8章 地上の宗教の間違い

〔これから紹介するシルバーバーチのキリスト教批判に対して多くの人は、いささかこくなのではないかと思われることであろう。が、シルバーバーチをよく知る人なら、よほどの根拠がないかぎり批判は口にしないことをご存じであろう。シルバーバーチは常に理性に訴え、理性が納得できない宗教の教えに鋭い批判を向けている。〕

宗教の教義(信条)による束縛は、地上界の悲劇の一つです。それは重い疫病よりも悪質で、肉体の病気の苦しみよりも、はるかにひどい苦痛をもたらします。なぜならそれは「魂のやまい」を生み出し、霊に目隠しをしてしまうからです。

地上人類は、大霊の無限の叡智が存在するにもかかわらず、いまだに教義にしがみついています。なかには教義に縛られている方が気楽だと考える人もいます。「自由」とは、自由であることのありがたさを知った人のためのものです。ここに集っている皆さんは、教義の牢獄から脱したことを喜んでください。そして喜ぶだけでなく、今なお隷属状態にある人々を解放してあげるために努力してください。

私たちはあなた方に、いかなる教義も儀式も作法も要求しません。ただひたすら、大霊の愛がその子供たちを通して顕現するように努力しているだけなのです。そのためには、いかなる書物にも、いかなるドグマ(教義)にも縛られてはいけません。いかなるリーダーにも、いかなる権威にも、いかなる学識にも、また崇敬の対象とされるいかなる聖遺物にも縛られてはいけません。あなた方はひたすら、大霊の摂理に従うようにしてください。大霊の摂理こそが宇宙で最も偉大なものであり、唯一最高の権威あるものなのです。

教会と呼ばれているものの多くは、中世の暗黒時代の遺物です。大霊は、どのような建物の中にも閉じ込められることはありません。大霊はあらゆる所に存在しています。人間は石を積み重ね、その上に尖塔せんとうをそびえ立たせ、ステンドグラスで窓を飾って大霊を喜ばせようとしてきました。しかし、そんなもので大霊が喜ばれるわけはありません。

大霊は、自らが用意した太陽の光が地上の子供たちの心を明るく照らし、降り注ぐ雨が子供たちのための作物を実らせることを喜ばれます。ところが残念なことに、その大霊の恩寵おんちょうと子供たちとの間に、とかく教会が、政治家が、そして金持ちが介入します。こうしたものを何としても取り除かなければなりませんし、今まさに取り除かれつつあります。

霊力を過去の時代のものとして考えるのはやめにしなければいけません。ナザレのイエスを通して働いた霊力は、今も働いているのです。あの時代のユダヤの聖職者たちは、イエスを通して働いている霊力を悪魔のものであるとして認めませんでしたが、今日の聖職者たちも同じ霊力を同様の理由で拒絶します。しかし、地上界も進歩しました。その霊力を駆使する者を十字架にかけることはしなくなりました。

イエスが放った光輝は、あの時代だけのものではなく、今も輝き続けています。イエスは今、どこにいると思いますか。イエスの人生はエルサレムで終わったと思っているのでしょうか。それともイエスの偉大なる霊は、苦悩と混乱と敵意に満ちた地上世界にいるとお考えでしょうか。

私たち霊界の者からの働きかけを信じず、悪魔のささやきであると決めつけているキリスト教の聖職者たちは、その昔、ナザレのイエスに非難のつぶてを浴びせたユダヤ教の聖職者たちと同じです。私たちは、イエスと同じ大霊の霊力を携えて地上界へ降り、奇跡(心霊現象)を起こし、大霊のメッセージを届けています。それは「喪の悲しみに暮れる人を慰め、病める人を癒し、暗闇に閉ざされた人に光をもたらし、疲れ果てた人には生きる勇気を与え、真理を知らずにいる人には霊的知識を教えよ」とのメッセージです。

