21章 青年牧師との論争

〔ある時、キリスト教メソジスト派の年次総会がウェストミンスター寺院のセントラルホールで開かれ、報告や活発な討論がなされた。その合間に牧師たちの会話の中で、スピリチュアリズムのことがしきりにささやかれた。

そこに参加していてスピリチュアリズムに関心を抱いた一人の青年牧師が、ハンネン・スワッファーのもとを訪れ「交霊会というものに一度出席させてもらえませんか」と頼んだ。知的な風貌の好青年で、人徳を備えていることが一目で分かる。が、スピリチュアリズムに対する予備知識としては、コナン・ドイルの『The New Revelation』を読んだだけだと言う。

スワッファーは次のように述べた。

「明晩の交霊会にご出席ください。その会ではシルバーバーチと名乗る霊が、入神した霊媒の口を借りてしゃべります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得のいかないところがあれば反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。その代わりあとで他所よそへ行って、十分に議論をさせてもらえなかった、などと不平を言わないでいただきたい。聞きたいことは何でも質問なさってけっこうです。その会の記録はいずれ活字になって発行されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いも要らないでしょう。もっとも、あなたの方からケンカを売るなら別ですが……

翌日、約束通りその牧師が訪れた。そして、いつものようにシルバーバーチの祈りの言葉で交霊会が始まった。〕

訳注――その日の招待客についてはシルバーバーチは知っているが、霊媒のバーバネルは知らない、というよりは、意図的に知らせないことにしていた。予備知識があるとその想念が霊言の邪魔になることがあることを経験で知っていたからである。

バーバネルはグラス一杯の水を飲んでからメガネを外し、瞑目する。やがていびきのような息づかいとなり、容貌が変化して、例の肖像画で見るインディアンに似てくる。何やらもぐもぐと独り言をつぶやいた後、「用意ができました。始めてよろしいでしょうか」と言うと、列席者たちが口々に「ようこそお出でくださいました」と言う。そしてインボケーションという、会の成功を祈る言葉で開会となる。

「大霊のインスピレーションが皆さん方すべてに宿り、大霊の御心みこころに応えることができますように。皆さん方一人ひとりが、大霊の一部であることを感じ取ることができますように。そして、どこへ行くときも大霊の御心を携え、接するすべての人々にそれを身をもって示すことができるように祈ります。」


以下は、その牧師とシルバーバーチとの議論である。まず、シルバーバーチの方から牧師にこう語りかけた。

「この霊媒(バーバネル)には、あなた方の言う“聖霊の力”がみなぎっています。その力がこうして語らせてくれるのです。私はあなた方の言う“復活した霊”の一人です。」

青年牧師との議論は、次の質問から始まった。

牧師「死後の世界とは、どういうところですか。」

「あなた方の世界と実によく似ています。ただし、こちらは結果の世界で、そちらは原因の世界です。」

訳注――宇宙の創造過程から言えば霊界が原因の世界で地上は結果の世界であるが、ここではシルバーバーチは因果律の観点から述べており、地上で蒔いた種は死後に刈り取るという意味。

牧師「死に際して恐怖感はありましたか。」

「いいえ、ありません。私たちインディアンは霊感が発達していて、死が恐ろしいものではないことを知っていました。あなたが属しておられる宗派の創始者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存じですね?」

訳注――メソジスト派というのはジョン・ウェスレーという牧師が主唱し、弟のチャールズとともに一七九五年に国教会から独立して創立したキリスト教の一派で、ニュー・メソッド、つまり新しい方式を提唱したことから「メソジスト」という名称がある。ウェスレーの屋敷では不思議な霊現象がひんぱんに起きたことが有名で、「霊の力に動かされていた」というのは霊感が鋭かったという意味である。

なお、シルバーバーチは霊界の霊媒であるインディアンの立場に立って「私」とか「私たち」という言い方をしているが、本来のシルバーバーチは三千年前に地上生活を送ったことがあるということ以外、地上時代の氏名も国籍も民族も分かっていない。そういうことにこだわるのは人間の悪趣味として、六十年間、ついに明かさなかった。

牧師「はい、知っています。」

「しかし、現在の聖職者は霊の力に動かされてはおりません。すべては大霊の導きの中にあり、途切れることのない鎖で大霊とつながっています。あなた方の世界で最も低い人間も、高級界の天使とつながっています。どんなに悪い人間も、あなた方の言う神、すなわち大霊と結ばれているのです。」

牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか。」

「地上ではどのようにして認識し合いますか。」

牧師「目です。目で見ます。」

「でも、あなたは肉体の目で見ているのではありません。心で見ているのです。」

牧師「はい、私は私の心で見ています。それは霊の一部だと思います。」

「私も霊で見ています。私にはあなたの霊も見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影にすぎません。光源は霊です。」

