2章 死後の喜びと悲しみ

〈善悪の報い〉

――死の直後の心情はどんなものでしょうか。疑念でしょうか、恐怖心でしょうか、それとも希望でしょうか。

「懐疑的人間は疑念を抱き、罪深い人間は恐怖心を抱き、善性の強い人間は希望にあふれます」

――神は人間の一人一人に係わっているのでしょうか。宇宙の大霊ともなると人間のような小さな存在に直接係わるとは思えないのですが……

「神は自ら創造されたもの全てに係わっておられます。完全なる公正のためには小さ過ぎるものは一つもありません」

――我々人間の一人一人の言動の一つ一つに善悪の報いの裁可が下されるのでしょうか。

「神の摂理は人間の言動の全てにわたって働きます。そのことで勘違いしないでいただきたいのは、人間がその摂理の一つを犯すと神が、こいつは欲が深すぎるから懲らしめてやろうなどと言って裁くような図を想像してはいけないことです。神は欲望に一定の限度を設けています。もろもろの病気や災厄、あるいは死でさえもが、その限度を踏みはずした結果として自然に発生するのです。罰というのは全て、法則に違反したその結果です」

――完成された霊の幸福感はどういうものでしょうか。

「全てを知り得ること、憎しみも嫉妬心も怨みも野心も、その他、人間を不幸にしている悪感情が何一つないということです。互いに睦み合う情愛は至福の泉です。物的生活につきものの、欲しいものや苦痛、悩みなどが一切ありません。

その幸せの度合いは霊性の高さに比例しています。最高の幸せは(相対的な意味で)完全な純粋性を身につけた霊が味わいますが、その他の霊が幸せを感じていないわけではありません。悪いことばかり考えている低級霊から最高級の霊の界層までには、霊性と幸せにおいて無数の格差があります。それぞれに、それなりの徳性に応じた楽しみがあるということです。

霊性がある一定の高さにまで向上すると、その先、つまり自分の境涯よりも高い界層で味わえる幸福感がいかなるものであるかが予感できるようになります。そしてその幸福感にあこがれて修養に励みます。嫉妬心などとは違います。やむにやまれぬ憧憬です」

――キリスト教では浄化しきった霊は神の御胸の中に集められて、そこで神をたたえる歌を永遠にうたい続けるというのですが、これはどう解釈したらよいでしょうか。

「これは神の完全性について理解した高級霊がそれを寓話的に表現したもので、これをその言葉どおりに受け取ってはいけません。自然界のもの全て――砂の一粒でさえもが――神の威力と叡知と善性を高らかにうたっていると言えます。これを高級霊が神を拝みつつ永遠に讃美歌をうたい続けるかに想像するのは間違いです。そんな退屈で愚かで無駄な話はありません。

それほどの界層の霊になると、もはや地上生活のような艱難辛苦はありません。いわゆる解脱の境地に入っているわけで、それ自体が喜びです。また、すでに述べたように、彼らには何でも知ることができ、物事の因果関係が理解できますから、その知識を駆使して、進化の途上にある他の霊を援助します。それが又、喜びなのです」

――下層界の低級霊の苦難はどのようなものでしょうか。

「原因しだいで、こうむる苦難も異なります。そして、高級霊の喜びがその霊性の高さに比例して大きくなるように、低級霊が感じる苦痛の程度も、各霊の霊性によって異なります。

大ざっぱに言えば、到達したい幸せの境地が見えていながら行かせてもらえないこと、その幸せを味わうことのできる霊性の高さに対する羨望せんぼう、幸せを妨げている自分のそれまでの所業に対する後悔の念、嫉妬、憤怒、絶望、そして言うに言われぬ良心の呵責、等々です。要するに霊的な幸せや喜びを求めながらそれが叶えられないことから生じる苦悩です」

――その中でも最大のものは何でしょうか。

「罪悪の中には、それが生み出す苦痛が計り知れないものがあります。本人自身も叙述できないでしょう。が、間違いなく言えることは、その苦痛の状態がいつまでも変わらず、もしかしたら永遠に続くのではないかという恐怖心が必ずあります」

