9章 キリスト教の人工的教義の間違い

〔英国国教会内部にも教義の解釈についての意見の衝突がある。そこで二十五人の神学者が十五年の歳月を費やして、国教会としての統一見解をまとめる作業を続け、一九三八年一月にようやく「英国国教会の教義」と題する大部の報告書を発行した。その中のいくつかの項目が読み上げられるのを聞いてから、シルバーバーチがその一つひとつにコメントを加えた。〕(太文字が引用文)


■「イエス・キリストの復活」は、人類史上におけるきわめて特殊な神の御業みわざである。

そんな結論に達するのに十五年もかかったのですか。ナザレのイエスを裏切っているのは自ら“クリスチャン”を名乗っている人たちであるとは、まさにその通りです。

「復活」は生命の法則の一環です。肉体の死とともに、すべての魂は復活するのです。復活はイエス一人だけのものではなく、大霊の子のすべてに生じるものです。いずれすべての人間が死の関門を通過し、物的身体を捨て去り、霊的身体で新しい生活を始めるようになります。地上人は、すべての時を霊界での生活に備えて過ごしているのです。

イエスは自然法則に反するようなことは一度もしていません。そもそもイエスが地上界へ降りてきたのは、大霊の摂理を実行するためでした。イエスのすべての行為、すべての教えは、大霊の摂理の一部でした。イエス自身こう述べているではありませんか――「こうしたことのすべては、あなた方にもできるし、あなた方はもっと大きなこともできるようになる」と。

イエスを、大霊の子供たちが近づけない天界のはるか高い位置に持ち上げるなら、せっかく彼が地上へ降誕した使命は台なしになってしまいます。なぜならイエスの地上人生の究極の目的は、「地上の人間も内在する大霊を人生の中で顕現させるなら、これほどのことが可能なのだ」ということを証明するところにあったからです。

そしてイエスは霊界へ戻った後、再び同じ姿を取って地上で縁のあった人々の前に現れました。これをキリスト教では「復活」と呼んでいます。イエス以前にも死者が生前の姿で現れた例はたくさんありますし、イエス以後にも数えきれないほどあります。

この宇宙に“特別”というものは存在しません。すべてが大霊の摂理(法則)によって統制されており、常に何かが起きているという事実そのものが、法則が実在することを証明しているのです。


■洗礼は、幼児洗礼であっても、罪を犯させようとする影響力の支配から逃れる手段である。聖人とされる人物でも、もし洗礼を受けていなければ、その意味で欠陥があることになる。

いかなる聖職者(司祭)も魔法の力は持ち合わせていません。水を水以外のものに変える力はありません。赤子の額に水を二、三滴振りかけたからといって、それでその子の人生――地上だけでなく死後も含めて――に何も変化が生じるわけではありません。振りかける前も振りかけた後も、ただの水です。司祭にはその成分を変える力はありませんし、法則と違った結果を生み出す力もありません。

魂は洗礼によって何の影響も受けません。あなたの魂を進化させる力を持った人間はいません。魂の進化は、地上での生活を通して、あなた方自身が達成していくものなのです。自分の行為が生み出す結果を、他人が取り除くことはできません。自分で償い、自分で報いを受けることによって成就していくものなのです。

“聖人”と洗礼とは何の関係もありません。日常生活の中で、可能なかぎり完全に近い行いをすることによって大霊を顕現させ、少しでも多く神性を発揮しようとする人が“聖人”なのです。


■当委員会は、神がその気になれば奇跡を生じさせることができるという点では一致をみたが、果たして奇跡的現象というものが起きるものであるか否かについては意見が分かれた。

さらに十五年も討議すれば、委員会は結論を出せたのでしょうか。何という情けない話でしょう! (聖書にある)盲人が盲人を手引きしているとは、まさにこのことです。その程度の者たちが人類を導いているのです。そして奇跡的な現象が起きるか否かは分からないと、まるで他人事ひとごとのように言っています。(原因がないという意味での)奇跡は存在しません。これまで一度も起きておりませんし、これからも絶対に発生しません。