牧師「地上での最大の罪は何でしょうか。」

「数多くの罪がありますが、最大の罪は神への反逆です。」

ここでメンバーの一人が、「それについて具体的に教えてあげてください」と言う。するとシルバーバーチは、「神の存在を知りながら、神の意思に背く生き方をすることです。それが最大の罪です」と付け加えた。

さらに別のメンバーが、「キリスト教ではそれを“聖霊に対する罪”と呼んでいます」と言うと、「例の本(バイブル)ではそう呼んでいますが、要するに霊に対する罪です」とシルバーバーチが答えた。

牧師「改訳聖書をどう思われますか。欽定訳聖書と比べて、どちらがよいと思われますか。」

「言葉はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。大霊の真理は、バイブルだけでなく他のいろいろな本に示されています。どこであろうと、誰であろうと、大霊のために奉仕しようとする人の心には真理があるのです。それこそが最高のバイブル(神の教え)なのです。」

牧師「改心しないまま他界した人はどうなりますか。」

「改心とはどういう意味ですか。もっと分かりやすい言葉で言ってください。」

牧師「ある人は悪い行いをしたまま他界し、ある人は正しい生き方をしようと改心してから他界しました。この場合、両者には死後の世界でどのような違いが生じるのでしょうか。」

「あなた方の本(バイブル)から引用しましょう。蒔いた種は自分で刈り取るのです。これは変えることができません。あなたは、今のあなたをそのまま携えてこちらへまいります。自分で思っているようなあなたではなく、人に見てもらいたいと思っているあなたでもない、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへまいります。あなたもこちらの世界へお出でになれば、本当の自分について分かるようになります。」

そう述べてからシルバーバーチは、「この人には心眼がありますね」とスワッファーに言った。スワッファーが「霊能があるという意味ですか」と聞くと、「そうです。なぜ連れてきたのですか」と尋ねた。「いえ、彼の方から訪ねてきたのです」と答えると、「この方は着実に導かれています。少しずつ光明が示されることは間違いありません」と述べた。

それから牧師に向かって「インディアンがあなた方のバイブルのことをよく知っていて驚かれたでしょう?」と言うと、牧師は「本当によくご存じです」と答えた。するとメンバーの一人が、「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えした。牧師はすかさず年代を計算して「ダビデをご存じでしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前一千年頃のイスラエルの王である。シルバーバーチが答えた。

「私は白人ではありません。レッド・インディアンです。米国北西部の山の中で暮らしていました。あなた方がおっしゃる野蛮人です。しかし、私はこれまで西洋人の世界に、三千年前の我々インディアンよりもはるかに多くの野蛮で残忍な行為と、無知とを見てきました。物質的な豊かさにおいて自分たちよりも劣る民族に対して今なお白人が行っている残虐行為は、神に対する最大の罪の一つと言えます。」

訳注――シルバーバーチがインディアンを霊界の霊媒として使用したことには、インディアンが霊的能力において発達しているからという理由とは別に、この一節に如実に表れているように、白人至上主義の思想と白人文化の愚かさを知らしめる意図が隠されている。

牧師「そちらへ行った人々は、どのようなことを感じるのでしょうか。強い後悔の念を抱くようなこともあるのでしょうか。」

「いちばん残念に思うのは、やるべきことをやらないで終わったことです。あなたもこちらへお出でになれば分かります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのに怠ったこと、そうしたことがすべて分かります。逃してしまったチャンスがいくつもあったことを知って後悔するのです。」

牧師「キリストヘの信仰をどう思われますか。神はそれを良しとなさるでしょうか。キリストへの信仰は、キリストの行いにならうことだと思うのですが……

「“主よ、主よ”と口にすることが信仰ではありません。大切なことは実際の行為であり、それがすべてです。何を語るか、何を信じるかは問題ではありません。もし、あなたが何ひとつ信仰というものを持っていなくても、落ち込んでいる人を励まし、飢えている人にパンを与え、暗闇の中にいる人の心に光を灯してあげるなら、神の御心に適う行いをしたことになるのです。」

ここで出席者の一人が「イエスは神の一部なのでしょうか」と尋ねると、シルバーバーチは次のように答えた。

「イエスは地上に降誕した偉大な指導者でした。しかし当時の民衆はイエスの教えに耳を傾けず、十字架にかけてしまいました。それどころか、今なお十字架にかけ続けています。すべての人間に神の分霊(神性)が宿っていますが、イエスは他の人々よりも、はるかに多くの神性を発揮しました。」

牧師「キリストが地上で最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物が嘘を言うはずはありません。キリストは言いました――“私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである”と。この言葉は、キリストがすなわち神であることを述べたものではないでしょうか。」

