2章 驚異的現象と超自然現象

霊および霊的現象の存在を肯定する説が単なる理論上の産物にすぎないとすれば、目撃されたものは全て幻覚だったことになるかも知れない。しかし、太古から現代に至るまで、あらゆる民族の民間信仰、および“聖なる書”と呼ばれている経典の中にその事実への言及が見られるという事実は、どう理解すべきであろうか。

この問いに対して、いつの時代にも人間は驚異的なものを求めるものなのだ、と答える人がいる。では、驚異的なものとは何であろうか。それは超自然的な現象のことだと答えるであろう。では“超自然的”という用語はどう解釈しているのであろうか。たぶん、大自然の法則と矛盾するもの、と答えるであろう。

実は、これは傲慢この上ない答えである。大自然の法則を全て知りつくした者にしか言えないことだからである。もし全てを知りつくしているとおっしゃるなら、霊および霊的現象の存在が大自然の法則とどう矛盾しているかを証明していただきたいものである。なぜ自然法則でないのか、なぜ自然法則とは言えないかを証明していただきたいのである。

さらにお願いしたいのは、スピリチュアリズムの教説をしっかりと検証していただき、観察した現象から引き出す推論の流れにもきちんとした法則があること、そして、これまでの哲人の頭脳をもってしても解き得なかった千古の謎を見事に解決していることを確認していただきたいのである。

思念は霊の属性の一つである。霊が物質に働きかけることができるのも、人間の感覚に反応することができるのも、そしてその当然の結果として思念を伝達することができるのも、言うなれば“魂の生理的構造”に起因している。この事実には何一つ超自然的なものも驚異的なものもない。

仮に死んだ人間が生き返り、バラバラの肢体が元通りになったとしたら、これは確かに驚異的なことであり、超自然的であり、途方もないことであろう。絶対神のみが奇跡という形で生ぜしめることができるものかも知れない。しかし、それは、みずからこしらえた摂理を神自身が犯すことになる。スピリチュアリズムにはその種の奇跡は一切ない。


そう言うとこう反論する人がいるであろう――「霊がテーブルを持ち上げ、空中に浮いた状態を保つことができるというが、それは大自然の法則の一つである“引力の法則”に反するのではないか」と。

その通りである。たしかに一般に理解されている引力の法則には反している。が、そう反論なさる方は、大自然の法則の全てが明らかになったと思っておられるのであろうか。上昇する性質をもつガスが発見される前に、気球にガスを詰めて数人の人間を乗せて空高く舞い上がるなどという光景を想像した人がいたであろうか。無線電信が発明される前に、地球の反対側から発信したメッセージが何秒もかからずに届く機械の話をしたら、その人は狂人扱いをされたことであろう。

同じことが心霊現象についても言える。従来の科学では存在が確認されていないエクトプラズムという特殊な物質があって、それを霊が操作して物体を持ち上げたり動かしたりするのである。それは厳然たる“事実”なのである。そして、いかなる否定論をもってしても、その事実だけは否定できない。なぜなら、否定することと、誤りを立証することとは別だからである。数多くの実験を見てきた我々から見れば、そこに何ら自然法則を超越したものは存在しない。今のところ我々はそう表現するしかない。

次のように反論する人もいるであろう。「その事実が証明されれば、おっしゃる通りに受け入れよう。エクトプラズムとかいう物質の存在も認めよう。しかしそれに霊が関与しているということをどうやって証明するのか。もしそれが事実であれば、まさしく驚異的であり、それこそ超自然現象である」と。

この種の疑問に対しては実際に実験に立ち会っていただくのがいちばんいいのであるが、取りあえず簡単に説明すれば、まず論理的には、知的な現象には知的な原因が作用しているに相違ないこと。次に実際的には、スピリチュアリズム的な現象は今も言った通りの知的な作用が証明されているので、物質とは異質のものに原因があるに相違ないということである。言いかえれば、実験会の出席者が行っているのではなく――これは実験で十分に証明されている――何か目に見えないもので、しかも知性を備えているもの、ということである。

それが何ものであるかについて、これまで繰り返し観察してきて、次のような確信に帰着している。すなわち、その目に見えない存在は我々が“スピリット”と呼んでいるもので、しかもそれはかつて地上で生活したことのある人間の魂であり、死によって肉体という鈍重な衣服を脱ぎ捨て、今では肉眼に映じないエーテル質の身体をまとって異次元の世界で生活しているということである。

