10章 霊的進化の道を歩む神の子供たち

〔キリスト教の神学者たちは「原罪(人間の堕落)」を説く。しかしシルバーバーチはそれを否定し、人類は誕生以来、ずっと進化の道をたどっており、その歩みに終着点はないと明言する。(原罪とは、最初の人類であるアダムとイブが神の掟を破ったところから発生し、人間は皆、その子孫として生まれながらに罪を負うようになったとする説――訳注

種子が暗い土の中に埋められるのは、養分を摂取して発芽後の成長に備えるためです。それと同じく、人間の生命の種子が物質界という暗黒の世界に生まれてくるのは、霊界へ戻ってからの進化に備えて地上生活での体験を積むためです。

地上人生のあらゆる体験は、大きな計画の中の一つです。落胆・挫折・悲しみ・痛み……これらは人間的心情からすればあって欲しくないものかもしれませんが、魂の進化にとっては、とても貴重な体験なのです。

しかしあなた方は、その体験の最中さなかにあってはそうは思えないでしょう。人生体験の価値を明確に認識できるようになるのは、こちらへ来て地上人生の一部ではなく、全体を振り返ることができるようになったときです。さまざまな逆境を通して人間性が試され、悲哀を通して魂が強化されたことを知るようになるのです。

私たちは地上人生を、地上的視点ではなく霊的視点から眺めます。賢明な人間とは、すべての体験を魂の養分として摂取しようとする人のことです。辛いことや煩悩ぼんのうの誘惑に流されず、心の奥深くにある霊的な力を活用して困難に立ち向かおうとする人のことです。そうした精神で臨んでこそ、人間性が磨かれ強化されるのです。

摂理は完璧であり、自動的に働きます。誰ひとり摂理から逃れることはできません。自由意志そのものでさえ摂理の一つであり、その摂理の働きは一定の進化の段階に至っている者には明瞭に見て取ることができます。

自由意志を行使できるといっても、あくまでもあなた方が到達した進化の段階の範囲内でのことです。何でも思うようにできるというものではなく、各自が到達した進化のレベルによって制約を受けるのです。

あなた方は大霊の一部であり、発現すべき無限の神性を秘めています。その神性が発現した分だけ、より高い次元の摂理との関わり合いが生じます。その摂理は、それまでの低次元の摂理と矛盾するものではありません。霊性が進化したために関わり合うことになった摂理です。

無限とは、文字どおり“限りがない”ということです。美の完全性にも音楽の壮麗さにも限りというものはありません。霊性が進化するにつれて、より高度な美と調和の世界を自分のものにすることができるようになります。魂が向上するにともない、もっと素晴らしい調和の世界が待ち受けているのです。

低い次元にいる者が高い次元の世界を理解することはできません。が、高い次元にいる者は低い次元の世界を理解することができます。宇宙の全側面をつかさどっている摂理は自動的に働きますが、それぞれの次元で作動している摂理との関わりは、その次元まで霊性を高めないかぎり生じません。

あなた方はこれまでの霊的成長によって、今後の成長の道を選択することになります。しかしあなた方は、霊的成長を遅らせるような選択をすることもできるのです。その時点における方向性は、さまざまな摂理の相互作用によって自動的に決定します。あなた方の意識は進化のレベルに応じて変化し、それによって選択がなされます。魂が目覚めていれば進化を促す方向を選ぼうとしますが、肉体の脳を通して顕現している意識(顕在意識)は、それに歩調を合わせることができません。

あなた方は、霊性の進化を通して自然の法則(摂理)を学んでいきます。何よりもまず、事実に反するもの、理性が反発するもの、大霊の愛と叡智に一致しないものを、すべて捨て去ることを学ばなければなりません。新たな知識を取り入れるに先立って、それまでの間違った知識を捨て去らなければなりません。正しい思考を妨げるものを、すべて取り除かなければなりません。そうしてようやく魂が成長し、より高次の知識を取り入れる用意ができることになるのです。