「もう一度、バイブルを読み返してごらんなさい。“父は私よりも偉大である”と言っているでしょう。」

牧師「はい、言っています。」

「またイエスは、“天にまします我らが父に祈れ”と言っていないでしょうか。“私に祈れ”とは言っておりません。父に祈れと言ったイエス自身が、天にまします我らが父であるはずはないでしょう。“父に祈れ”と言ったのであって、“私に祈れ”とは言っておりません。」

牧師「キリストは“あなた方の神”と“私の神”という言い方をしています。“私たちの神”とは決して言っていません。ご自身を他の人間と同列には置いていません。」

それを聞いてシルバーバーチは、次のように繰り返した。

「イエスは、“あなた方の神と私”とは言っておりません。“あなた方は私よりも大きな仕事をするでしょう”と言っております。

あなた方クリスチャンは、バイブルを読む際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をしますが、それをやめないといけません。霊に照らして解釈しなくてはいけません。霊こそが、宇宙のすべての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を用いたのは、そのためです。」

牧師は、「神は地上世界を愛するがゆえに唯一の息子を授けた」という聖書の言葉を引用して、イエスが神の子であるとするキリスト教の教義を弁護しようとした。

するとシルバーバーチは、「イエスはそんなことは決して言っておりません。イエスの死後何年も経ってから、例のニケーア会議でそれがバイブルに書き加えられたのです」と述べた。

牧師「ニケーア会議?」

「西暦三二五年に開かれております」と、シルバーバーチは即座に答えた。

牧師「でも、私が今引用した言葉は、それ以前からある“ヨハネ福音書”に書かれています。」

「どうしてそれが分かりますか。」

牧師「歴史書にそう書いてありますが……

「どの歴史書ですか」と、シルバーバーチは重ねて尋ねた。

牧師「はっきりとは言えません。」

「ご存じのはずはありません。バイブルというものが書かれるその元になった書物は、いったいどこにあると思いますか。」

牧師「“ヨハネ福音書”それ自体が原典です。」

「いいえ、それよりもっと前の話です。」

牧師「バイブルは西暦九十年に完成しました。」

「バイブルの原典となったものは、今どこにあると思いますか」と、シルバーバーチは迫った。

牧師は、「いろいろな文書があります」と言って、例として一つを挙げた。

「それらは原典の写しです。原典はどこにありますか。」

牧師がこれに答えられずにいると、シルバーバーチは次のように続けた。

「バイブルの原典は、ご存じのバチカン宮殿に仕まい込まれたまま一度も外に出されたことはありません。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典のコピーのコピーの、そのまたコピーにすぎません。そのうえ、原典にないことまでいろいろと書き加えられています。

初期のキリスト教徒は、イエスがすぐに再臨すると信じていました。そのためイエスの地上生活の詳細について、誰も記録しませんでした。ところが、いつになっても再臨しないため、ついに締めて記憶をたどりながら書き記すことになったのです。“イエスいわ……”と書いてあっても、実際にイエスがそう言ったかどうかは分かりません。」

牧師「でも、四つの福音書にはその基礎となった、いわゆる“Q資料(イエス語録)”の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。主な出来事は、その四つの福音書に述べられていると思うのですが……

「私は、そうした出来事がまったくなかったと言っているのではありません。ただ、バイブルの記述のすべてが、本当にイエスの言葉とは限らないと言っているのです。バイブルの中には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはなりません。」

牧師「記録に残っていない口伝くでんのイエス語録が出版されようとしていますが、どう思われますか。」

「イエスの関心事は、自分がどんなことを言ったかというようなことではなく、地上のすべての人間が神の御心を実践することです。人間はあまりにも教え(聖書の言葉)に関心を寄せ、行いをおろそかにしています。“福音書”なるものの説教の場には、大霊の真理に飢えた人たちが集まっています。そうした人々にとって重要なことは、単なるイエスの言葉ではなく、その教えに基づくあなたの生き方です。あなた自身の生き方を、手本として示すことです。

地上世界は教えでは救われません。いくら長い教えを説いても、それだけでは救われません。大霊の子供たちが、親なる大霊の御心をよろいとして、暗黒と弾圧の勢力に戦いを挑むことです。魂を束縛するすべてのものに立ち向かうことによって初めて、地上世界は救われるのです。それが、記録に残されていないイエスの言葉よりも大切なことなのです。」

牧師「この世には、なぜ多くの苦しみがあるのでしょうか。」

「大霊の摂理は、苦しみを通してしか悟ることはできません。苦しみという厳しい試練を経て初めて、あなた方の世界を支配している大霊の摂理を理解することができるのです。」