――“永遠の火刑”のドグマはどこから生まれたのでしょうか。

「よくあるように、これも言葉による比喩的表現にすぎません」

――しかし、このドグマによる恐怖が良い結果をもたらすこともあるのではないでしょうか。

「周囲を見回してごらんなさい。このドグマで悪事を思い止まった人がいるでしょうか。たとえ幼少時から教え込まれた者でも効き目はないはずです。理性に反した教えは、その影響に永続性がなく、健康的でもありません」

――邪霊にも善霊の幸せがどのようなものかが分かるのでしょうか。

「分かります。そこにこそ彼らの苦悶の源があるのです。自分の過ちによってその幸せが味わえないという因果関係が分かっているからです。そこでまた再生を求めます。新たな人生で少しでも罪滅ぼしをすれば、それだけ幸せな境涯に近づけると思うからです。だからこそ苦難の人生を選択するのです。自分が犯した悪、あるいは自分が大本になって生じた一連の悪、また、しようと思えばできたはずなのに実行しなかった善、さらには、そのために生じた悪、そうしたことについても一つ一つ償いをしなくてはなりません。

霊界へ戻ってさすらいの状態にある時は、ちょうど霧が晴れて視界が見晴らせるようになるごとくに現在の自分の境涯と上級界層の幸せの境涯との間に横たわる罪の障害が、ありありと分かるのです。だからこそ苦悶が強まるのです。自分が咎めを受けるべき範囲が明確に理解できるからです。もはやそこには幻想は存在しません。事実を有るがままに見せられます」

――高級な善霊にとっては、そうした苦悶する霊の存在は幸福感をがれる要因となるのではないでしょうか。

「その苦悶にはそれなりの目的があることを理解していますから、幸福感が殺がれることはありません。むしろその苦しむ霊たちを救済することに心を砕きます。それが高級霊の仕事であり、成功すればそれが新たな喜びとなります」

――苦しんでいる霊が何の縁もない人であればそれも理解できますが、地上時代に何らかの縁があって情的なつながりがある場合は、自分のことのように辛いのではないでしょうか。

「今申したのと同じです。地上時代と違って今はまったく別の観点から見ていて、その苦悶に打ち勝てばそれが進化を促すことになることを理解していますから、自分の苦しみとはなりません。むしろ高級霊が残念に思うのは、彼らから見ればほんの一時的でしかないその苦しみよりも、その苦しみを耐え抜く不抜の精神が欠如している場合です」

――霊の世界では心に思ったことや行為の全てが他に知れるとなると、危害を及ぼした相手は常に自分の目の前にいることになるのでしょうか。

「常識で考えればそれ以外の回答は有り得ないことくらい、お分かりになるはずです」

――それは罪を犯した者への懲罰でしょうか。

「そうです。あなた方が想像する以上に重い罰です。ですが、それも霊界ないしは地上界での生活の中で償いをして行くうちに消えて行くことがあります」

――罪の浄化のために体験しなければならない試練があらかじめ分かることによって、もし間違えば幸福感が殺がれるとの不安が魂に苦痛を覚えさせるでしょうか。

「今なお悪の波動から抜け切れない霊についてはそういうことが言えます。が、ある一定レベル以上に霊性が進化した者は、試練を苦痛とは受け止めません」

〈悔い改めと罪滅ぼし〉

――地球よりも垢抜けのした天体への再生は前世での努力の報いでしょうか。

「霊性が純化されたその結果です。霊は純粋性が高まるにつれて、より進化した天体へ再生するようになり、ついには物質性から完全に解脱し、穢れも清められて、神と一体の至福の境地へ至ります」

――人生をまったく平穏無事の中で過ごす人がいます。あくせく働くこともなく、何の心配事もありません。そういう人生は、その人が前世において、何一つ償わねばならないことをしていないことの証拠でしょうか。