肉眼に映じない知的存在が霊であることが証明されれば、物質に働きかける力は霊そのものに備わっているとみてよい。その働きかけには知性が見られる。それは当然のことで、死は肉体だけの崩壊であって、個性も知性もまったく失われないのである。

このように、霊の実在は、事実にうまく合うようにこしらえた理論ではなく、また、ただの仮説でもない。実験と観察の末に得られた結論であり、人間に魂が内在するという事実からの当然の帰結なのである。霊の実在を否定することは魂とその属性を否定することになる。もしもこれ以外にもっと合理的に心霊現象を解明する説があるとおっしゃる方がいれば、ぜひともお聞かせいただきたいものである。心霊現象の全てを明快に説き明かすものでないといけない。もしあればスピリチュアリズムの説と並べて検討するにやぶさかではない。


自然界には物質しか存在しないと考えている唯物主義者にとっては、物理法則で説明できないものは全て“驚異的”で“超自然的”であろう。その意味での驚異的現象とは“迷信”と同義語にほかならない。そういう概念を抱いている人にとっては、物質を超越した原理の存在の上に成り立っている宗教も迷信の一組織でしかあり得ない。

と言って、そのことを大っぴらに公言する人はほとんどいない。みんな陰でささやき合っているだけである。そして公的場面で意見を求められると、宗教的人間にとって必要であり、また子供に規律ある生活を送らせる上で必要である、といった表現で体面を保とうとする。そういう態度をとる人たちにスピリチュアリズムは次のような主張を提示したい。すなわち、宗教的原理というものは真理であるか、さもなければ間違っているかのどちらかであり、もし真理であれば、それは万人にとって真理なのであり、もし間違っているとすれば、英知に富む人々にとってだけでなく、無知な人々にとっても何の価値もないことになる、と。


スピリチュアリズムのことを驚異的現象をもてあそぶだけの一派として攻撃する人々は、唯物主義者の音頭をとっているようなものである。なぜなら、物質的範疇をこえたものを全て否定することは、人間に魂が内在することを否定することになるからである。

否定論者の論説を突き詰め、その主張の流れを検討してみると、結局は唯物論の原理から出発していることが分かる。彼らはそれを公然とは露呈しない。が、いかに論法を合理的につくろってみても、彼らの否定的結論は、当初からの否定的前提の結果に過ぎないことが分かる。人間に不滅の魂が宿っていることを頭から否定しているから、魂の存在を前提とした説にはことごとく反論する。原因を認めない者に結論を認めることを要求するのは、しょせん無理な話なのである。


以上の論説をまとめると次の八項目になろう。

一、全ての霊的現象は、その根本的原理として、魂の存在とその死後の存続を示唆していること。つまり現象は死者の霊が起こしているのである。

二、その現象はあくまでも自然法則にのっとって生じているのであり、通常の意味での“驚異的”でも“超自然的”でもない。

三、“超自然現象”とされてきたものの多くは原因が分からないからに過ぎない。スピリチュアリズムではその原因を突き止めることによって、全てが自然現象の範疇におさまることを証明している。

四、ただし“超自然現象”とされているものの中には、スピリチュアリズム的観点から検討して絶対にあり得ないこと、したがって単なる迷信の産物に過ぎないものもある。

五、スピリチュアリズムは、古来の民間信仰の中に真理と認められるものもあることは認めるが、それは、他愛もない想像上の産物の全てを真理と認めるということではない。

六、虚偽の事実でもってスピリチュアリズムの真実性を否定する行為は、無知であることを証言するようなものであり、一顧の価値も認められない

七、スピリチュアリズムが本物と認めた霊現象を正しく解明し、そこから引き出される道徳的教訓を確認することによって、新しく心霊科学というものが生まれ、新しい霊的思想が生まれている。これは忍耐づよく、真剣に、そして注意ぶかく考究していくべき重大な課題である。

八、スピリチュアリズムを根本から論破するためには、まず心霊現象を徹底的に検証して、良心的態度で根気よく、その意味するところの深奥を考究し、さらにはスピリチュアリズムの説を各分野にわたって一つ一つきちんと反論できなくてはならない。否定するばかりではいけない。きちんと論理的に反論できなくてはいけない。要するに、これまでにスピリチュアリズムが出してきた結論よりもさらに合理的な説を提示できなくてはいけない。が、これまでのところ、そのような立派な反論を唱えた人はいない。

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