牧師「苦しみがない人が大勢いるようですが……

「あなたは神に仕える身です。大切なのは“霊”に関わることであって、“肉体”に関わることではないことを理解しなければなりません。霊の苦しみの方が肉体の苦痛よりも耐えがたいものです。」

メンバーの一人が「現行の制度は不公平であるように思います」と言うと、シルバーバーチは次のように答えた。

「地上人生で起きるすべてのことは、いつの日か必ず帳尻が合うようになっています。いつかは自分で天秤てんびんを手にして、バランスを調節する日がまいります。あなた方は、自分が蒔いた種を自分で刈り取るという自然法則から逃れることはできません。軽い罰で済んでいる人がいるかにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたは魂を見抜くことができないために、そう思うのです。

私が認めているのは大霊の法則だけです。人間の法律は認めていません。人間がつくった法律はいつかは改めなければなりませんが、大霊の法則には決してその必要はありません。地上に苦難がなければ、人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。すべての苦しみや痛みや邪悪は、大霊の分霊であるあなた方人間が、いかにしてそれを克服していくかを学ぶためにあるのです。

もしも苦難を乗り越えるための努力を怠っているとしたら、あなた方を地上に誕生させた大霊の意図を理解していないことになります。宇宙の始まりから終わりまで、すべてを法則によって支配している大霊に従わずに、誰が文句を言うことができるでしょう。」

牧師が「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」と尋ねると、シルバーバーチはそれには答えず、「あなたはこの世でどんなことをしていますか」と問いかけた。すると牧師は「それは、その、いろいろな本を読んだり……、それによく説教もします」と口ごもって答えた。それに対してシルバーバーチは、「私もよく本を読みます。それに今は、こうして重要な説教をしています」と言った。

牧師「私は英国中を回らなくてはなりません。」

「私は霊の世界を回らなくてはなりません。私は、霊的な準備が何もなされないままこちらへ送り込まれてきた人間がいる暗黒界へも下りていかなければなりません。それにはずいぶん手間がかかります。あなたに自覚していただきたいのは、あなたはとても重要な立場に立っていらっしゃるということです。神に仕える身でありながら、本来の責務を果たしていない人たちがいます。彼らは教会の壇上から、まったく意味のない長たらしい説教をしています。

しかしあなたが、自らを神に委ね、神の貯蔵庫からインスピレーションを受けるために魂の扉を開くなら、あなたの魂はいにしえの預言者たちを鼓舞したのと同じ霊力によって満たされます。あなたはその仕事を通して、人生に落胆し、地上の片隅で疲れ果てている人々の心を明るく照らす光をもたらすことができるのです。」

牧師「そうであるなら嬉しいのですが……

「いいえ、そうであるならではなくて、事実そうなのです。私はこちらの世界で、後悔している多くの牧師に会っています。彼らは地上人生を振り返り、自分が霊のメッセージを説いてこなかったこと、バイブルの言葉や教義だけにこだわって実践を疎かにしてきたことを後悔しているのです。彼らは、できればもう一度地上へ戻りたいと望んでいます。私は彼らに、地上にいるあなたのような人たちの心をいかにして鼓舞するかを示しています。そうした人たちに働きかけることによって、大霊の新しい真理が再び地上にもたらされるようになるからです。

あなたは、今まさに崩れつつある世界に身を置いていることを自覚しなければなりません。新しい秩序による世界、真の意味での天国が到来する時代の幕開けを見ているのです。その誕生には、痛みと苦しみと涙がともなうことでしょう。しかし最後には、大霊を中心とした世界が築かれるようになります。あなた方一人ひとりが、その新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜならすべての人間は大霊の分霊であり、大霊の仕事の一翼を担うことができるからです。」

青年牧師にとって初めての交霊会も終わりに近づき、シルバーバーチはその場を去る(霊媒から離れる)前に次のように述べた。

「私は、あなたが説教をする教会へ一緒にまいります。あなたは、ご自分が本当に良い説教をしたとき、これが霊の力だと自覚なさるでしょう。」

牧師「私はこれまでも、大いなる霊力を授かるように祈ってまいりました。」

「あなたの祈りは、きっと叶えられるでしょう」とシルバーバーチは答えた。

以上で一回目の議論が終わり、改めて二回目の議論の機会がもうけられた。その内容を紹介する。


「地上の人間にとって、聖別された完璧な生活を送ることは可能でしょうか。すべての人間を愛することは可能なのでしょうか」――これが二回目の交霊会で、牧師が最初にした質問だった。

「いいえ、それは不可能なことです。しかし、そのように努力することはできます。すべての努力は、あなたの人間性を形成するうえで、とても重要です。決して怒ることもなく、敵意を持つこともなく、かんしゃくを起こすこともないなら、あなたはもはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的として地上に生まれてくるのです。成長また成長と、どこまでも成長の連続です。それは地上だけでなく、こちらへ来てからも同じです。」