「あなたは、そういう人を何人もご存じだとおっしゃるのですか。もしもそのお積もりであるとしたら、その判断は間違いです。表向きそう見えるというだけのことです。もちろん、そういう人生を選択したというケースも考えられないことはありません。が、その場合でも、霊界へ戻ればそうした人生が何の役にも立たなかったこと、無駄な時間を無為に過ごしたことに気づき、後悔します。

霊は活発な活動の中でこそ貴重な知識を収得し霊性が向上するのであって、のんべんだらりとした人生を送っていては、進歩は得られません。このことによく留意してください。そういう人は、地上生活に譬えれば、仕事に出かけながら途中で道草を食ったり昼寝をしたりして、何もしないで帰ってくるようなものです。

そういう風に自らの意志で送った無益な人生には大きな償いをさせられること、そして又、その無駄という罪はその後の幸せに致命的な障害となることを知ってください。霊的な幸せの度合いは人のための善行ときちんと比例し、不幸の度合いは悪行の度合いと、不幸な目に会わせた人の数と、きちんと比例します。神の天秤には一の狂いもありません」

――悔い改めは地上生活中に行われるのでしょうか、それとも霊的状態に戻ってからでしょうか。

「本当の悔い改めは霊的状態において行われます。しかし、善悪の判断が明確にできるレベルに達した人の場合は地上生活中でも有り得ます」

――霊界での悔い改めの結果どういうことになるのでしょうか。

「新たな物的生活(再生)への願望です。霊的に浄化されたいと思うようになるのです。霊には幸せを奪う自分の欠点が正直に意識されます。そこでそれを改めるような人生を求めることになります」

――地上生活中の悔い改めはどういう結果をもたらしますか。

「欠点を改めるだけの十分な時間があれば地上生活中でも霊性が向上します。良心の呵責を覚え、自分の欠点を十分に認識した時は、その分だけ霊性が向上しているものです」

――地上時代には絶対に自分の非を認めなかったひねくれ者でも、霊界へ戻れば認めるものでしょうか。

「認めます。必ず認めるようになりますし、次第にその罪の大きさに気づきます。地上時代の自分の過ちの全てが分かってきますし、自分が原因で広がった悪弊も分かってくるからです。もっとも、すぐに悔い改めるとは限りません。一方でその罪悪への罰に苦しみつつも、強情を張って自分の間違いを認めようとしないことがあります。しかし遅かれ早かれ道を間違えていることに気づき、やがて改悛の情が湧いてきます。そこから高級霊の出番となります」

訳注――高等な霊界通信に必ず出てくるのがこの“高級霊の出番”である。高級霊団は地上で迷っている者や死後いわゆる地縛霊となってしまった霊の思念の流れを一つ一つ把握していて、たとえ一瞬の間でも改悛の情や善性への憧れをのぞかせたり、真理の一筋の光でも見出し始めると、その一瞬を狙って働きかけ、その思念を持続させ増幅させようとする。

もちろんその一方には悪への道へどんどん深入りさせようとする邪悪集団の働きかけもある。一人の人間が殺意を抱くと邪霊集団が大挙して集まってくるという。ヒステリックな言動はもとより、その反対に、どこかに良心の呵責を感じながらも身勝手な理屈で打ち消しつつ密かに抱いている不健全な、あるいは非人道的な思いも、邪霊の格好の餌食である。

〈天国・地獄・煉獄〉

――宇宙には霊の喜びや悲しみに応じてこしらえられた一定の場所というのがあるのでしょうか。

「その問いについてはすでに答えてあります。霊の喜びや悲しみは、その霊性の完成度に応じて、本来そなわっているものが開発されて行くのであって、外部から与えられるものではありません。各自がその内部に幸不幸の素因を秘めているのです。霊はどこにでも存在するのですから、幸福な霊はここ、不幸な霊はあそこ、といった区画された地域があるわけではありません。物質界に誕生する霊に関して言えば、生まれ出る天体の霊的進化の度合いに応じて、ある程度まで幸不幸の度合いが決まるということは言えるでしょう」

――と言うことは“天国”とか“地獄”は人間の想像したもので、実際には存在しないのですね?

