3章 説諭に際しての心得

霊的真理に目覚めた者が、今度はそれを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思うようになるのは自然の成り行きであり、むしろそうあって然るべきことであろう。本章はそういう願望を抱いている人のために、我々の体験にもとづいて最も有効な方法をお教えし、せっかくの意気込みが徒労に終わることのないように、という意図に発している。

すでに述べたように、スピリチュアリズムは新しい学問であり、新しい人生哲学である。となると、それを理解するには、第一条件として真剣さが要求される。つまり、どの学問でも同じであるが、遊び半分の態度ではとても理解できるものではないとの自覚がなくてはならない。

スピリチュアリズムは人類という存在のあらゆる問題に係わっている。その範囲は広大であり、実験会に参加した者が痛切に感じるのは、現象が暗示するところが途方もなく大きく、かつ深刻であることである。

その基本にあるものが霊の実在の真実性であることは論をまたないが、意欲的なタイプの人間は自分がそれを確信するだけでは満足しない。それは神学者が神の存在を自分が信じるだけでは満足できないのと同じである。そこで、これからそういうタイプの者にとってどういう方法が最も効果的であるかをみていこう。

“百聞は一見にしかず”という諺があるように、疑う人間には事実(物証)を見せるのが一番であるかに思われているが、実際は必ずしもそうではない。どんな現象を見せてもまったく考えを変えない人間がいることを知らねばならない。その原因はどこにあるかを明らかにしてみよう。


スピリチュアリズムにおいては、霊界通信と呼ばれている霊からのメッセージは言わば副産物であって、二次的な意義しかもたない。言いかえれば、霊からのメッセージはスピリチュアリズムの出発点ではないということである。

霊は人間の魂が肉体を捨てたあとに存続しているものにほかならないのであるから、議論はまず人間にその魂が内在していることから始めねばならない。ところが唯物論者は人間はこの肉体でしかないと信じているのであるから、この物的世界とは別の世界があって、そこに何らかの存在がいるなどということを信じさせるのは、まず不可能である。

自分に魂が内在することを信じない者が目に見えない霊の世界が存在するなどということが信じられるわけがないのであるから、そういうテーマについていくら議論しても無益である。どこからどう説いても、ことごとく論破されてしまう。原理そのものを認めないのであるから当然であろう。

秩序ある説諭というものは、すでに明らかとなっていることから始めて、さらに未知の分野へと進むべきである。この場合、唯物論者にとって明らかとなっているのは“物質”のみであるから、我々もまず物質科学に足場を定め、そこから唯物論者を我々の見地へといざない、人間には物質の法則を超越したものが内在していることを説いて聞かせる、ということになる。しかし、その説明のためには、物的次元を超えたさまざまな次元の法則を持ち出し、証拠としてさまざまな論拠を持ち出さねばならない。

自分に魂が宿っていることを信じない人間にいきなり霊の話を持ち出すのは、最終目的とすべきところから出発するようなもので、前提を認めない者が結論を認めるはずがないから、賢明とは言えない。うたぐり深い人間に霊的真理を納得させるためには、前もってその人が魂についてどう考えているか、つまり魂の存在を認めるかどうか、死後にそれが存続することを信じるかどうか、死後にも個性が残ることを信じるかどうかを確かめておく必要がある。

もしもそうした問いにいずれも「ノー」と答えるのであれば、霊について説くことは徒労に終わるに決まっている。絶対にとまでは言わない。中には例外的人間もいるであろう。が、その人の場合は何か別の要素があるものと察せられる。


唯物論者には大きく分けて二つのタイプがある。一つは、理論上そう考えているタイプ。このタイプの人間にとって霊的なものは“疑わしい”のではなくて、理論上の観点から“存在しない”のである。人間というのはゼンマイ仕掛けの機械と同じで、ゼンマイが巻かれている間は動くが、ゼンマイが切れると動かなくなる。後に残るのは死骸だけであり、他には何も残らない。

幸いこのタイプの人間は少ないので、こうした思想の蔓延による弊害を声高にあげつらう必要はない。

もう一つは無関心から取りあえずそういう立場を取っているタイプ。確信をもって唯物論を主張しているわけではない――言うなれば、それよりもっと良い説があれば喜んで信じるタイプで、こういう人が数としてはいちばん多い。