大霊はあくまでも大霊です。大霊の法則の働きは完璧です。それは大霊の完全無欠性によって生み出されたものだからです。その法則が万一機能しなくなったとしたら、宇宙は大混乱をきたします。大霊が予測しなかった事態が生じて創造機構の手直しをしなければならなくなるとしたら、大霊は完全無欠ではなくなります。

(キリスト教で言うように)もしも選ばれた少数の者を寵愛するために奇跡を生じさせるとしたら、大霊は分け隔てをする不公平な神であることになり、全生命の源である無限の存在ではないことになります。委員会のメンバーは、そのお粗末な概念によって、大霊を何とちっぽけな存在におとしめていることでしょう。

彼らは高次元の摂理について無知であり、霊力の存在についても知らず、霊界の上層からもたらされる霊力に触れたことがないために、霊媒を通して演出される現象が理解できないのです。

委員会のメンバーは、イエスにまつわる現象(しるしと不思議)が今日の物理法則に矛盾すると思い、“奇跡”というものを考え出さなければならなかったのです。彼らが霊的法則の働きを知れば、大霊は昔も今も未来永劫、不変であることを理解するようになります。地上人生において大霊から授かった霊的資質を発揮するならば、誰もが大霊の力を活用することができるようになるのです。


■もし奇跡が生じるなら、それは秩序の破壊ではなく神の意思の表現であり、それが自然界の新たな秩序を決定づけることになる。それゆえ決して不合理なものでも気まぐれなものでもないのである。

委員会のメンバーは、大霊の法則は無窮むきゅうの過去から存在し、無窮の未来まで存在し続けるということを理解していません。地上人類が新しい法則を発見したといっても、それは性能のよい器機の発明によって、それまで知らなかった宇宙の生命活動の一端を知ったというだけで、人間が新しいものを創造したというわけではありません。もともと存在していたものを見つけ出したにすぎません。

あなた方が何かを創造するということは不可能です。すでに存在している被造物の一部を発見することしかできません。また、大霊の法則に反して何かが発生することもあり得ません。人間がその存在を知ると知らないとに関係なく、大霊の法則のすべては、ずっと存在しているのです。

したがって大霊が新たに法則を考案する必要はありません。宇宙の経綸に必要な法則は残らず用意されており、それは未来にわたっても働き続けます。大霊は完全無欠であるがゆえに、あらゆる状況に適応する法則を準備しておられるのです。


■クリスチャンの立場からすれば、聖書は神の特殊な啓示を記録したもので、唯一無二のものである。

何という精神の暗さでしょう! いったいどこまで盲信の暗闇に閉ざされているのでしょう! 彼らを取り囲む壁は何と厚く、盲信のとりでを守る暫壕ざんごうの何と深いことでしょう!

物質界というものが出現して以来、多くの大霊の使徒が地上界へ降誕して啓示をもたらしてきました。それは当然、その時代の言葉で語られました。啓示の内容はその時代の必要性や、その国の事情に応じたものであり、人々の精神的・霊的な発達程度に合わせたものでした。要するにその啓示の意味が理解されやすい形で――レベルが高すぎて手が届かないことにならないようにとの配慮のもとに――与えられました。

一方、進化のプロセスはどこまでも続いていきます。地上人類が成長し進化すれば、それに相応しい新たな指導者、新たな預言者、新たな霊能者が派遣され、その時代が必要とするビジョン、理想、預言、メッセージ、インスピレーション、真理等が授けられます。啓示には終わりというものがありません。なぜなら大霊は完全無欠の存在だからです。

新たな啓示は古い啓示と一貫しており、矛盾していません。今私たちが説いている真理は、ナザレのイエスによって説かれた真理を否定するものではありません。イエスも、モーセの説いた真理を否定してはいません。そして私たちのあとに現れるであろう次代の指導者も、今私たちが説いている真理を否定することはありません。