「あれは象徴的に表現したまでです。霊は幸不幸に関係なく至るところに存在しています。ただし、これもすでに述べたことですが、霊性の程度がほぼ同じ者が親和力の作用で集まる傾向があります。しかし、完全性を身につけた霊はどこででも集結できます」

――“煉獄”というのはどう理解したらよいのでしょうか。

「身体的ならびに精神的苦痛のことです。罪があがなわれていく期間と見ることもできます。煉獄を体験させられるのは必ずといってよいほど地上界です。罪の償いをさせられるのです」

――“天国”はどういう意味に解釈すべきでしょうか。

「ギリシャ神話にあるような、善霊が何の心配事もなく、ただ楽しく愉快に遊び戯れているというエリュシオンのような場を想像してはいけません。そんな他愛もないものではありません。天国とは宇宙そのものです。惑星の全てであり、恒星の全てであり、天体の全てです。その大宇宙の中にあって、物的束縛から完全に解放され、従って霊性の低さから生じる苦悶からも解脱した高級霊が、内在する霊的属性をフルに発揮して活動しているのです」

――通信霊の中には第三界とか第四界といった呼び方をする者がいますが、あれはどういう意味でしょうか。

「人間側がとかく階段状の層のようなものを想像して、今何階に住んでいるのですかなどと聞くものですから、その発想に合わせて適当に答えているまでです。天界は人間の住居のように三階・四階と重なっているわけではありません。霊にとっては霊性の浄化の程度の差を意識するだけで、それは即ち幸せ度の象徴でもあります。

地獄についても同じことが言えます。地獄というものがあるかと尋ねた時、その霊がたまたま非常に苦しい状態にあれば、たぶん“ある”と答えるでしょう。その霊にとっては地獄とは苦悶のことです。火あぶりにされる地獄のかまどのことではないことくらい本人も知っています。ギリシャ神話しか知らない霊であれば“タルタロス”にいると答えるでしょう」(地獄の下にある底なし淵のこと)

〈永遠の刑罰〉

――この現世においても過ちの贖いは可能でしょうか。

「可能です。それなりの償いをすれば可能です。ただ、勘違いしないでいただきたいのは、罪滅ぼしのつもりで通りいっぺんの苦行を体験したり遺産を寄付する旨の遺言を書いたりしたところで、何の償いにもならないということです。そんな子供騙しの悔い改めや安直な懴悔の行では、神はお赦しになりません。この程度のことをしておけば済むのではないかという、結局は自己打算の考えがそこにあります。

悪行は善行によって償うしかありません。懴悔の行も自尊心と俗世的欲望とを完全に無きものにしてしまわないかぎり、無意味です。神の前にいくらへり下ってみたところで、他人へ及ぼした悪影響の全てを善行によって消滅させないかぎり、何の意味もありません」

――死を目前にして己の非を悟りながら、その償いをする余裕のない人はどうなるのでしょうか。

「悔い改めたという事実は、更生を速める要素にはなるでしょう。が、その程度で赦されるものでないことは今述べた通りです。それよりも将来があるではありませんか。神はいかに罪深い霊にも将来への扉を閉ざすことはありません」

――永遠に罰せられ続ける霊というのが実際にいるのでしょうか。

「永遠に邪悪性を改めなければ永遠に罰せられるのは理の当然です。つまり永遠に悔い改めなければ、あるいは永遠に罪滅ぼしをしなければ、永遠に苦しむことになります。しかし神は、霊が永遠に悪の餌食であり続けるようには創造しておりません。最初は無垢と無知の状態で創造し、自由意志が芽生えてからは、その判断の違いによって長短の差はありますが、霊的本性そのものの働きで進化するようになっているのです。

人間の子供と同じです。早熟な子と晩生おくての子とがいるように、霊にも意欲しだいで進化の速い霊とゆっくりな霊とがいますが、いずれは抑え難い向上心に突き上げられて、低劣な状態から脱し、そして幸せを味わいたいという願望を抱き始めます。従って苦しむ期間を規制する摂理は、本人の努力という自由意志の働きと密接不離の関係にあるという点において、叡知と愛に満たされていると言えます。自由意志だけは絶対に奪われることはありません。が、その使用を誤った時は、その過ちが生み出す結果については自分が責任を取らねばならないということです」

――その説から言えば“永遠の火あぶり”の刑などというのは有り得ないことになるわけですね?