このサークル(交霊会)に出席している皆さんは、魂が成長し、大霊の無限の叡智に接する機会が多くなっています。霊的現象を演出するための法則や、日常生活に関連する法則についても学んでいます。あなた方は進歩するにつれて、より多くの知識を手にすることができるようになるのです。

皆さんからシルバーバーチと呼ばれているこの私がお届けしている知識は、無限の界層に存在する知識のうちのごく一部にすぎません。皆さんがさらに成長すれば、私よりも一段と高い指導霊が、私を使ってより高度な知識と叡智をお届けすることになるでしょう。

霊的進化には、これで終わりという段階は存在しません。また、完全というものも存在しません。あなた方も、そしてこの私も、刻一刻と進化向上しています。そして私よりも進化している霊から聞いたところによれば、彼らの背後にはさらに高級な霊たちが控えているとのことです。とにかく霊的進化には終着点というものはありません。もしあるとしたら、大霊による創造の営みはそこで停止してしまうことになります。

何百万年もの間、人間の肉体は進化してきました。それにともなって人間の魂も、大地から空に向かって上昇するように、ゆっくりと少しずつ低い段階からより高い段階へと進化してきました。獣性が徐々に拭われ、神性が現れるようになってきました。

人間の肉体が現在の進化のレベルに至るまでには、何百万年もの永い時がかかりました。そしてその進化は、まだ終わったわけではありません。今後もそうした肉体の進化とともにあなた方の魂は、永い永い時をかけてどこまでも進化していくことになります。

それほど遠くない昔、人間はサルでした。実際にサルであったということではなく、サルに似た肉体を通して働いていた「霊」であったという意味です。その霊は、大霊の分霊にほかなりません。生命のあるところならどこでも、大霊の息吹が存在します。大霊の息吹がなければ、生命は存在しません。大霊の息吹にはランク(段階)があり、その息吹によって人間は進歩し、低い段階から高い段階へと進化することになったのです。

生命を持っているもののすべてに大霊の息吹があればこそ、物質界の最下等の生命体から聖人君子に至るまで、大霊につながっていると言えるのです。いかなる極悪人も、限りなく美しい心の持ち主も、内部に大霊の息吹を宿しているという意味で兄弟姉妹なのです。摂理から逃れられる者は一人もいません。全人類がお互いに責任を持っているということです。

質疑応答

――本人には何の罪もないのに、身体的欠陥や盲目といった障害を持って生まれてくる子供がいるのはなぜでしょうか。

肉体という外形だけで魂を判断してはいけません。魂の進化と、魂が地上生活で使用する身体の進化とを混同してはいけません。父親または母親、あるいは双方から受け継いだ遣伝的法則の結果として障害を持って生まれてくる子供がいるのは事実ですが、それが魂の進化を阻害することはありません。

肉体に障害を持って地上に生まれてくる子供には、その魂に埋め合わせの摂理が働いています。そうした子供たちは、優しさや忍耐力や他人への思いやりを持っています。永遠の埋め合わせの摂理があり、それによって誰もが公平に扱われているのです。

次代の子孫に物的身体を提供する責任を担っている両親は、可能なかぎり完全な身体を提供すべきです。もし親がその責任を怠るなら、大霊の摂理が肉体の不完全さを補うことはできません。

――精神障害者として自らの行為に責任を持てない人は、死後どうなるのでしょうか。私たちは地上生活で形成された人間性によって裁かれると聞いておりますが……

あなたは、物的なことと霊的なことを混同しています。地上では、脳に障害があると混乱が生じます。宿っている霊は脳に欠陥があることで自我を正常に表現できなくなりますが、自分自身の責任は自覚しています。

大霊の摂理は、あくまでも魂の進化を大前提として機能します。魂は、地上的な尺度ではなく永遠の叡智を尺度として評価されます。したがって地上的な善悪の基準では“悪”とされる行為であっても、魂そのものに責任がなければ、霊的には“悪”とは見なされません。