このタイプの唯物論者も、おぼろげながら来世へのあこがれのようなものを抱いている。が、これまでの伝統的信仰で聞かされている来世観は理性が納得しない。そこで疑念が生じ、その疑念が不信へと進行する。が、その不信には何一つ理論的裏付けがないのであるから、合理的な説を提示されれば喜んで受け入れるであろう。ということはスピリチュアリズムを理解する可能性があるということで、本人が自覚しているよりも我々と通じ合えるものをもった人々なのである。

その点から言うと、第一のタイプの唯物論者には啓示だの天使だのパラダイスだのといったものを持ち出しても意味がない。彼らには、この宇宙には現在の物理学の法則では説明しつくせないことが沢山あることを証明することから始めねばならない。その点、第二のタイプの唯物論者は信仰心がまったく無いわけではなく、いわば胚芽の状態で潜在していて、それが在来の根拠のない教義によって抑圧されているだけであるから、真理の光を当ててやれば生気を取り戻す可能性があるわけである。


以上の二つのタイプは“唯物論者”と呼ばれる人たちであるが、これ以外に、唯物論者の範疇には属さず、どちらかというと目に見えないものの存在を認めるタイプでありながら、我々にとって同じように扱い難いグループがいる。それは、我がままな感情から信じたがらない人たちである。

彼らは物的快楽を味わいたいという欲望を多分に持っている。だから、スピリチュアリズムを信じてしまうと野心や利己的欲望や見栄を捨てないといけなくなるのであるが、それは彼らにとっては困るのである。そこでわざと真実を見まいとし、真理の言葉を聞くまいとする。このタイプの人間は哀れに思ってあげるしか為すすべがない。

さらにもう一つのタイプに、打算または不誠実さから反対する人たちがいる。彼らはスピリチュアリズムの説くところをちゃんと知っている。その正当性も知っている。しかし、自分に都合のよい打算を動機として、表向きは否定論者の側にまわっているに過ぎない。このタイプもひじょうに扱い難い存在である。為す術がないからである。完全な唯物論者でも、思い違いをしている場合は、それを指摘してあげることによって考えを改めさせることができる。少なくともそこには誠実さが窺える。が、この打算から発している者は初めから反対することに決めてかかっているのであるから、議論の余地がないのである。

この種の人間は“時”を待つしかない。そして、多分、痛い思いをしてようやく自分の打算的態度の間違いに気づくであろう。しょせん真理の流れには抗し切れないのであるから、都合のよい打算にいくらしがみついても、最後は真理の激流がその打算といっしょに押し流してしまうであろう。


以上のようなタイプ以外にも、数え上げたらきりがないほど多種多様のタイプの人間がいる。たとえば憶病から信じまいとするタイプ。このタイプの人は、ある人が信念を堂々と告白しても何の危害もこうむらないことを知って勇気を得るという体験でもないかぎり、自発的に公言することはない。また信仰上のためらいから信じるに至らない人。このタイプの人は、しっかり勉強して、スピリチュアリズムが宗教の基本原理にのっとっていること、すべての信仰の存在価値を認めていること、そして、かつて抱いたことのない宗教的情念を生み出し、あるいは強化する要素があることを知るに至るのを待つほかはない。

その他にも、見栄や軽率な判断から信じようとしない人などがいる。


もう一つ見落とせないタイプに、“失望が原因で信じなくなった人”とでも呼ぶべき人たちがいる。たとえば、しっかりとした理解もなしに大ゲサに信じて交霊会に出席し、結果が期待どおりでなかったことから一気に不信に陥り、ついにはスピリチュアリズムの全てを捨ててしまったという人たちである。ニセの交霊会で見事に騙されて、それでスピリチュアリズム全体を茶番と決めつけてしまう人たちとよく似ている。要するにきちんとした勉強をしていないからそういうことになるのである。

スピリチュアリズムを新しいタイプの占いのように考えている人も少なくない。霊が自分の将来を語ってくれると思って出席するのであるが、その程度の人間が簡単に出席を許されるような交霊会は、ふざけた低級霊に支配されるに決まっているから、出席者をけむにまき、あげくには失望の淵に蹴落として、ほくそえむことを許してしまうことになる。


数として最も多いのが“どっちつかずの中間派”で、我々としては反対派の中に入れていない。どちらかというと大半の者が霊的なものに関心があるのであるが、自分ではそれがいかなるものであるかについて確たる認識がないまま、ただ何となく魅力を感じている。こういうタイプの人に必要なのは秩序だった説諭で、それが功を奏せば、夜明けの太陽のごとく、それまでのモヤモヤとした霧をスピリチュアリズムの教説が一気に晴らしてしまう。すべての迷いから救い出し、本人もそれを歓喜して迎えるであろう。