訳注――これから紹介する四人の歴史的大人物による回答は、その内容と語調から察するに、“永遠の刑罰”というキリスト教のドグマについてカルデックが執拗に質問を繰り返し、その中から“これは本物”と確信したものを選び出したようである。これほどの大人物がこれぽっちの文章を書きに(自動書記と察せられる)やってくるわけはないから、原物はずいぶんの量にのぼったのではなかろうか。なお原書では最後に署名が記されているが、ここでは、便宜上、文頭に置いた。

アウグスティヌス「そなたの常識、そなたの理性に照らして、果たして公正なる神がほんの瞬間の迷いから犯した罪に永遠の刑罰を与えるか否かを考えてみられることです。人間の一生など、たとえ数百年もの長さに延ばしてみたところで、永遠に比べれば一瞬の間ではないですか。永遠! そなたにはこの永遠という言葉の意味がお分かりでない。わずかなしくじりをして、終わりもなく希望もないまま苦悶と拷問にさいなまれ続ける! こんな説にそなたの分別心が直観的に反発しませんか。太古の人間が宇宙の主宰神を恐ろしい、嫉妬深い、復讐心に燃えた人格神のように想像したのは容易に理解できます。自然現象について科学的知識がありませんでしたから、天変地異を神の激情の現れと考えたのです。

しかし、イエスの説いた神は違います。愛と慈悲と憐憫れんびんと寛容を最高の徳として位置づけ、自ら創造し給うた我々にもそれをそなえることを義務づけておられる。その神が一方において無限の愛をそなえながら、他方において無限の復讐を続けるというのでは矛盾していませんか。

そなたは神の義は完ぺきであり人類の限られた理解力を超えるとおっしゃる。しかし、義は優しさを排除するものではありません。もしも神が自らの創造物である人類の大多数を終わりなき恐怖の刑に処するとしたら、神には優しさが欠けていることになります。もしも神自らが完ぺきな義の模範を示し得ないとしたら、そのような神には人類に義を強要する資格はありません。

神はそのような理不尽な要求はしておられません。罰の期間をその違反者による償いの努力しだいとし、善悪いずれの行いについても、各自その為せるわざに相応しい報いを割り当てる――これこそ義と優しさの極致ではないでしょうか」(アウグスティヌスについては十二章に前出

ラメネイ「あなた方の力で可能なかぎりの手段を尽くして、この永遠の刑罰のドグマと闘い、完全に無きものにするために、これより本腰を入れていただきたい。この概念は神の義と寛容に対する冒涜であり、知性が芽生えて以来この方、人類を侵し続けてきた懐疑主義と唯物主義と宗教的無関心主義の元凶だからです。

知性がいささかなりとも啓発されれば、そのような概念の途方もない不公正に直ちに気づきます。理性は反発し、その反発を覚える刑罰と、そのような理不尽な罰を科する神とのつながりに矛盾を感じないことはまず考えられません。その理性的反乱が無数の精神的病弊を生み出し、今まさに我々がスピリチュアリズムという処方箋を用意して馳せ参じたのです。

これまでのキリスト教の歴史を見ても、この教義の支持者たちは積極的な擁護説を差し控えています。公会議においても、また歴代の教父たちも、この余りに重苦しい問題に結論を出し得ずに終わっております。その分だけ、そなたたちにとってこの説を撲滅する仕事は容易であると言えるでしょう。