例えば、発狂状態で他人または自分自身の生命を奪った場合などです。それは知的判断力をつかさどる器官が正常に機能しなかった結果ですから、その霊が責任を問われることはありません。私の世界(霊界)では魂の動機を最優先して判断します。動機を基準とするかぎり、判断を誤ることはありません。

――肉体器官の欠陥によって地上生活で教訓を学べなかった霊は、霊界でどうなりますか。

肉体器官の欠陥のために霊が必要な地上体験を学ぶことができなかった、つまり地上人生の価値が失われたということです。しかし、埋め合わせの摂理は常に働いています。

――私たちは、地上生活でのさまざまな試練をくぐり抜けながら形成した人間性を携えて霊界へ行くわけですが、精神障害者の場合も同じように、地上で形成された人間性によって裁かれるのでしょうか。

魂の進化の程度と動機だけを基準として裁かれます。

――飲んだくれや精神異常、道徳的腐敗や心身の堕落が蔓延するスラムの中に生を享けて、過酷な人生を歩まされる子供がいる一方で、美しいものに囲まれた環境に生を享けて、何の不自由もない人生を送る子供もいます。この不公平はどう理解したらよいのでしょうか。

魂の進化は、魂そのものに刻み込まれていきます。ところが地上の人間はとかく、霊的なものではなく物的なもので判断しがちです。高い身分に生まれようと低い身分に生まれようと、人のために役立つことをするチャンスは必ず与えられます。魂が内部の神性に目覚め、それを発揮するチャンスはすべての人に訪れるのです。それこそが唯一の判断基準です。物的基準で計るかぎり、地上界は不公平だらけに思えるかもしれません。しかし、真の埋め合わせとは魂の次元におけるものであり、魂は自らを顕現させるために、あらゆる苦難を通して学ぶのです。

――でも、なぜ悪人が栄えるのでしょうか。

それもまた、地上的尺度による見方です。どうしてあなた方は、恵まれた生活をしている人の魂は不幸も悩みも苦痛も知らないと思うのでしょうか。いつも笑顔を絶やさないからでしょうか。豪華なものに囲まれているからでしょうか。紫の衣と亜麻糸の布が、そのまま満ち足りた魂を表すのでしょうか。永遠の基準は霊を基準としたものであり、物質を基準としたものではありません。そうでないなら神の公正が存在しないことになります。

訳注――「紫の衣と亜麻糸の布」は聖書のルカ伝十六章のイエスの説話に出てくる語句で、恵まれた環境と高い地位を象徴する言葉としてよく用いられる。

――しかし、飢えに苦しみ、悪徳や低俗なものばかりがはびこる環境よりは、恵まれた環境の方が明らかに善なる動機を発揮しやすいと思うのですが……

私はそうは思いません。その証拠に、私が知るかぎりでは、地上の偉人はほぼ間違いなく低い身分の出身です。偉大な精神的指導者に至っては、まず間違いなく低い階層から出ています。葛藤を余儀なくさせられる困難が多いほど、それだけ魂が成長するものです。霊的自我に目覚めるのは、厳しい環境を克服しようとする闘いの中においてこそです。人生を外面からではなく、内部から見るようにしてください。

――人間の霊は、肉体的生命と同時に進化してきたのでしょうか。

たしかに霊は進化してきましたが、肉体と同じ進化の道をたどってきたのではありません。というのは、霊が肉体を通して自我を表現するためには、ある一定の段階までの肉体機能の進化が必要だったからです。

――死後にも進化向上することができるということは、霊界において邪悪な動機から罪を犯し、より低いレベルの界層に堕ちることもあり得るのでしょうか。

もちろんです。すでに霊の世界に来ていながら、何百年、時には何千年ものあいだ進化することなく、地上時代と同じ煩悩を抱き続けている者が少なくありません。彼らは貪欲で本能的欲望に満ちており、霊的摂理を理解しようとしません。霊的なことに対する感性が芽生えないのです。身は霊界にありながら、意識としては完全に地上で生活しており、しかも下降の一途をたどっています。

