12章 完全なる人格

〈美徳と悪徳〉

――美徳とされているものの中で最も徳性が高いのは何でしょうか。

「美徳はすべて価値があります。霊性の向上の証だからです。邪悪性を帯びた影響力の誘惑に自ら抵抗する行為も全て徳行と言えます。が、その徳行の崇高さは、他人への善行のために私利私欲を滅却するところにあります。最も崇高なる徳は、できるだけ多くの人への無私の善行という形を取った時です」

――誰の目にも明らかな欠点と悪徳は別として、一見するとそうは見えない不完全さの表れの中で最も特徴的なものは何でしょうか。

「利己主義です。一見すると徳の高そうな風貌をしていても、実はきらびやかなメッキにすぎず、試金石にはとても耐え切れないことがあります。世間的には“立派な方”で通っていて、確かにそこそこの人格をそなえていても、厳しい試練には耐え切れず、すぐに利己心をのぞかせます。それだけでどの程度の霊格をそなえているかが知れます。もっとも、絶対的な無欲というのは地上界では滅多にお目にかかれるものではなく、もしあれば驚嘆に値するでしょう」

――人のためになることを計画して、その実行のための資金を稼ぐということは間違っているでしょうか。

「純粋にそう思ってやっているのであれば結構でしょう。ですが、果たして心底から人のためと思っているでしょうか。利己心は一切無いと断言できるでしょうか。人のためと言いながら、その実、第一に考えているのは自分のことではないでしょうか」

〈感情〉

――感情というのは、本来、悪なのでしょうか。

「悪ではありません。悪となるのは度が過ぎた時だけです。度を越すということは意念の悪用の結果だからです。基本的には感情は人間の性格の形成に益するもので、偉大な仕事の成就に強烈な拍車をかけてくれることがあります。感情が害を及ぼすのは、その使い道を誤った時です」

――その善用と悪用の境界はどうやって認識するのでしょうか。

「感情は馬と同じです。手綱をうまく操っている間は役に立ちますが、いったんコントロールを失うと危険が生じます。抑えることができなくなると自分だけでなく他人をも傷つけるようになります」

――それは意志の力で克服できるのでしょうか。

「できます。ホンのちょっとした意志の働かせ方で抑えられるものです。その意志、抑えようとする意志の欠如が感情を暴走させてしまうのです。残念ながら、そういう努力をする人が少なすぎます」

〈利己主義〉

――悪徳の中でもその根源にあるものは何でしょうか。

「利己心です。このことはすでに何度も説いてきました。およそ悪と呼ばれているものは全てこの利己心から生じているからです。悪いこと、いけないこととされているものをよく分析してご覧なさい。その底には必ず自分中心の欲が巣食っています。それと闘い、克服して、悪を根絶やしにしないといけません。

利己主義こそ社会的腐敗の根源です。この地上生活(だけとは限りませんが)において幾らかでも道徳的に向上したいと願う者は、まず自分の心の奥から利己心を根こそぎ取り払わないといけません。利己心があるかぎり公正も愛も寛容心も生まれません。あらゆる善性を無力化してしまいます」

――利己心を撲滅するにはどうすればよいでしょうか。

「人間的欠点の中でも最も取り除き難いのがこの利己心です。その原因は物質の影響力と結びついているからです。人類はまだまだ物質性を多分に残していますから、それから解放されるのは容易ではありません。人間界の法律、社会的組織、そして教育までもが唯物主義の上に成り立っています。物的生活が精神的生活によって支配されるようになるにつれて、利己主義も薄められて行くでしょう。それにはスピリチュアリズムの普及によって死後の生命の実在についての認識が浸透することが大前提です。スピリチュアリズムの教義が正しく理解され、それまでの人類の信仰や慣習が見直されれば、習慣やしきたり、社会的関係の全てが改められるでしょう。

利己主義は自分という個的存在にこだわりすぎ、平たく言えば自分が偉いと思っているところから生じています。スピリチュアリズムを正しく理解すれば、それとは逆に、全てを大いなる生命の観点から見つめるようになって、己の小ささに気づきます。全体の中のささやかな存在にすぎないという認識によって自尊心が消え、必然的に利己心も消えてしまいます」

(署名)フェヌロン

訳注――フランソワ・フェヌロン(一六五一~一七一五)はフランスの聖職者・教育論者・著述家。ルイ十四世から孫(王子)の教育を託され、その功によって大主教に任ぜられるが、前任の教育係との間の神学論争に敗れて主教に降格される。その後王子の教育論を述べた大著を発表するが、ルイ王はそれを自分への風刺と受け取って発禁処分にし、対立する教育論者たちからも非難を浴びる。が、「王は臣民のためにあるのであり臣民が王のためにあるのではない」との説は最後まで歪げなかったという。

