(2)幽界の生活への飽き
幽界は、地上の夢がそのまま実現する世界です。考え方によっては幽界は、まさに地上の楽園・極楽浄土と言えます。思いや願いが何でもかなうこの楽園で、ある者はぬくぬくと何もせずに暮らし、ある者は趣味
幽界の生活への飽き・嫌悪
幽界に入った当初、大部分の人々は「ここは何と素晴らしい所か、いつまでもここにいたい!」と思うものです。しかしそうした人たちも、少しずつ幽界での生活に“飽き”を覚えるようになっていきます。思うことが何でも自由に実現する世界には、奮闘努力した後に得られる心の充実感がないからです。
しかもよく考えてみると、実現するものはすべて自分の好みであり、その大半が肉体的な欲求に関連したものばかりです。要するに自分の中にもともと内在していた欲望を、何度も繰り返し満たしていたにすぎなかったのです。ただただ“自分の欲望を満足させる”というワンパターンの繰り返しだったのです。地上では、それを実現するのにエネルギーと時間をかけなければなりませんでしたが、幽界ではあまりにも簡単に実現するために、飽きてしまうようになるのです。
次のようなことを考えてみれば、よく分かります。皆さんが旅行に行って、高級ホテルに泊まったとします。そこでは美味しいごちそうを、好きなだけ自由に食べることができます。おそらく最初の日は、ふだん食べたこともないような豪華な料理にきっと大満足するはずです。そして二日目も、その満足感は続くことでしょう。しかし三日目ともなると、少し飽きてきて「何か他のものを食べたい」と思うようになるのではないでしょうか。次の日また同じ料理を出されると、今度はうんざりし始めるようになります。そしてさらに次の日になると、もうその食事がどうにも耐えられなくなり、ホテルを出て、街角の大衆レストランや食堂を探し求めるようになることでしょう。
実は幽界の生活もこれと同様で、自分がつくり出した“欲望”という料理が、毎日毎日出されるようなものなのです。初めは誰でも満足しますが、徐々にその生活がイヤになっていきます。そして自然と、別のものを求めるようになるのです。地上時代に持っていた自分の欲望・欲求を心ゆくまで満たすことができる幽界は、まるで地上の楽園のようでしたが、やがてその世界にも飽きがきて、別のものが欲しくなるのです。
地上臭を取り除き、純粋な霊的存在になる
地上的な欲望や喜びだけを追い求める生活に嫌気がさすにともない、新しく精神的なものを求めるようになります。つまりごく自然な形で「霊的意識」が芽生え始めるようになるのです。特別、他人から教えられるわけでもないのに、おのずと本人の心が精神的な方向へ向いていくようになるのです。幽界とは、こうしたプロセスを踏むことによって、地上的なもの・物質的なものを心の中から取り去り、霊界へ行くための準備をする所なのです。純粋な霊的世界へ行くための準備をする境域なのです。
幽界では、地上的なものに魅力を感じるうちは、どれだけでもそれを楽しむことができます。いまだ“地上の喜びに心が惹かれている”ということですが、無理にそれを捨てさせようとする監視者はいません。本人自ら幽界での生活に飽き、魅力を感じなくなるまで、そこに留まり続けるのです。そして地上的なものに嫌気がさし、決別したいと思うようになると、いよいよ霊本来の世界、霊界に入っていくことになります。そして気がつくと、いつの間にか次の世界に入っています。
このように「幽界」とは、地上臭を拭い去り純粋な霊的存在となって、次に行くことになる「霊界」での生活に向けて準備をする所なのです。
幽界の生活は、他界者の霊的浄化プロセス
以上の話から幽界の生活は――「他界者の霊的浄化プロセス」となっていることが分かります。それをもう一度整理すると、次のようになります。
幽界は、ありとあらゆる地上的欲望を満たすことができる世界です。しかし、やがて誰もがその欲望に嫌気がさすようになります。何の努力もなしに満たされる生活に飽いてうんざりし、虚しくなるのです。そして「霊的目覚めの時」を迎え、本格的な霊の世界である「霊界」に入っていくことになります。このように“神”は、幽界において人間の物質的な夢を思う存分に実現させ、その夢が本物でなかったことを悟らせ、自然とそこから抜け出すための意欲を生み出させるのです。外からの強制ではなく、自発的に霊的進歩の道を歩ませようとされるのです。
これが、一般的な人間の幽界でのプロセスです。しかし、この幽界にほとんど留まることなく、単に素通りしていく、ごく一部の霊もいます。生前から霊的知識に通じ、それを実践し、地上にいながら霊的存在として歩んだ者は、肉体を脱ぎ捨てると同時に、霊界に直接赴くようになります。