――人間の魂はあまりにも下降し過ぎると、最後には消滅してしまうのでしょうか。

いいえ、内在する大霊の炎が今にも消えそうに点滅することはあっても、消滅してしまうことはありません。大霊との霊的な絆は永遠であり、決して切れることはないからです。いくら下降しても、二度と向上できなくなるということはありません。また、いくら向上しても、最も低い界層の魂に救いの手を差し伸べるために下降できなくなるということはありません。

――個的生命は死後、ありとあらゆる界層を通過して個性を失い、最終的に大霊と融合し、その後さまざまな要素に振り分けられるのでしょうか。

私は、完全なる大霊と融合するほど完成の域に到達した霊を知りません。完全性を高めれば高めるほど、さらに高い領域があることを知るようになります。言い換えれば、意識にはどこまでも開発する余地があるということです。あなた方の意識は大霊の一部ですから、無限の奥行きがあります。私たちは究極の完全性というものを知りません。

――複数の個霊が進化して、どこかで一個のグループとして融合し、その中で個性を失うというようなことはないのでしょうか。

私の知るかぎりでは、ありません。ただ、次のようなことは確かにあります。ある重大な仕事が生じ、その達成のために一丸となった霊の集団が各自の知識と情報を持ち寄り、そのうちの一人が全体を代表して行動するというケースです。その仕事の進行中は、残りの者のアイデンティティーは薄れて一つになっています。しかし、それはその仕事の期間中だけのことです。

――ペットは死後も存続するそうですが、他にも存続する動物がいるのでしょうか。

はい、います。私たちが地上にいたとき友人のようにしていた多くの動物たちや、(あなた方がかわいがっていた)犬や猫などのペットは、死後も人間の中に混じって生きています。これらの動物たちは、人間の愛情を受けて一種の個性(パーソナリティー)を発現するようになり、そのパーソナリティーを携えて死後も人間の霊に混じって生きているのです。しかし、長続きはしません。ほんの一時期のことで、やがてそれぞれの「種」の母体であるグループ・スピリットの中に融合していきます。

大霊の子供である人間は、大霊の力を有しているお蔭で、まだ発現していない意識を持った動物に、死後に存続する力を与える能力が備わっていることを知ってください。本来の進化の過程においてその意識が発現する時期を一歩早め、進化を促すことができるのです。それが「愛の力」なのです。

――ペットは別として一般の動物も死後、個別に存続するのでしょうか。

いいえ、個別には存続しません。

――もしペットではない動物が死後、個として存在しないなら、まったく世話をされていない動物や虐待されている動物と大霊との関係はどうなっているのでしょうか。「創造した者」と「創造された者」という関係から見て、そうした動物の生命に大霊の愛ないしは公正がどういう形で現れているのでしょうか。

地上の人間の理解力が及ばないテーマを説明するのは、とても難しいことです。私は、動物が死んだときグループ・スピリットに融合していくことについて説明しました。そこには埋め合わせの摂理が働いています。その埋め合わせの摂理は、神の公正さの中で正しく機能します。とは言っても、それはあくまでも動物の進化の話であって、人間の進化とは次元が異なります。

あなた方は、大切に育てられて(自然に)枯れていく花と、放っておかれて枯れていく花を見て、その違いを説明しようとするかもしれませんが、あなた方にはそれぞれの花の背後にある摂理について理解することはできません。しかし、そこには同じ(埋め合わせの)摂理が働いているのです。

