あらゆる霊界通信が、キリスト教会の弊害を厳しく糾弾きゅうだんしてきました。時にはキリスト教会を“人類の敵”とまで強く非難しています。イエスの教えから離れたキリスト教会は、人類の霊的成長にとって大きな障害となってきたのです。

ホーム

はじめての方へ

関連サイト

サイト内検索

トップ