(3)自分自身の心がつくり出す暗黒地獄

宗教では「善人は死後天国に行き、悪人は地獄に堕ちて苦しむ」というようなことが言われてきました。有名な霊界探訪者であるスウェーデンボルグも、幽体離脱の状態で天界や地獄を見てきたと述べています。

そうした“地獄”というような世界は、本当に存在するのでしょうか。もし地獄があるとするなら、どこにあるのでしょうか。また“地獄の苦しみ”と言われてきたことの真意とは、いったい何だったのでしょうか。

宗教で言われてきたような地獄世界は存在しない

結論を言えば、これまで宗教で言われてきたような地獄の概念は正しくありません。教訓的目的から説かれた地獄の様子は、その多くがフィクションであり、事実とは懸け離れています。従来の宗教で説かれてきたような、限定された特定の地獄という場所は存在しません。ダンテの『神曲』やスウェーデンボルグの著作、また仏教の説話の中で述べられているような、天国に対峙する世界としての地獄は存在しません。

では、霊界には暗く醜い場所(境界)はないのかといえば、そうではありません。実際、地獄と言ってもいいような醜悪な場所・暗黒の場所があるのです。地獄を「邪悪で醜い悪人が集まる所」と定義するならば、地上に最も近い幽界の最下層の一部が、それに相当します。幽界の下層には、現実に“地縛霊や低級霊”が集まっている醜い境域(世界)が存在します。そこには魂の中身が極悪で、利己性がきわめて強い者がたむろしています。いつまでも地上的感覚を拭い去ることができず、享楽・快楽に耽溺たんできしたままの醜悪な霊たちが大勢いるのです。そうした醜い心の持ち主の思念は、醜い環境をつくり出します。当人たちには、それが一番心地よく感じられるのですが、外部から見れば、そこは暗く醜悪性に満ち満ちた“暗黒地獄”となっています。

そうした所には、長い時を経ても霊的に目覚めることができない者が留まっています。極端な唯物論者や、間違った信仰をしてきたために自分が死んだことを認めようとしない者たち、また本能的な欲望が強く染み付き、死後においても依然としてそれを求め続ける者たちが“地縛霊”となって幽界下層に居座り続けているのです。

自分の欲望が引き起こす地獄の苦しみ

幽界では“ああしてはいけない、こうしてはいけない”という規則も制約もなく、したいことが何でもできます。まさにやりたい放題の世界なのです。守銭奴は、大好きなお金を何の苦労もなく貯められます。美食家は、終日好きな食べ物を思う存分食べ続けることができます。ケンカ好きは、心ゆくまで他人をいじめ、それを楽しむことができます。セックス愛好家には、セックスはしたい放題、乱交パーティーなど思いのままです。彼らにとって、そこはまさに“地上の楽園”です。

しかしこうした住人たちも、やがて猛烈な苦しみを体験するようになります。守銭奴はどんなにせっせとお金を貯めても、それが全く無用であることに気がつき、虚しさに落ち込むようになります。自分の人生には全く意味がなかったことをイヤというほど知るようになります。美食家は食べても食べても食欲が満たされず、飽くことのない自分の欲望から欲求不満に陥り苦しむようになります。乱交パーティーも、肉体のないセックスではいつまで経っても満足が得られず、不満が募って苛立ちと苦しみだけが大きくなっていきます。思いのままの手軽なセックスの連続は嫌気が増すだけです。しかもイヤな相手が自分を離してくれないので、いっそう苦しみは激しくなっていきます。

これは、まさに地獄です。自分自身の地上的欲望がつくり出した地獄です。地獄は神が造ったものではなく、人間の心がつくり出したものなのです。これまで宗教で説かれてきたような地獄は、実際には存在しません。“地獄”とは、自分自身の醜い思いがつくり出す心の状態であり、自業自得の世界なのです。地上時代に権力や金銭に執着していた者が、こうした世界に多くいることは、今さら説明する必要はないでしょう。

“後悔の念”という地獄の苦しみ

地上時代に利己的な生き方をしてきた者、他人を苦しめてきた者、善行をするチャンスがありながらそれを無視してきた者は、死後、霊界(幽界)に行ってから、その愚かさのツケを払わされることになります。幽界では、自分の地上人生がいかに間違っていたのか、そしてせっかくの霊的成長のチャンスを捨て去ってしまったのかを実感するようになり、大きな後悔と苦しみの中に立たされることになります。

地上で肉体に包まれているときには、心の呵責かしゃくや後悔をそれほど強く感じることはありませんが、思念の世界である霊界に入ると、後悔の苦しみが何十、何百倍にもなって迫ってくることになります。そして自分が地上世界で犯してきた罪を、自分自身で裁き、自分自身で罰するようになるのです。これも“地獄の苦しみ”となります。

宗教で言われてきたような、死後の世界におけるサタンの讒訴ざんそ閻魔えんま大王の審判、また終末における最後の審判などというものはありません。死後は誰もが幽界で、自分の地上での行為を反省し、自らを裁くという状況が生じるのです。罰を与えられる特定の場所(地獄)があるわけではありません。幽界では、地上時代になした愚行によって自分で自分を責め、後悔の念で苦しむことになるのです。“地獄の苦しみ”とは、そうした魂の苦しみ・心の苦しみのことを指しています。この意味で――「地獄は一人ひとりの心の中に存在する」ということなのです。

幽界における苦しみによって霊的に覚醒するようになるまで、自分自身でつくり出した暗黒の境涯(地獄の状態)は続くことになります。

“地獄霊”の救いの道

地獄と言ってもいいような暗い境涯で時を過ごした霊にも、遅かれ早かれ、苦しみを通して少しずつ進歩への欲求が芽生えるようになります。しかし中には、あまりの霊性の未熟さゆえに、いつまでも一人では更正の道を歩み出せない者がいます。そうした霊たちに対して、高い世界から常に救いの手が差し伸べられています。霊界には、地獄にいる住人を救い出すことを使命として働く高級霊たちがいるのです。

とは言っても、本人自身が“進歩したい”という欲求を持つようになるまでは、たとえ高級霊といえども導くことはできません。長い苦しみの時を経て進歩への欲求が芽生えた者のみが、この救いの霊に助けられ、少しずつ進歩の道を歩み出し、次の世界へ入っていけるようになるのです。また地獄に堕ちている霊の中には、地上時代に犯した大きな罪や間違いを償うために、半ば強制的に地上へ再生させられる者もいます。こうした再生霊の地上人生は、苛酷かこくで厳しいものとなります。

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