――動物には一匹ごとに埋め合わせの摂理が働いているのでしょうか。

いいえ、種のグループ全体に働いています。埋め合わせの摂理によって、地上で受けた苦痛がグループ・スピリット全体の進化を促します。

――グループ全体として扱われるとなると、そのグループの中に虐待された動物とそうでない動物とがいれば摂理の働きに偏りが生じるはずで、その点が理解できません。

それぞれのグループは似たような体験をした動物で構成されています。

――ということは、虐待されたグループとそうでないグループがあるということでしょうか。

さまざまな部分からグループ全体が構成されています。それはちょうど、あなた方の身体がさまざまな形態の細胞が集まって全体を構成しているのと同じことです。

――下等動物がなぜ存在するのか、またそれが創造されながら自然淘汰されていくという現実は、宇宙が神の愛によって経綸されているという事実と、どう辻褄つじつまを合わせたらよいのでしょうか。

人間には自由意志が与えられています。大霊から授かった力を駆使し、正しいことと間違ったことを判断する叡智を働かせるなら、地上界を“エデンの園”にすることができるのです。それを怠り、地上界をゴミやホコリで汚しておいて、人間が招いた悪い結果をどうして大霊に押しつけることができるのでしょうか。

――創造進化の大業が殺戮さつりくの血に染められてきたという事実のどこに、神の善意と愛のしるしが見いだせるのでしょうか。

なぜそのように小さな一部分を見るだけで、全体を見ようとしないのでしょうか。創造進化があるという事実そのものが、神の愛のしるしと言えるのではないでしょうか。あなたは、そういう考えに思い至ったことはありませんか。低い次元から高い次元へと進化するという事実は、摂理の背後に「愛の力」があるということの証拠ではないでしょうか。

――なぜ神は、地震や火山の噴火などの発生を許すのでしょうか。

そのように「なぜ神は……」という問いを発するとき、あなた方は大自然の法則の働きに疑念を抱いているのだということを忘れないでください。私は、法則というものが存在すること、そしてその法則に関わる私の体験をお教えしようとしているだけです。地震というのは物質界の進化における浄化作用の一つです。物質界はまだ進化の完成段階にまで達していないのです。

――その場合、地震によって亡くなった何の罪もない多くの人々は、地球の進化の犠牲者ということになります。それで公正と言えるでしょうか。

死者になることが悲劇であるかのようなご意見ですが、私はそのようには考えません。私に言わせれば、死は魂が自由を獲得するための素晴らしい時なのです。

――地震で亡くなった人々はすべて、それが他界する時期だったということでしょうか。

はい、そうです。ただ、そうした形で死を迎えたことについては、前世での所業(カルマ)が絡んでいます。

――我々より霊的に進化している、あるいは劣っている人間的存在が住んでいる天体がありますか。

ありますとも! あなた方より進化している人間的存在の住む天体はたくさんあります。地球と呼ばれている惑星は、この大宇宙に存在する無数の惑星の一つにすぎません。しかも、地球より劣っている天体は一つあるだけです。

――よくあることですが、重要だと思う一連の仕事を進めようとすると、しつこく邪魔が入ることがあります。それはなぜでしょうか。

価値のあること、成し遂げるに値することほど大きな困難がともなうものです。それを達成する道は楽ではありません。困難があり、妨害があり、邪魔が入るものです。

そうしたことは人間形成の一環なのです。困難や障害にどう対処するかによって、あなた方の魂の成長が決まります。何の困難もなしに、魂に内在する最高のものを顕現させられるとしたら、それは価値あるものとは言えません。

ですから、とにかくくじけないことです。潜在する力を活用しても克服できないほどの大きな困難や障害は絶対に生じません。他人が故意に与える困難も、内在する力を発揮して立ち向かえば必ず消滅します。あなた方は地上生活において、自分の力のほんの一部しか発揮していないことがお分かりになっていません。

――今なお数えきれないほど多くの新生児が生まれてすぐに、あるいはその後に、間引きの慣習とか、その他もろもろの原因によって死んでいます。そうした子供たちが生まれてくることには、いったいどういう意味があるのでしょうか。