私たちもあなた方も、等しく大霊のしもべです。ただ私たちは進化の道程において、あなた方よりも少しだけ先を歩んでいます。そこで私たちは、あなた方に奉仕するために地上世界に戻ってきました。奉仕(サービス)こそ大霊の摂理だからです。奉仕精神のないところには荒廃が生まれます。奉仕精神のあるところには平和と幸せが生まれます。地上世界は「互いに奉仕し合う」という新しい生活形態を築かなければなりません。それは本当は至って簡単なことなのですが、なぜか現実には、とても難しいことになっています。

誠に残念なことですが、“神の使徒”をもって任ずるキリスト教の聖職者たちには、一から学び直してもらわなければならないことがたくさんあります。彼らは不安定な砂の上に自分たちの宗教を築き上げました。その“砂上の楼閣”は、スピリチュアリズムの霊的真理の猛攻撃を受けて崩れかけようとしています。彼らは、それを必死に支えようとしているのです。

そもそも土台が間違っているのです。彼らは、イエスを作り話で塗り固めてきました。そうすることでイエスを神と同じくらいに祭り上げたのですが、その根拠には何の正当性もないため、徐々にそれを撤回せざるをえなくなっています。ところが撤回しようとすると、彼らの心に恐怖が湧いてくるのです。「それを失ってしまったら、あとには何も残らない」との危惧きぐを抱くのです。キリスト教が真実を土台としていたなら、すなわち自然の摂理の上に築き上げられた宗教であったなら、撤回しなければならないものは何ひとつなかったはずなのです。

そこに、私たちが地上界へ舞い戻ってきた理由があるのです。いかなる人物であろうと、一人の人間に服従してはいけません。いかなる書物であろうと、いかなる教会であろうと、それを盲信してはいけません。地上界の人間であれ霊界の存在であれ、どのような指導者にも盲目的に服従してはいけません。絶対的忠誠を捧げるべきは「大霊の摂理(法則)」だけです。それだけが誤ることもなければ裏切ることもないからです。

だからこそ私たちは、大霊の摂理を説いているのです。それを“スピリチュアリズム”と呼ぼうと何と呼ぼうとかまいません。大霊の摂理があらゆる世界――目に見える物質界であろうと目に見えない霊界であろうと、そのすみずみまで支配していることを理解していただけばよいのです。

地上界では指導者たちが重んじられてきました。そして過大評価され、“神学”という厄介なものをつくり出すことになりました。その神学が、科学者や思想家、そして精神だけは自由でありたい、理性が反発するものは受け入れたくないと思っている真っ正直な人々を困惑させることになりました。

そこで私たちは大霊の摂理を強調するのです。摂理に対する正しい理解こそが、すべての知識を調和させるからです。摂理は、科学者や哲学者や自由思想家、その他いかなる分野の人々にも反発を覚えさせることはありません。それは永遠にして不変の大霊の働きを土台としているからです。

あなた方は、私たちが説いている叡智の背後に、高級霊団の存在があることを知ってください。地上人類は叡智と理解力が増すにつれて、大霊の摂理に従って生活を規制していくようになります。摂理に従って生きることの大切さを自覚するようになります。地上界の悲惨さや窮乏きゅうぼう、苦難や悲嘆はすべて、大霊の摂理が守られていないところから引き起こされていることを悟るようになるのです。

そうした理解が行きわたったときには、大霊の庭にはびこっている醜悪な雑草は取り除かれることになります。私たちは、人類の魂を解放し、精神を自由にしてあげるだけでなく、身体的にも大霊の摂理と調和して生きていけるようにしてあげるという目的を持って、大霊の摂理の存在を説いているのです。

私は、真理を説くチャンスがいくらでもあるのに、それをしようとしないキリスト教会を認めることはできません。忠実に仕えなければならないイエスを裏切るようなことばかりしていること、イエスを人間の生き方の模範としてではなく神の座に祭り上げ、物質界の子らの手が届かない存在にしてしまったことに我慢がなりません。

本当なら教会の入り口には「我らが忠誠を捧げるのは真理、ただ真理のみ」とあるべきところを、実際には「我らは信条を説き、教義を旨とし、儀式を重んじ、祭礼を絶対視する」と書かれています。教会は真理に敵対する手段となっているのです。