よしんばキリストが福音書や寓話の直訳的解釈にある通りに“消すことのできない火”の刑罰をもって罪人つみびとを脅したとしても、その言葉の中には“永遠にその火の中に置かれる”という意味はみじんもありません」

訳注――フェリシテ・ド・ラメネイ(一七八二~一八五四)はナポレオンの治政下にあって宗教学者として、政治にも問題を投げかける著書を著し、一時はその進歩的すぎる思想が危険視されて投獄されたこともある。が、獄中でも執筆活動を止めなかった。晩年は貧困と病に苦しみながらも、ダンテの『神曲』をフランス語に翻訳した。その宗教的ならびに政治的影響は二十世紀にも及んだと言われている。

プラトン「愚かきわまる舌戦! 児戯に類する言論戦! たかが言葉の解釈の問題にどれほどの血が流されてきたことでしょう! もう十分です。この無益な言葉をこそ火刑に処して然るべきです。

人類は“永遠の刑”とか“永遠に燃えさかる炎”という言葉について論議を重ねながら、その“永遠”という用語を古代の人間は別の意味で用いていたことをご存じないのでしょうか。神学者にその教義の出所をよく調べさせてみるとよろしい。ギリシャ民族やラテン系民族、そして現代人が“終わりなき、かつ免れ難き罰”と訳したものは、ヘブライ語の原典においては、そういう意味で用いられていないことが分かるはずです。

“罰の永遠性”とは“悪の永遠性”の意味です。そうなのです。人間界に悪が存在するかぎりは罰も存在し続けるという意味です。聖典の言葉もそうした相対的な意味に解釈すべきなのです。従って罰の永遠性も絶対的なものではなく相対的なものです。いつの日か人類の全てが悔い改めて無垢の衣装を身にまとう日が来れば、もはや嘆き悲しむことも泣き叫ぶことも、あるいは無念の歯ぎしりをすることも無くなるでしょう。

確かに人間の理性は程度が知れています。が、神からのたまものであることには違いありません。心さえ清らかであれば、その理性の力は刑罰の永遠性を文字通りに解釈するような愚かなことはいたしません。もしも刑罰が永遠であることを認めれば悪もまた永遠の存在であることを認めなくてはならなくなります。しかし、永遠なるものは神のみです。その永遠な神が永遠なる悪を創造したとしたら、神的属性の中でも最も尊厳高きもの、すなわち絶対的支配力をもぎ取られることになります。なぜなら、神が創造したものを破滅に追いやる力がもし創造されたとしたら、その神には絶対的支配力が無かったことになるからです。

人類に申し上げたい! もうこれ以上、死後にまでそのような体罰があるのだろうかと、あたかも地球のはらわたを覗き込むような愚は止めにしてもらいたい! 良心の呵責に密かに涙を流すのはよろしい。が、希望まで棄ててはいけません。犯した罪はいさぎよく償うがよろしい。が同時に、絶対的な愛と力、そして本質において善そのものである神の概念に慰めを見出すことも忘れないでいただきたい」

訳注――言わずと知れた紀元前五世紀~四世紀のギリシャ人哲学者で、人類の知性の最高を極めたと評されている。著書としては『ソクラテスの弁明』などの『対話篇』が有名であるが、その中の『断片』の中に伝説上の大陸アトランティスの話が出ていて、本来の哲学者とは別の面で話題を生み、それは今日でも関心の的となっている。ジブラルタル海峡の少し西のあたりに高度な文明をもった民族が住んでいたが、それが地殻変動で一夜にして海中に没したという。

しかしエンサイクロペディア・アメリカーナの執筆者によると、地理学者の調査で確かにそのあたりの大陸は大きくアメリカ大陸方向へ延びていたことは事実であるが、それが埋没したのは有史以前のことと推定されるという。

どうでもよさそうな伝説を紹介したのは、世界中のチャネラーが好き勝手なことを言い、トランス霊媒を通じて語る霊の中に自分はアトランティス大陸の住民だったなどと言う者が後を絶たないからで、全ては低級霊の仕業であるから相手にしないことである。