〈人格者〉

――高等な霊性をそなえていると判断できる人はどういう人格をしているでしょうか。

「肉体に宿っている霊の霊格の判断は、その人の日常生活での言動が神の摂理に適っているかどうか、そして霊的生命についてどの程度まで理解しているかによって決まります」

――地上生活によって徳性を高め、悪の誘いに抵抗していくには、どのような生き方が最も有効でしょうか。

「古賢の言葉に“汝自らを知れ”とあります」

訳注――ギリシャのデルファイの神殿に刻まれている言葉で、誰の言葉であるかは不明。

――その言葉の意味はよく分かるのですが、自分を知ることほど難しいものはありません。どうすれば自分自身を知ることが出来るでしょうか。

「私(聖アウグスティヌス)が地上時代に行った通りにやってご覧なさい。私は一日の終わりに自分にこう問いかけました――何か為すべき義務を怠ってはいないだろうか、何か人から不平を言われるようなことをしていないだろうか、と。こうした反省を通じて私は自分自身を知り、改めるべき点を確かめたものでした。毎夜こうしてその日の自分の行為の全てを思い起こして、良かったこと悪かったことを反省し、神および守護霊に啓発の祈りを捧げれば、自己革新の力を授かることは間違いありません。私が断言します。

霊的な真理を知ったあなた方は、こう自問してみることも一つの方法でしょう。即ち、もしも今この時点で霊界へ召されて何一つ隠すことのできない場にさらされたとしても、青天白日の気持ちで誰にでも顔向けができるか、と。まず神の御前に立ち、次に隣人に向かって立ち、そして最後に自分自身に向かって何一つ恥じることは無いかと問うのです。何一つ良心の咎めることはないかも知れませんし、治さねばならない精神的な病があるかも知れません。

人間は、仮に反省すべき点に気づいても自己愛から適当な弁解をするのではないかという意見には一理あります。守銭奴は節約と将来への備えをしているのだと言うでしょう。高慢な人間は自分のうぬぼれを尊厳だと思っているかも知れません。確かにそう言われてみればそうです。その意味では反省が反省になっていないかも知れません。が、そうした不安を払いのける方法があります。それは他人を自分の立場に置いてみることです。自分が行ったことをもし他人が行ったとしたら、それを見て自分はどう思うかを判断してみるのです。もしいけないことだと感じるのであれば、あなたの行いは間違っていたことになります。神が二つのはかり、二種類のモノサシを用いるはずはありません。

さらに又、他人は自分のしたことをどう見るか――とくに自分に敵対する者の意見も見逃してはいけません。敵方の意見には遠慮容赦がないからです。友人よりも率直な意見を述べます。敵こそは神が用意した自分の鏡なのです。

我々への質問は明確に、そして有りのままを述べ、幾つでもなさるがよろしい。そこに遠慮は無用です。人間は老後に備えてあくせくと働きます。老後の安楽が人生最大の目的――現在の疲労と窮乏生活をも厭わないほどの目的になっているではありませんか。疲労こんぱいの身体で人生最後の、ホンのわずかな時を経済的に安楽に過ごすことと、徳積みの生活に勤しんで死後の永遠の安らぎを得るのと、どちらが崇高でしょうか。

そう言うと人間は言うでしょう――現世のことは明確に分かるが死後のことは当てにならない、と。実はその考えこそ、我々霊団が人間の思念の中から取り除いて死後の実在に疑念を持たせないようにせよと命じられている、大きな課題なのです。だからこそ我々は心霊現象を発生させてあなた方の注意を喚起し、そして今こうして霊的思想を説いているのです。

本書を編纂するよう働きかけたのもその目的のためです。今度はあなた方がそれを広める番です」

(署名)アウグスティヌス

訳注――聖アウグスティヌス(三五四~四三〇・聖オーガスチンとも)は言わずと知れた初期キリスト教時代の最大の指導者・神学者・哲学者で、遺産を全て売り払って貧者に恵み、自らは清貧に甘んじ、とくに後半生は病弱と貧困に苦しめられたが、その中にあっても強靭な精神力、底知れぬ知性、深遠な霊性、崇高な高潔さは、キリスト教最高・最大の聖人と呼ばれるに相応しいものだったと言われる。

なお、これまでの通信でも“私”という言い方をしながら、それが誰であるかが記されていないものがある。それにも署名はあったであろうから、それを敢えて記さなかったのは、まったく無名の人物か、カルデックが本人であることに疑念を抱いたかの、どちらかであろう。フェヌロンとオーガスチンに関してはよほど確信を持ったということになる。

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