しかし明日の大霊の子らは、今日の子らよりも一段と高い進化の段階にいますから、彼らに明かされる真理は、今あなた方に説かれている真理よりも一段と進歩的なものになります。


■クリスチャンにとってキリストは、唯一の、そして不可欠の(神との)仲介者である。父(神)とキリストとのつながりは直接的であったが、我々クリスチャンとのつながりはキリストを介して行われる。

これは間違いです。大霊は、あなた方一人ひとりの内に存在しています。同時にあなた方一人ひとりは、大霊の内に存在しているのです。イエスも「神の王国はあなた方の中にある」と述べているではありませんか。クリスチャンはなぜ、こんなにもイエスの教えを理解していないのでしょう!

(クリスチャンだけでなく)いかなる人間も大霊から切り離されることはありませんし、大霊が人間から切り離されることもありません。いかに重い罪を犯した人間であっても、それによって大霊から切り離されることは絶対にありません。人間と大霊とを結んでいる絆は永遠に断ち切ることができないものであり、大霊との関係が失われてしまうようなことは決してないのです。

人間は、内在する神性を日常生活の中で顕現させるにつれて大霊に直接的に接近していくことになります。あなた方一人ひとりに大霊の分霊が宿されているのであり、大霊とあなた方との間に仲介者を立てる必要などありません。

ナザレのイエスは、そんな目的のために降誕したのではありません。人間はいかに生きるべきか、いかにすれば内部の神性を顕現させられるかを教えるために地上界へ降りてきたのです。

キリスト教の神学は、地上世界にとってまさしく“災いのもと”です。人類にとって大きな手かせ・足かせとなっています。人々の魂を牢獄に閉じ込めています。それから逃れるためには、自らを縛っている人工的教義と間違った信条を断ち切り、霊的インスピレーションによって示される本物の真理に目覚めることです。人間の知性は大霊のインスピレーションに優るものではありません。


■「キリストの復活」は、永遠の生命という希望を裏付けるものである。

またしても何というお粗末な認識でしょう! 人間は内部に大霊の分霊を宿しているからこそ存在しているのです。物質は霊によって存在しているのです。霊は永遠の実在であり、破壊できないものです。霊は不滅にして無限なる存在です。

あなた方は霊であるからこそ、墓場を越えて火葬の炎の向こうまで生き続けるのです。物質界にも霊界にも、内部に秘められた神性を破滅させることができるものはありません。人間の内部の神性は、誕生とともに大霊から授かった最も重要な贈り物なのです。

あなた方が今生きているのは霊だからこそです。墓場を越えて生き続けるのも霊だからこそです。霊であればこそどこまでも永遠に生き続けるのです。霊はいかなる指導者とも無関係です。霊は、あなた方が生まれつき持っている権利であり、大霊からの賜物たまものなのです。

なぜかクリスチャンは、宇宙の創造主であり、千変万化の大宇宙の営みを経綸する大霊(神)を限定して考えようとします。彼らのしていることがお分かりでしょうか。物質界でわずか三十三年を生きた人物(イエス)と大霊を同列に扱っているのです。しかも大霊の恩寵おんちょうは、イエスを信じた者だけに与えられると説いています。何と情けないことでしょう! 「宗教」という言葉をこれほどはずかしめる教義はありません。イエスご自身がどれほど悲しみと嘆きの涙を流しておられるか、知っているのでしょうか。いまだにクリスチャンは、イエスをはりつけに処し続けているのです。

自らを“クリスチャン”と名乗ったからといって、また、教会に所属したからといって、それで「地の塩(模範的人間)」になれるわけではありません。地上で身につけたラベル(名誉ある地位や肩書き)は霊界では通用しません。教義を厳格に守ったからといって大したことではありません。あなた方にとって大切なことはただ一つ――地上にいる間にどれだけ内在する大霊を顕現させたか、それだけなのです。