パウロ「宇宙の至高の存在すなわち神と一体となることこそ人間生活の目的です。その目的達成のためには次の三つの要素が必要です。知識と愛と正義です。当然これに対立するものにも三つあります。無知と憎しみと不正です。

あなた方は神の厳しさを誇張しすぎることによって却って神の概念を傷つけております。本来の神にあるまじきお情け、特別の寵愛、理不尽な懲罰、正義のこじつけが通用するかに思わせる結果になっております。中世のあの拷問と断罪、そして火あぶりの刑という、身の毛もよだつ所業に見られるように、“赦し難き罪”の解釈を誤って、心まで悪魔となっています。そんなことではキリスト教の指導者は、その無差別の残虐的懲罰の原則が人間社会の法律から完全に排除された暁には、その懲罰が神の政庁の原理であるとは、もはや信じさせることはできなくなってしまいます。

そこで神とイエス・キリストの御名のもとでの同志諸君に告げたいのです。選ぶ道は次の二つのうち一つです。これまでの古いドグマをいじくり回すような小手先のことをせずに、いっそのこと全てを廃棄してしまうか、それとも今我々が携わっている(スピリチュアリズムの)活動によってイエスの教えに全く新しい生命を吹き込むか、そのいずれかです。

例えば燃えさかる炎と煮えたぎる大釜の地獄は、鉄器時代だったら信じる者もいたかも知れません。が、現代では他愛もない空想物語でしかなく、せいぜい幼児の躾にしか役に立ちません。その幼児も少し成長すればすぐに怖がらなくなります。そのような根拠のない恐怖を説き続けることは、社会秩序の破壊の元凶である“不信”のタネを蒔くことになります。そしてそれに代わる権威ある処罰の規定もないまま、社会の基盤が崩れ瓦解してしまうのを見るのが、私は怖いのです。

生きた信念に燃える熱烈な新時代の先駆者が一致団結して、今や悪評の絶えない古い寓話の維持に汲々となることは止めて、今の時代の知性と風潮に調和した、真の意味での罰の概念を蘇らせてほしいのです。

ところで“罪を犯せる者”とは一体どういう人間のことでしょう? 魂の間違った働きによって人の道から外れ、創造者たる神の意図から逸脱した者のことです。その神の意図とは、人類の模範として地上に送られたイエス・キリストにおいて具現されている善なるもの・美なるものの調和です。

では“懲罰”とは一体何なのでしょう? 今述べた間違った魂の働きから派生する自然な結果のことです。具体的に言えば、正道から外れたことに自らが不快感を抱くに至らせるために必要な苦痛、つまりその逸脱によって生じる苦の体験のことです。言うなれば家畜を追い立てる突き棒のようなもので、時おり突きさされて、その痛みに耐えかねて放浪を切り上げて正道に帰る決心をさせるためのものです。罰の目的はただ一つ、リハビリテーションです。その意味から言って、永遠の刑罰の概念は存在そのものの理由を奪うことになるのです。

どうか善と悪の永続性の対比の議論は、いいかげん止めにしていただきたい。対比することで、そこに懲罰の基準というものをこしらえてしまいます。が、そういうものには何の根拠もありません。そうではなく、物質界での生活をくり返すことによって欠陥が徐々に消え失せ、それだけ罰も受けなくなるという因果関係をしっかりと理解してください。そうすれば公正と慈悲との調和による創造者と創造物との一体化という教義に生命を賦与することになるのです」

訳注――改めて紹介するまでもなくイエスの弟子の一人で、イエスの死後その教えを各地に伝道してまわった人物として知られる。聖書の中にも「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」「テサロニケ人への手紙」等々、十指に余るパウロの文書が見える。それが果たして本物か否かの問題は別として、カルデックがこの署名入りの一文を掲載したということは、その内容からあのパウロに間違いないとの確信を得たからであろう。“聖パウロ”と呼ばれることが多いが、署名は“弟子パウロ”とある。

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