私は、聖職者として神に仕えたいと真摯しんしに望んでいる人を非難しているのではありません。そういう人が少なからずいることを、私はよく知っています。私が非難しているのは“組織”です。組織が真理への道を閉ざし、古い慣習を温存し、精気みなぎる霊力が顕現するための場所を奪い去っているからです。そんな教会に、どうして霊力が顕現することができるでしょうか。教会は自分たちの説教に対して“立入禁止区域”を設けているのです。

私たちは、大霊と自然法則の存在を説きます。私たちは大霊の法則の働きを示す道具です。イエスもやはり大霊の道具であり、地上の人間にとっての良き手本です。あなた方も大霊から授かった霊力を発揮しさえすれば、イエスと同じ生き方ができるようになるのです。

信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣――こうしたものがいったい宗教と何の関係があると言うのでしょうか。宗教は霊と一体関係にあります。霊はすべての創造物に宿り、生命のあらゆるリズムと生命現象の中で自らを現し、大自然のあらゆる側面に顕現し、人類の進歩のために寄与している理想主義者や改革者を鼓舞しています。その霊が一つの教義と何の関わりがあると言うのでしょうか。

「自由」とはどういうものであるかを学ばなければなりません。魂を牢獄に閉じ込めておいてはなりません。自分のまわりに障壁を築いて、新しいインスピレーションを拒絶するようなことをしてはなりません。真理探求の道は無限に続きます。

知識にも真理にも、叡智にも成長にも、これで終わりという限界がないことを悟ったとき、あなたは自由になるのです。心の中で間違っていると感じていること、理性が得心していないことを潔く捨て去ったとき、その時こそあなたは自由になるのです。あなたの知性が反乱の雄叫おたけびを上げたのです。新しい真理の光によって自分の間違いに気づき、ひるむことなくそれを捨て去ったとき、あなたは本当の意味で「自由」を手にすることができるのです。

知識は、それを求める用意の整ったすべての魂に分け与えられるものです。が、そのためには大いなる冒険の旅に出る覚悟が要求されます。未知の領域を探求する準備、障害と危険に対する準備も必要です。誰も足を踏み入れたことがない土地を歩まなければならないかもしれません。しかし、真理の指し示すところならどこへでも突き進み、間違いと分かったものは、いかに長いあいだ“金科玉条”とされてきたものであっても捨て去る勇気がなくてはなりません。

地上人類は古い神話や伝説を、ただ古くからあるものというだけの理由で大切にし過ぎています。真理と時間ときとは必ずしも手を携えて進むものではありません。幼少時代に教え込まれ大切にしてきた信仰を捨て去るのが容易でないことは、私もよく承知しています。しかし、魂が真に自由になるためには、理性が納得しないものは潔く捨て去ることができるようでなくてはなりません。

(教義や儀式などの形骸にとらわれて)霊の力を活用しなかったために、地上は何とみすぼらしい世界になってしまったことでしょう。迷信や無知の壁を取り壊そうとする努力を、私たちはこれから先、いつまで続けなければならないのでしょうか。

とは言え、あなた方が想像するほど長くはかからないでしょう。まわりを見回してご覧なさい。崩壊の兆しが至るところに見られます。堅牢を誇っていたとりでが、今まさに崩れ落ちつつあります。そのうち真理を求めるあなた方の叫び声が高まり、その壁を完全に突き崩してしまうことでしょう。

質疑応答

――キリスト教でもそうですが、古い時代の偉大な宗教家の人生や死が、自然現象や天体や季節などに関連する神話上の神々と似ているのはなぜでしょうか。

それは地上の人間が、自分たちのリーダーを超自然的な能力を持った存在とするために、太古の神話や伝説を借用したからです。自然法則の働きについて知らなかったのです。彼らは、自分たちが最も偉大だと信じた人物を人々の手の届かない位地に祭り上げようとして、神話や伝説を利用したのです。

――そうした人物の人生には、自然法則を連想させるような多くの出来事が記録されています。例えば、冬のあとに春がめぐってくるように、死のあとに復活が起きたことが記録されています。これは偶然でしょうか。