■キリスト教の「贖罪しょくざい」の教義の根本にあるのは、それが本質的に神の御業であり、神がキリストの調停によって人類と和解したとの確信である。

これは、嫉妬と怒りに燃えた神をなだめすかすために、最愛の子を血の犠牲にしなければならなかったという、あの古くからの贖罪説の焼き直しでしょうか。大霊は怒りっぽい人間より、もっと残酷で無慈悲だとでも言うのでしょうか。我が子と和解するのに血の犠牲を要求するとでも言うのでしょうか。大霊とイエスをこれほど哀れな存在に貶める説はありません。

イエスみずからが愛と慈悲と優しさに満ちた“父”のごとき存在と説いた大霊のご機嫌を取るために、なぜ血を流さなくてはならないのでしょうか。地上の人間は一人の例外もなく、自分の努力で人格を形成し、自分の努力で霊的進化を達成するために地上界へ来ているのです。

もし、あなた方が利己的な生き方を選ぶなら、それなりの代償を払わなくてはなりません。人のために役立つ道を選ぶなら、人間性の発達という形で報われます。摂理の働きによってそのようになっているのであり、いかに偉大な指導者といえども、その働きを変えることはできません。

もしも間違いを犯したら、潔くその代価を支払えばいいのです。屁理屈をこねて、他人に責任を転嫁するようなことをしてはいけません。

私たちの世界では利他的で霊性が優れた者は、利己的な者よりも高いレベルの界層にいます。それ以外にありようがないのです。もしも、利己的な生活を送った人が死後、生涯を他人のために捧げた人と同じように高い界層に行けるとしたら、それは大霊と大霊の完全な正義を愚弄ぐろうすることになります。

もちろん、そんなことはありません。人生は、あなた方自身が形成していくものです。どのような地位にあろうと、職業が何であろうと、家柄が高かろうと低かろうと、問題ではありません。肩書きや階級、人種や民族や国家といったものとは関わりなく、すべての人間に奉仕(サービス)のチャンスは等しく与えられているのです。もし、あなた方がそのチャンスを無視するなら、それ相当の代償を払うことになります。その摂理の働きを妨げられる者はいません。

イエスの言葉を引用して終わります――「自分が蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。」


〔当日の交霊会を総括してシルバーバーチが次のように述べた。〕

私は皆さん方に、イエスが説き、私たちが語っているシンプルな真理と、今地上において宗教界のリーダーと目されている人たちが説いている教説とを比較していただきたいのです。

私たちはあなた方に、メッセージをお届けしています。それはあなた方の理性に反することのない、知性を侮辱ぶじょくすることのないメッセージです。それはシンプルな霊的真理をもたらします。

私たちはまず、あなた方地上人がいちばん求めていること、すなわち他界した愛する人々は今も生き続けており、「死」は永遠の別れではないという証拠を示します。

次に私たちは、霊界からもたらされる霊力は、人類を向上させるために献身している人々を鼓舞しているという事実を明かします。霊力は、人生を生き甲斐のあるものに、そして調和のとれたものにするための“豊かさ”をもたらしてくれるのです。

さらに私たちは、病んでいる人々の苦痛を和らげるために霊的治療エネルギーをもたらします。私たちは、地上の人々に互いに助け合って生きる方法を教えるという神聖な使命を果たすために、力を結集して努力しているのです。

私たちは、これまでの人類の歴史の中で大霊のインスピレーションに触れた者たちが説いたのと同じ真理を繰り返し述べています。神の摂理の存在を強調し、それらがどのような形で働いているかを明らかにしています。そして私たちは同じ法則を使用して、過去に起きた現象を今、再現させているのです。

しかし実際には、本来なら霊力の働きを認めるべき人々(聖職者たち)から拒絶されています。彼らは“神学”という名の隔離された世界に身を隠しています。“教条主義”という名の修道院に閉じこもっています。

彼らは、内心では怖いのです。霊的真理が地上人類の間に広まれば、司祭も牧師も主教も大主教も要らなくなってしまうことを知っているからです。

本日、国教会の「報告書」の一部を聞かせていただき、教条主義が徐々に勢力を失い、代わって私たちの使命が成功しつつあることを改めて確信いたしました。

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