物的なものさしで判断するかぎり、永遠の摂理は理解できないでしょう。地上のいかなる賢者といえども、地上的知識を超えたことは分かりません。霊的叡智の光が見える段階まで進化すれば大霊の計画に納得がいくでしょうが、現段階では地上のいかなる覚者もガラス越しにぼんやりと見ているだけで、まだ理解してはいません。

皆さんがある人の人生を評価するのに、その人の学生時代だけを見て、卒業後のもっと長い人生を無視して判断するようなことはないでしょう。あなた方には、今生きている地上よりもはるかに素晴らしい生活が待ち受けているのです。美と色彩にあふれた世界です。愛の世界、真摯しんしな願いが成就される世界、地上では叶えられなかったことが実現する世界です。そうした世界をご覧になるまでは、大霊を批判するようなことを言ってはなりません。

――あなたが指導を仰いでおられる高級霊たちは、時にはこの交霊会を訪れることがあるのでしょうか。

いいえ、そうしたことはありません。高級霊たちは皆、強い絆で結ばれています。この霊媒(バーバネル)は私とあなた方とをつなぎ、私はあなた方と私よりも高い霊たちとをつないでいます。彼らはこの私と、さらなる高級霊たちとをつないでいるのです。それが霊の世界の深奥しんおうへ向かって、私の目の届かないところまで延々とつながっているのです。

――私たちは、いつかその最高の次元まで到達するようになるのでしょうか。

最高の次元まで到達するということはありません。こうしたことは、あなた方にはまだ理解できません。あなた方は地上では、魂のほんの一部分を顕現させることしかできません。魂の全部を顕現させようとしても、まだその準備ができていないのです。

私は霊界の奥深くへ戻るほど、本来の私をより多く発揮するようになります。それで私は年に二回、クリスマスとイースターに本来の所属界へ帰り、真の自我を取り戻すのです。

訳注――スピリチュアリズムまたはスピリティズムの名のもとに霊的真理の普及に携わっている霊団の連絡網は地球規模で構成されていて、その指導霊たちがクリスマスとイースターに一堂に会し、計画の進捗状況の報告と次の計画の指示を仰ぐ。その最高責任者が地上で「ナザレのイエス」と呼ばれた霊で、モーゼスの『霊訓』のインペレーター霊も同じことを述べている。

あなた方は皆、霊的進化の道を歩んでいる大霊の子供です。あなた方は愛する人との死別を悲しみますが、他界した人たちはこちらの世界で、地上時代よりもいっそう自我を発現するようになっていることを忘れてはいけません。

――それにしても、なぜ早いうちに死んでしまう子供たちがいるのでしょうか。地上で学ぶべきものを学べないように思えるのですが……

早死にする子供たちは、(前世で)何か摂理に反したことをしているのです。それを償うには、そうした厳しい体験を通して大霊の戒めを学ぶしかないのです。

もしもその戒めが簡単に学べるとしたら、人類は自分自身を必死になって救おうとはしなくなるでしょう。そうしたら何世代も経ないうちに、大霊の意思はこの地上に顕現しなくなってしまいます。

苦悶くもんと病苦と悲哀を体験した人間は、他人の苦しみに心を配る、大きな魂へと成長するようになります。やりたい放題の人生を送り、はかないまぼろしを追い求めている魂は、いつかは真実に直面しなければならなくなります。安楽な日々を送っている人を見てうらやましがることはありません。その行く先には過酷な人生が待ち受けているのです。

地上界にあっても霊界にあっても人間は、ありとあらゆる体験を積まなければならないようになっています。いかなる体験にも必ず学ぶべき教訓があります。あらゆる体験を乗り越えて初めて本当の自我を確立し、魂の内奥ないおうの完全性に至ることが許されるようになるのです。

それは確かに難しいことです。難しくないはずがありません。簡単に聖人や殉教者になれるでしょうか。簡単に宗教指導者や社会革命家になれるでしょうか。簡単になれるはずがありません。自己の責任から逃れようとするような人間に、人を導く資格はありません。

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