牧師「イエスは“天の父が完全であるようにあなた方も完全であれ”と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか。」

「完全であるように努力しなさい、と言っているのです。それが地上で目指すべき理想であり、内部に宿る神性を発揮する生き方なのです。」

牧師「今引用した言葉はマタイ伝第五章の最後の一節です。イエスは普遍的な愛について述べたあとで、その一節を述べています。またイエスは“ある者は隣人(身近な人)を愛し、ある者は友人を愛するが、あなた方は完全であれ。神の子なればなり”とも言っております。神は全人類を愛してくださるのだから、私たちもすべての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じると思われますか。」

この質問に、シルバーバーチは驚いたように答えた。

「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさりたいのですね。お聞きしますが、イエスは、地上で完璧な人生を送ったと思いますか。」

牧師「はい、完璧な人生を送ったと思います。」

「一度も腹を立てたことはなかったとお考えですか。」

牧師「当時行われていたことには、うんざりしていたと思います。」

「一度も腹を立てたことはなかったと考えておられるのですか。」

牧師「腹を立てるのは悪いことである、という意味で怒ったことはないと思います。」

「そんなことを聞いているのではありません。私は、イエスが腹を立てたことは絶対になかったのか、と聞いているのです。イエスが腹を立てたことは正当だったかどうかを聞いているのではありません。あなた方(クリスチャン)は、何でも正当化なさるんですから……

ここでメンバーの一人が、イエスが両替商人を教会堂から追い出したときの話を持ち出した。するとシルバーバーチが続けた。

「私が言いたかったのはそのことです。あのときイエスは、教会堂という神聖な場所を汚す人間に本当に腹を立てたのです。ムチを持って彼らを追い払ったのです。それは怒りそのものでした。私は、イエスの怒りが良いとか悪いとか言っているのではありません。イエスは怒ったのです。怒りは人間の激情です。私が言いたいのは、イエスも人間的性質(要素)を持っていたということです。あなた方がイエスを人間の模範として仰ぐとき、イエスもまた一人の人間であった――ただ普通の人間よりも大霊の意図をはるかに多く体現した人間だった、と考えなければなりません。分かりましたか。」

牧師「はい、分かりました。」

「私は、あなたのためを思って言っているのです。誰の手も届かないような高い所に祭り上げたら、イエスが喜ぶと思うのは間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方が、よほど喜ばれるはずです。自分だけが超然としたくらいにつくようなことは、望んではおられません。人類と共にあることを願っておられるのです。イエスは人間としての生き方の手本を示しているのであり、それは誰にでも実行できることなのです。イエスをそんなに高いところへ祭り上げてしまったなら、誰も付いていくことはできません。それではイエスの地上人生は無駄になってしまいます。」

話題が変わって――

牧師「人間には自由意志があるのでしょうか。」

「はい、あります。自由意志は大霊の摂理です。」

牧師「時として人間は、抑えようのない衝動によって行動することがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志で行っているのでしょうか。」

「あなたはどう思われますか。」

牧師「私は、人間はあくまでも自由意志を持った行為者だと考えます。」

「すべての人間に自由意志が与えられています。ただしそれは、大霊が定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。摂理は大霊の愛から造られたものであり、子供たちのすべてを平等に支配しています。それを変えることは誰にもできません。あなた方は、摂理の範囲内において自由であるということです。」

牧師「もし私たちが自由であるなら、罪は恐ろしいものです。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強いられる場合よりも恐ろしいことに思えます。」

「私に言えることは、いかなる過ちも必ず正さなくてはならないということです。もし地上で正さなかったなら、こちらへ来てから正さなくてはなりません。」

牧師「道に外れたことをしがちな傾向を、先天的に強く持った人がいるとは思われませんか。善を行いやすい人間と、そうでない人間とがいます。」

「それは、とても難しい質問です。なぜなら、それぞれの人間に自由意志があるからです。あなた方は悪いことをするとき、内心ではそのことに気づいているものです。自分の良心を無視するか否かは、それまでに培ってきた人間性によります。罪は、それがもたらす害悪の程度に応じて重くも軽くもなります。」

これを聞いて牧師がすかさず反論した。

牧師「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります。」

「罪は罪です。身体で犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、すべてが罪です。あなたは先ほど、人間は衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこからくると思いますか。」