あなたがおっしゃるのが、ナザレのイエスが処刑されたとき雷鳴がとどろき稲妻が走ったという聖書の中の話でしたら、それは事実ではありません。ですが、死んだ人間が地上に戻ってきたという話であれば、それは事実です。歴史的な使命を担った大霊の使者が死後、再び地上に戻ってくることはあります。

――聖霊に対する罪というのは何でしょうか。

聖霊の存在を否定することです。

――聖霊とはそもそも何なのでしょうか。

物質界へ注がれる“霊力”のことです。キリスト教では漠然と聖霊を崇拝していますが、それが人類の誰にでも与えられるものであることは否定します。こうして皆さんと語り合うことを可能にしているのも霊力が働いているからです。その大霊の力が、ほんのわずかな時間ではあっても、霊界と地上界とが一つの目的のために一体となることを可能にしてくれているのです。

――聞くところによると、洗礼を受けることによって死後、その宗派の霊の一団が迎えてくれ、新しい環境を整えてくれるということです。もしそうだとすると、洗礼を受けていない者はどうなるのでしょうか。

この大宇宙を動かし、物的身体に生命の息吹を吹き込んだのは大霊です。すべての世界と宇宙を支配する全法則を創造し、ありとあらゆる次元の生命として顕現しているのも大霊です。太古から予言者や霊能者を通して顕現し、すべてのものの内部と背後に存在するのが大霊なのです。その大霊が、一人の人間に水滴が垂らされているか否かでお困りになるようなことはありません。

大切なことは、自分自身の最高の理想に従って地上生活を送ったかどうかです。赤子に二、三滴の水を垂らしたからといって、それで摂理が変えられるわけではありません。摂理は絶対に変えられません。原因には必ずそれ相当の結果がともなうのです。

――キリスト教は多くの優れた人物を生み出しているのではないでしょうか。

そうした人物は、クリスチャンであろうとなかろうと立派な人間だったはずです。

――でも、イエスの教えに従おうと心がけることで立派になった人もいるのではないでしょうか。

地上人がナザレのイエスを本当に見習うようになったとき、新たな人類の歴史が始まることになります。現在は、まだそこまでには至っておりません。私にはその兆しが見えないのです。“イエスの僕”と公言しているにもかかわらず、実際にはイエスを裏切るような生活を送っている人たちのことを、私の前で“クリスチャン”と呼ばないでください。イエス自身、「私に向かって、主よ、主よ、と呼びかける者のすべてが天国に召されるわけではない。天にまします父の意思を実践した者だけが召されるのである」と言っているではありませんか。

――教義というものにあまりこだわらず、無欲で立派な人生を送っているクリスチャンも大勢いると思うのですが……

そういう人はクリスチャンとしては立派とは言えないでしょう。言わばダメなクリスチャンですが、人間としては立派です。教義は必ず魂の足かせになるということを忘れないでください。教義を重んじることで立派になれるのではありません。教義を無視しても立派になれるのです。キリスト教では教義の名のもとに、殺し合いと火刑かけいを行ってきました。魂を縛るもの、魂を閉じ込めるもの、魂の自由な顕現を妨げるものは排除しなくてはなりません。

――ハンセン病患者の居住地へ支援のために赴く聖職者たちについて、どう理解したらよいのでしょうか。

彼らは教義に動かされて赴くのではありません。魂が「患者を助けたい」と望んでいるからです。宗教は教義を超えたものです。教義は宗教ではありません。

――イエス・キリストは、教会が言っている通り「神の唯一の御子」なのでしょうか。それとも我々と同じ人間であって、ただ並外れた霊的能力を持っていたということなのでしょうか。

ナザレのイエスは、大霊から託された使命を達成するために物質界へ降誕した大霊の使者の一人でした。イエスは地上でなすべき使命は果たしましたが、それで使命のすべてが終わったわけではなく、今なお霊の世界から働きかけています。そのイエスを崇拝の対象とするのは間違いです。崇拝の念は大霊に捧げるべきであって、大霊の使者に捧げるべきではありません。

イエスは、大霊が定めた“自然法則”――すべての人間がこの地上界へ誕生するに際して支配を受ける法則に従って誕生しています。いかなる人間も、大霊の自然法則の関与なしに地上界へ生まれ、そこで生活し、霊界へと旅立つことはできません。