以上、唯物論者を筆頭に、目に見えないもの、ないしは霊的存在を認めない人にもさまざまなタイプがいることを見てきたが、今度は、霊的なものの存在を信じる側に目を転じてみよう。

まず注目すべきことは、スピリチュアリズムという用語を知らず、その教義の何たるかも知らないのに、物の考え方、生き方、あるいは人生観に、本質的にスピリチュアリズムの精髄エキスのようなものがにじみ出ている人がいることである。それが著作や言動にも表れていて、あたかも立派な師のもとで訓戒を受けているかの印象を受ける。そういう人が、聖職にある人の中にも平凡な世俗の人の中にもいる。詩人、説教者、モラリスト、哲学者、その他さまざまな分野に見られるし、古今を通じても同じである。

そうした例外的な人は別として、スピリチュアリズムを調査・研究して十分に納得して信じるに至った人にも、いくつかのタイプがある。


第一のタイプは言うなれば“実験派”のスピリチュアリスト。心霊実験会に出席してその真実性を信じるようになった人であるが、興味は現象面に限られていて、スピリチュアリズムとは不思議な現象を研究する学問である、という認識にとどまっている。

第二のタイプはそうした現象の裏に思想的にも倫理・道徳的にも高度なものがあることに気づいてはいるが、それを実生活とは切り離して捉え、人間性との関連も稀薄、ないしはゼロの人。強欲な人間は相変らず強欲であり、高慢な人間は相変らず高慢であり、嫉妬深い人間は相変らず嫉妬深いままで、そこに内省というものが伴わない。こういうタイプを“無節操派”と呼んでいる

第三のタイプはスピリチュアリズムの教義の道徳性の高さを称賛するだけにとどまらず、それを日常生活で実践している人たちで、これが本物のスピリチュアリストというべきであろう。地上生活が束の間の試練であることを納得し、一刻とき一刻を大切にして善行に励み、自己の悪い面を抑制し、死後の霊的生活に備える。

最後のタイプは“急進派”。どの世界にも急進派はいるもので、スピリチュアリズムにも、熱心ではあるが思慮分別に欠けるために、結果的には誤解されるもとになっている人がいる。こういうタイプの人は日常の人間生活においても信頼されていないから、こういう人がスピリチュアリズムを吹聴してくれると、スピリチュアリズムの拠って立つ大義が台なしになってしまう。


昔から「人を見て法を説け」という。否定論者はもとより、スピリチュアリストをもって任じている人たちにも、以上見てきたように、さまざまなタイプがあるので、いかに説くかは相手によって変わってくることになる。ある人にうまく功を奏したからといって別の人にもうまくいくとは限らない。物理現象で得心する人もいれば、思想性の高い霊界通信で得心する人もいる。が、大部分に共通して言えることは、理性的判断力が伴わないといけないということである。

理性的な考察力を持ち合わせていない者には、物理的現象を見せてもほとんど意味がない。現象が驚異的であるほど、あるいは日常的体験から懸け離れているほど疑念の目で見られやすい。その理由は簡単である。人間というのは合理的に解明されないものは疑ってかかる性向があるからである。そして、それを各自の視点で捉え、自己流に解釈する。

唯物論者はあくまでも物理的な原因、要するに何らかのトリックがあると決めつける。無知で迷信を信じやすい者は悪魔的な、あるいは超自然的な何ものかの仕業にしたがる。が、あらかじめ霊的原理の解説をしておくと偏見を解き、真実性までは行かなくても、少なくともそうした現象の可能性を得心させる効果はある。みずから解説を求めてから実験に立ち会う者は、すでに理解ができているから、現象を目のあたりにすることで、容易にその真実性の確信に到達する。


頑固に信じようとしない人間を説得する必要が果たしてあるかどうかを考えてみると、これは、すでに述べたように、その“不信”の原因がどこにあるのか、あるいはどういう魂胆があるかによって決まる。中には、しつこく説得されることで却ってつけ上がって、ますます意地を張る人間がいる。

論証をもってしても、あるいは実証をもってしても得心しない人間は、まだ当分の間、不信という名の牢の中で暮らすしかないのであろう。いつの日か事情の変化で目覚めるよう神が計らってくださるのを祈るしかない。真理の光に目覚める準備の整った人間が大勢いるというのに、ただ心の扉を閉じることしか知らない人間に構っている暇はないのである。