牧師「思念からです。」

「思念はどこからきますか。」

少し躊躇ちゅうちょしてから、「善なる思念は神からきます」と牧師が答えた。

「では、悪なる思念はどこからきますか。」

牧師「分かりません。」

訳注――キリスト教では交霊会に出現する霊は皆、悪魔の手先であると決めつけているので、本来ならこの牧師も「悪魔からきます」と答えるところであるが、二度の体験ですでにそうでないことに気づいているので「分かりません」という返答になった。シルバーバーチは、キリスト教の最大の欠陥である善神と悪神の二元論の矛盾を厳しい語調で突いている。

「大霊は、すべてのものに宿っています。間違ったことにも正しいことにも宿っています。太陽の光にも嵐にも、美しいものにも醜いものにも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも宿っているのです。美しいものや善なるものだけでなく、罪や悪にも宿っているのです。

あなたは、大霊は限定できるようなものではないことをご存じでしょうか。全宇宙が大霊の創造物であり、あらゆる所にその霊が行きわたっているのです。どのようなものであれ、その一部を切り取って“これは大霊のものではない”と言うことはできません。太陽の光は神の恵みであって、作物を台なしにする雨は悪魔の仕業とは言えないのです。神は、すべてのものに宿っています。

あなた方は、思念を受け取ったり送ったりする道具のようなものです。しかし、どのような思念を受け取るかは、あなたの人間性と霊性によります。もしあなたが、あなたの言う“完全な人生”を歩んでいるなら、あなたは完全な思念だけを受け取ることになるでしょう。しかし、あなたも人間である以上、魂と精神の能力に応じてさまざまな思念を受け取っています。私の言っていることがお分かりですか。」

牧師「おっしゃる通りだと思います。では、悪事を行い善行を怠ってきた人間が、死に際になって自分の非を悟り、“信ぜよ、さらば救われん”の一句を受け入れ、キリストを信じると公言して安らぎを得ようとするのをどう思われますか。キリスト教の“回心の教義”をどう思われますか。」

シルバーバーチは即座に答えた。

「あなたもよくご存じの一節を、聖書の中から引用しましょう。“たとえ全世界をもうけても、自分の命を損したら何の得になろうか”“まず神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう”――これは、あなた方がよくご存じの言葉ですが、果たしてその意味を理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、その言葉通りになること、それが神の摂理であることを理解していらっしゃいますか。“神はあなどられるような方ではない。人は自分の蒔いたものを刈り取ることになる”――これもよくご存じでしょう。

神の摂理は絶対にごまかせません。生涯、自分を人のために役立てるチャンスを無視してきた人間が、死に際の回心でたちまち立派な霊になれると思いますか。霊体にまで染み込んでいる悪行(罪)のすべてを、一瞬にしてかき消すことができると思いますか。大霊の目から見たとき、人生を大霊と人々のために送ってきた人間と、霊的義務を怠ってきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”の一言ですべての過ちがゆるされるとしたら、神の摂理は公正と言えるでしょうか。いかがですか。」

牧師「私は、神はキリストを心の避難所にしたのだと思います。イエスは言いました……

ここでシルバーバーチがさえぎって言った。

「私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。聖書の言葉を引用しないで、率直に答えてください。イエスが何と言ったか、私には分かっています。あなた自身はどう思っているのですか。」

牧師「公正ではないと思います。しかし、そこに神の偉大なる愛があると思うのです。」

「この通りを行くと、人間の法律を管理している建物があります。もしその法律によって、生涯を善行に励んできた人間と罪を犯し続けてきた人間とが平等に扱われたなら、あなたはその法律を公正だと思いますか。」

牧師「私は、生涯まっすぐな道を歩み、すべての人を愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じ続けた人のことなど言ってはいません。私は……

ここでシルバーバーチが再び遮って言った。

「“自分が蒔いた種は、自分で刈り取る”――あなた方は、この摂理から逃れることはできません。神の摂理をごまかすことはできないのです。」

牧師「では、悪行のかぎりを尽くした人間が今まさに死にかけているとしたら、罪を償わなければならないことを、その人間にどう説いてやればよいのでしょうか。」

「もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿しているなら、それまでの過ちを正したいという気持ちになるはずです。ですから、その人にこう伝えてください。“自分の犯した過ちの報いから逃れたいという思いがあるなら、あなたは真の人間ではありません。ただの臆病者です”と。」

牧師「しかし、罪を告白するという勇気ある行為は、誰にでもできるというものではないと思いませんか。」

「それは正しい方向への第一歩にすぎません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は自由意志で、善ではなく悪をなす道を選んだのです。悪行が招いた結果から逃れることはできません。間違いは正さなければなりません。告白によって罪を消し去ることができると思うのは、自分に対するごまかしにすぎないのです。蒔いた種は自分で刈り取らなければなりません。それが神の摂理なのです。」

牧師「しかし、イエスは言っておられます――“重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう”と。」

