4章 さまざまな説
……心霊現象が教えるもの
スピリチュアリズムが勃興して心霊実験会というものが催され、奇っ怪な現象が見られるようになった時――これは言うなれば太古からあった突発的心霊現象の実験的再演にすぎないのだが――それを目にしあるいは耳にした者が真っ先に抱いたのは「トリックではないか?」という猜疑であり、トリックではないとしたら「ではそれを起こしているのは一体何ものだろうか?」という疑問だった。
その後の調査・研究によって、そうした現象が実在すること、そしてそれが霊による演出であることが完璧に証明されたのであるが、その一方では自分の勝手な考えや信仰、あるいは偏見によって思いつき程度の説を立てる者が出ている。
スピリチュアリズムに真っ向から敵対する者は、そうした説の多様性を指摘して「スピリチュアリズム自体が混乱しているのではないか」と難詰する。が、これは皮相な見解である。いかなる科学も最初は諸説があって定まらないのが普通で、そのうち事実が積み重ねられて、きちんとした筋道が立てられるに至る。その積み重ねの中で早まった結論が排除され、全体を統一する理論が生まれる。全体といっても最初のうちは基本的な問題に限られ、完璧とまではいかないかも知れない。
スピリチュアリズムも例外ではなく、当初は、現象の性質上、解釈の仕方が諸説紛々となりがちだった。が、その後の発展の仕方は科学の先輩である物質科学にくらべても速い方だった。物質科学のどの分野においても今なお最高の頭脳の持ち主による反論や否定説が存在することを知るべきである。(これは十九世紀末の時点での事実を述べているが、二十世紀も終わろうとしている現在でもなお、物理学では「相対性理論」が、天文学では「ビッグバン説」や「ブラックホール説」が、進化論では「ダーウィニズム」が痛烈な批判を浴びている。要するに人間は大自然について本当のことはまだ何も分かっていないということである――訳注)
さて、心霊現象には二つの種類がある。すなわち物理的現象と精神的ないし知的現象である。この世に物質以外の存在を認めないがゆえに霊の存在を認めようとしない者は、当然のことながら現象に知性の働きがうかがわれるという事実は頭から否定する。
彼らなりの見地から提示する説をまとめると次の四つに分類できそうである。
以上は現象そのものの存在を完全に否定する説であるが、次に、心霊現象というものが存在することは認めるが、その原因は人体にそなわる電気や磁気、その他の未知のエネルギーのせいにする説をみてみよう。
以上、さまざまな説を見てきたが、現象を見もしないで頭ごなしに否定するのは論外として、現象ないし事実を一応検討した者の間でも、なぜこうまで諸説が出るのであろうか。
その原因は単純である。かりに一軒の家があって、前半分を白く塗り、裏側は黒く塗ってあるとしよう。それを前から眺めた人は「あの家は白かった」と言い、裏側だけを見た人は「あの家は黒かった」と言うであろう。両方とも正しいが、両方とも間違っている。表と裏の両方から見た人だけが本当の意味での正しい答えが出せる。スピリチュアリズムにも同じことが言える。
現象の一部だけを見て立てた説は、それなりに正しいかも知れないが、それだけでは片づけられない現象がいくらでもある。だから、全体から見るとその説は間違いということになる。
スピリチュアリズムを正しく理解するには時間をかけて、ありとあらゆる現象を細かく検討しなければならない。大ていの人は自分の体験をもってそれが全てであると錯覚し、その観点から自説を立てる。そこに間違いの原因がある。
では心霊現象が教えるところを十項目に分けて解説しておこう。
1、心霊現象は超物質的知性すなわち“霊”が演出している。
2、見えざる世界は霊によって構成されていて、至るところに存在する。無辺の宇宙に霊が実在している。我々人間の身のまわりにも存在し、そのうちの幾人かと常に親密な関係にある。(背後霊のこと――訳注)
3、霊は絶えず物質界に働きかけており、精神活動にも影響を及ぼしている。自然界のエネルギーの一種と見なしてよい。
4、霊は本質において我々人間と変わるところはない。かつて地球上または他の天体上で物的身体をたずさえて生活したことのある魂であり、今はその物的身体を脱ぎ捨てているというに過ぎない。従って人間の魂は“肉体に宿っている霊”であり、いずれは肉体の死によって霊になる、ということになる。
5、霊といっても千差万別で、善性においても邪悪性においても、理解力の程度においても無知の程度においても、無数の段階がある。
6、霊も進化の法則によって拘束されている。ただし他方において自由意志も与えられているから、努力と決意の程度によって進化の速度が異なる。しかし、いつかは完成の域に到達する。
7、霊界における霊の幸不幸は、地上時代における善悪の所業と霊性の進化の程度によって決まる。完全にして無垢の幸福感、いわゆる至福の境涯は、完全な霊性を極めた者のみが味わうことができるものである。
8、霊は、ある一定の条件のもとで、人間にその存在を顕現してみせることができる。人間と意思の疎通ができる霊の数に限界はない。
9、霊は霊能者を媒介としてメッセージを伝えることができる。その場合、霊能者は道具であり、通訳のような存在である。
10、メッセージを送ってくる霊の霊性の高さないし低さは、そのメッセージの内容に反映する。高い霊の訓えは善性にあふれ、あらゆる側面にそれが表れている。低い霊の述べることには、どう繕ってみても、偽善と無知と未熟さがうかがえる。
訳注――これだけのことを一般の人々にすぐに理解を求めるのは無理としても、最近のテレビ番組や心霊書を見ていると、チャネラーと自称して多くの客を相手に霊視力や霊聴力あるいはインスピレーションで霊からのメッセージを伝えたり前世を語ったりしている人でも、その言葉の端々から霊的知識が欠落していたり誤解していることが読み取れることが多い。
最近あきれ果てたのは、さる女性霊能者が「霊でも千年くらいは生き続けているのがいますから」云々、と言ったことで、この人にとっては相変わらず物的人間が実在で、霊は副産物的なモヤのようなもので、いつかはどこかへ消滅していくものでしかないらしい。神職や僧籍にある人に意外にその程度の認識の人が多いようである。
もう一人のテレビ出演者が書いた霊界の本を開いてみたら「霊界というところは暗くて寂しいところで、地上界の方がよほどいい」といった文章があった。この人の霊視力はそのレベルまでしか見えていないということを証明している。
自分のことを神界からの使者であるとか仏陀の生まれ変わりであるとか称している人もいる。こういう人は天文学をしっかり勉強して、宇宙の広大無辺さと無限の次元の波動の世界の存在を知ることである。おのれの小ささに気づいて、そんなことは言えなくなるであろう。
霊的な仕事に携わっている人の落とし穴は、自分の霊能にうぬぼれて“学ぶ”ということをしなくなることである。