霊的真理を正しく理解した人は自然に善行に励むようになるものである。苦しみの中にいる人に慰めを与え、絶望の淵に沈んでいる人に希望を与え、道徳の向上に役立つ仕事に進んで協力する。そこにその人たちの使命があると同時に、生きる喜びを見出すのである。するとそこに自然発生的に真の幸せのムードが漂うようになる。そのムードに影響されて頑迷な否定論者は自分の孤立した生き方に気づく。そこから内省が始まって、真理の光へ向かって進む者と、なおも意地を張って黙りこくる者とが出てくる。


他の分野の科学と同じ要領でスピリチュアリズムを考究しようとすれば、心霊現象のすべてを単純なものから複雑なものへと実験的に検証していく必要があるが、実際問題としてそれは不可能である。というのは、心霊現象の実験は物理学や化学のような要領で追試をするわけにはいかないのである。

では、なぜ追試ができないかということになるが、それは、自然科学の場合は知性も感情もない物質そのものを扱うから、同じ条件のもとで行えば同じ結果が出るが、心霊現象を発生させているのは霊という知的存在であり、自由意志をそなえ、人間の側から命令的に要求を出しても、必ずしもそれに応じてくれないのである。これは、これまでの経験で我々が繰り返し思い知らされてきていることである。

結局人間の側としては、いかなる現象が生じるかの見通しのないまま受身の姿勢で待ち、発生した現象を注意深く観察するしかない。お望みの現象をお見せしますという宣伝文句で客を集める霊媒は、無知であるか、さもなくばペテン師である。人間側の意志ではどうにもならない現象なのだから、要望通りのものは起きないかも知れないし、たとえ同種の現象は起きても、要望したものとは全く異なる条件下で発生するかも知れないのである。

これに加えてもう一つ問題がある。それは霊媒にも得手不得手があって、全ての現象を生ぜしめる霊媒はまずいないということである。となると、全ての心霊現象を研究するためには全てのタイプの霊媒を確保しなければならないことになり、それは現実的に不可能である。

さて、こうした問題を解決するのは至って簡単である。思想面から入ることである。あらゆる現象の観察結果の説明を読み、その要旨をつかみ、可能性の全てを理解し、それらが発生するための条件と、遭遇する可能性のある困難を知ることである。その上で実験に臨めば、いかなる現象が発生しても理解がいくし、不意をつかれることもない。反対に、期待がはずれて失望することもないし、困難や危険の予備知識もあるので、痛い目にあうこともない。


スピリチュアリズムに思想面から入ることには別の利点がある。その思想のスケールの大きさと本来の目的を認識することになることである。たとえばテーブル通信(テーブルが浮揚して、その脚の一本が床を叩いてメッセージを伝える現象)だけを見た者は、かりに興味を抱いても面白半分の気持ちからであって、まさか宇宙・人生の千古の謎を解き明かす深遠な思想を生むに至るとは想像も及ばないであろう。証拠を見ずして信じるに至る人は決して軽薄ではないどころか、論説をよく読み理解しているがゆえに、最も知的であり、最も思慮深いと言えよう。

この種のタイプの人は形体よりも実質に重きを置く。現象は付属的なものでしかなく、かりに現象が発生しなくなっても、思想そのものは人類にとって未解決の難問を解く唯一のカギであり、これまでに提示されてきたいかなる説、否、将来提示されるであろういかなる説よりも合理的なものとして存在し続けることを認識している。その理論を確認する物証としての現象の価値は認めるが、現象が基本だとは考えていないのである。

では理論から入った者は現象による確認はしないのかというと、決してそうではない。それどころか、その理論を裏づける事実を豊富な自然発生的心霊現象で確認している。この言わば“突発的心霊現象”については後章で取り扱う予定であるが、これは意外に多くの人が体験していて、ただ、あまり関心を向けなかっただけのことである。

実はこの突発的現象というのは、物的証拠が残っていないという弱点はあるが、信頼のおける証言があれば大いに価値がある。かりに実験会における心霊現象というものが存在しなくても、突発的現象の中にそれに代わりうるほどの証拠性のあるものが豊富にあるのである。

訳注――ここではカルデックは物的証拠ないしは客観的物証の観点から述べているが、霊の実在、つまり死後存続の確信というものは、あくまでも主観的なものであって、物証がなく他人に信じてもらえなくても、自分の内的直観力で「間違いない」と確信できる体験は、意外に多くの人が体験しているものである。

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