「もしその人が“文字は人を殺し、霊は人を生かす”という言葉を知っていたなら、あなた方(聖職者)が聖書の言葉を引用して、これは文字通りに受け入れなければならないと説くことはできません。聖書の中には、あなた方が今日、実行していないことがいくらでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう。」

牧師「イエスは“善い羊飼いは羊のために命を捨てる”と言いました。私は常に“赦し”の教えを説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの力が自分の人生を支配していることを暗黙のうちに認めるなら、その人生は神に大きな愛を捧げることになると思うのです。」

ここでシルバーバーチは話を本題に戻した。

「神は人間に“理性”という神性の一部を植え付けられました。私はあなた方に、その理性を使ってほしいのです。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白することで心の安らぎは得られるかもしれませんが、“罪を犯した”という事実は変えられません。神の摂理に照らしてそのゆがみを正すまでは、罪はそのまま残っています。それが大霊の摂理なのです。イエスが語ったという言葉をいくらバイブルから引用しても、摂理を変えることは絶対にできません。

前にも言いましたが、バイブルの中にある言葉のすべてがイエスによって語られたものではなく、その多くは後世の人間が書き加えたものです。“イエスがこう語った”と言っても、あなた方がそう思っているだけのことです。私があなた方に知ってほしいのは、イエスをあの偉大な人物へと導いたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じ大霊の力が、今も働いているということです。もしあなた方が、大霊からもたらされるものを受け入れようと心を開くなら、それらを自分のものにすることができるのです。

あなた方は大霊の一部です。大霊の愛と力のすべて、深遠なる叡智と知識と真理のすべてが、あなた方を待っているのです。神を求めて二千年前までさかのぼる必要はありません。神は今、ここにおられるのです。イエスの時代における神と同じ神が、同じ力を持って今、ここに存在しておられるのです。

大霊の真理と霊力の通路となるべき道具(霊媒・霊能者)は、ほとんどいません。あなた方キリスト教徒はなぜ、二千年前のたった一人の人間に頼るのですか。神に仕えるあなた方はなぜ、イエスと同じインスピレーションを受けることができないのでしょうか。なぜ、イエスの言葉に戻ろうとされるのですか。」

牧師「私は、私の中にいるキリストの御業みわざについて説いています。インスピレーションを得ることは可能だと信じています。」

「あなた方はなぜ、全知全能の神を、イエスという一人の人間と一冊の書物に閉じ込めようとするのですか。大霊のすべてを、一人の人間、あるいは一冊の書物で表現できると考えているのですか。私はクリスチャンではありません。私は、イエスよりもはるか昔に地上に生を享けた者です。その私は、神の平安に包まれるという恩恵に浴することは許されなかったということでしょうか。

あなたは、神のすべてを一冊の書物のわずかなページで表現できると思いますか。その一冊の書物が完成したときを最後に、神は子供たちにインスピレーションを授けることをやめたと考えるのですか。バイブルの最後のページをめくったとき、神の霊力が終わったとでも言うのでしょうか。」

牧師「そうであって欲しくないと思っています。私は時おり、何かに鼓舞されるのを感じることがあります。」

「あなたもいつか、天におられる父のもとに帰り、今地上で磨きつつあるあなたに相応しい場所に住むことになります。神に仕えるあなたに分かっていただきたいのは、被造物のすべてに宿る神を、制約することはできないということです。悪徳のかたまりのような犯罪者であっても、地上で聖人と仰がれる人間と同じように神と結ばれているのです。

あなた方一人ひとりに大霊が宿っています。もしあなたが、内在する大霊を顕現させようとして心を開くなら、大霊はあなたを通じて霊力と啓示をもたらすことでしょう。それによってあなたのもとを訪れる人々の心に、大霊の光と安らぎが与えられることになるでしょう。」

牧師「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか。」

「誰がそんなことを言ったのでしょう。あなたは、ユダヤ民族のカレンダーについて聞いたことはないでしょうか。多くの国ではいまだに、その国の宗教の発生とともにできたカレンダーを使用しています。

私はイエスを軽んじるつもりはありません。今、イエスがなさっている仕事について知っていますし、ご自身は神として崇められることを望んでおられないことも知っています。イエスの人生の価値は、人間が模範とすべきその生き方にあります。イエスという一人の人間を崇拝することをやめないかぎり、キリスト教は神のインスピレーションに恵まれることはないでしょう。」

牧師「いつ、キリストの誕生日を西洋暦の始まりと決めたのか分からないのです。ご存じでしょうか。」

「そんなことよりも、私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランド)北部の町へ行き、大勢の神の子供たちとともに過ごしました。高い身分の人たちではありません。とても厳しい肉体労働で生計を立てている人たちです。彼らは炭鉱労働者で、仕事が終わるとわずかばかりの賃金をもらいます。彼らは、キリスト教文明の恥辱ちじょくともいうべき貧民収容施設に住んでいます。