――そのことを立証する言葉が聖書の中にあるでしょうか。

私が訴えるのは大霊の摂理だけです。いまだに聖書の一言一句にこだわる人間は、大霊が今なお活動し、霊の息吹を注ぎ、自らを顕現させていることを理解するようになるまで放っておくしかありません。

大霊の摂理は今も働いており、ふさわしい道具が用意されたなら、霊力はいつでも流入することができるのです。あなた方が“バイブル”と呼ぶ書物は立派なものかもしれませんが、もっと素晴らしい“バイブル”があるのです。それが大霊の法則によって維持されている“宇宙”なのです。あなた方は、そこから地上界のいかなる書物よりも多くのことを学ぶことができます。地上でどれほど偉大なものとされ、尊重され、あがめられている書物(聖書)であっても、宇宙とは比べものになりません。

――イエスは今どこにいるのでしょうか。また何をしているのでしょうか。

“ナザレのイエス”と呼ばれた人物を通して顕現した霊は、二千年前に開始した使命を成就すべく今なお地上界へ働きかけています。その間、数え切れないほど十字架にかけられ、今も毎日のように十字架にかけられています(本当の教えが踏みにじられているということ――訳注。しかし、地上でイエスと呼ばれた霊も大霊の一部ですから、大霊のために地上界へ平和と幸せをもたらすことができる道具さえあれば、どこであってもその影響力を拡大し続けます。

――あなたが“ナザレのイエス”とおっしゃるとき、それはあのイエスと呼ばれた人物のことですか、それとも彼を通して働いている霊力のことですか。

イエスと呼ばれた人物のことです。ただしその後、イエスは進化し、彼を通して現れる霊的意識は、地上時代とは比較にならないほど次元が高くなっています。当時、地上で現れていた意識は、必然的に時代的な制約を受けざるをえませんでした。とは言え人類史上、イエスほどその霊を顕現させた人物はいません。彼ほど大霊の摂理をはっきりと体現してみせた人物はいないのです。

――この二千年の間にですか。

はい、後にも先にもいません。大霊の顕現としては地上界が受けた最大級のものです。しかし、私たちは、地上に降誕したナザレのイエスという人物を崇拝するようなことはしません。私たちは、イエスを通して働いた霊力に賛辞を捧げます。私たちは、イエスは霊力の道具としてのみ尊敬されるべきであると考えているのです。

――霊界では、さらなる啓示をもたらすためにイエスのような指導者を地上へ派遣する計画があるのでしょうか。

時代が異なれば、その必要性に応じて別の手段を講じることになります。忘れてはならないのは、現代の地上界は(イエスの時代に比べて)はるかに複雑化しており、いろいろな面で相互の結びつきが強くなっているために、さらに多くの交信チャンネルを開かなければならなくなっているということです。人々のさまざまな性格や習慣、思想、行動様式、生き方の違いを考慮しなくてはなりません。(別のところでシルバーバーチは、もうイエスのような霊的巨人が出現することはないし、その必要もないと述べている――訳注

霊界からのメッセージは、それぞれの国の環境や特性、民族的習慣に適応するものでなければなりません。多様な民族の言語による制約も受けます。しかしその背後には、イエスの時代と同じ霊力の働きがあるのです。

キリスト教では、“死者”から蘇り、“死後”に姿を現し、“死の彼方かなた”まで生命が続くことを証明してみせたイエスを崇拝の対象としてきました。イエスは死後に姿を現したのが自分であることを証明するために、十字架にかけられたときの傷跡まで見せています。その後も、弟子たちの前に姿を現しています。

イエスの復活は証明できないにもかかわらず、キリスト教会はそのすべてを事実として信じています。(イエスが神の御子であるからこそ)奇跡が起きたのだと言います。私たちは、死後にも生命が続くことを証明するために、イエスに働いたのと同じ摂理を通して地上界へ戻ってまいりました。大霊は永遠に存在し、その摂理は不変であることを示すために戻ってきたのです。イエスの復活は今、私たちに働きかけているのと同じ摂理の働きによるものであり、その摂理を通してすべての人間が蘇ることになるのです。

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