同じ町には、あなた方が“神の館”と呼んでいる大聖堂があります。それは高くそびえていますから、太陽が照ると貧しい人々が住む家はその影に入ってしまいます。大聖堂がなかったときよりも、ずっと暗くなってしまいます。これでよいと思われますか。」

牧師「私はそのダーラムにいたことがあります。」

「知っています。だからこそ、この話をしているのです。」

牧師「あのような施設で暮らさなければならない人たちのことを、とても気の毒に思っています。」

「そうした状況を、イエスが喜ばれると思いますか。あのような施設に住み、辛い労働を強いられ、わずかな賃金しか得られない人々がいる一方で、お金にまったく不自由しない人々がいるのです。それなのにイエスは、カレンダーのことなどに関わっていられると思いますか。あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、どうでもいいカレンダーのことや大聖堂のための資金やバイブルのことに関わっていられるとでも思われますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と呼ばれているこの国に、そんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、あなた方クリスチャンはいったいどのように考えているのでしょうか。

先ほど教典のことで(改訳版と欽定訳版のどちらがよいかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりも、もっと重要な務めがあるはずです。神はその恩寵おんちょうを、すべての子らに分け与えたいと望んでおられることが分かりませんか。世界には飢えに苦しむ人がいる一方、彼らが生きていくために必要なものを捨てている人たちもいます。クリスチャンがこうしたことをしているのに、あなたはキリスト教を語ることができますか。

私は、あなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私はイエスが涙を流しておられるのを見たことがあります。多くのクリスチャンや聖職者たちが、教会の陰で進行している恥ずべき事態に目をつぶっているのをご覧になるからです。その日の糧にすら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館として建てた教会を宝石やステンドグラスで飾り、自慢しているのを見て、あなたはどうして満足することができるのでしょう。

一日の糧も十分に得られない人々のほとんどは、わずかな賃金を手にするために一日中働き続け、時には夜を徹して働いています。それなのに、疲れた身体を横たえるまともな場所もないのです。

あなたを非難しているのではありません。私はあなたを大きな愛で包んでいます。お役に立つなら、どんなことでもしてあげたいと思っています。私は霊界の人間です。あなたのように、間違いを改め、正しいことのために立ち上ってくれる人と語り合うチャンスは非常に少ないのです。

あなたに理解していただきたいのは、バイブルの言葉を云々するよりも、もっと大切なことがあるということです。“主よ、主よ”と叫ぶ者が敬虔けいけんなのではなく、神の意思を実践する者こそが敬虔なのです。それをイエスは二千年前に教えています。それなのにあなた方はなぜ、神の意思を実践することがいちばん大切であることを、人々に説けないのでしょうか。大切なのは何を信じるかではなく、何を為すかです。

戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業――こうしたことを黙認しているかぎり、キリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

あなたは(メソジスト派の)総会から抜け出てこられました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同で行事を進めてきましたが、神の摂理に反している汚点を拭うために協力しないかぎり、そんなことをしても無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解されては困るからです。」

牧師「数年前に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その収益金を失業者のために役立てました。大したことはできませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか。」

「私は、あなたが心がけの立派な方であることを認めています。そうでなかったら、こうしてあなたと再び語り合うために、地上へ戻ってくるようなことはいたしません。私は、あなたが奉仕(サービス)のための良き道具になれることを見抜いています。あなたの教会を訪れる人の数は、ほんのわずかです。イエスは社会の隅々まで足を運べと言わなかったでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなたの方から出向くようでなくてはいけません。

あなたはご自分の教会を光明の中心とし、魂だけでなく、飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡智の言葉だけでなく、パンと日常の必需品を与えてあげなさい。魂と肉体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための肉体も救ってあげるのです。教会が力を合わせてそのための努力をしないかぎり、肉体の糧を得られない人々は死んでしまいます。」

そう述べてから、シルバーバーチは青年牧師のために祈りを捧げた。

「あなたがどこにいても、何をしていても、大霊の力と愛が支えとなりますように……。人々への奉仕を願うあなたの心が、常に大霊からのインスピレーションを受けられるように祈ります。

願わくば、大霊があなたにさらなる奉仕のための力を吹き込み、それによって光と安らぎと幸せに満ちた場を築き、訪れる人々がそこにこそ大霊が働いていることを理解するようになることを祈ります。

大霊があなたを祝福し、あなたを支え、常に大霊の道に尽力することができますように。大霊の目的と力と計画についての理解を深めるために、いっそう学びを得られるように祈ります。

あなたに大霊の祝福のあらんことを……

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