(2)スピリチュアリズムとキリスト教

スピリチュアリズムは欧米のキリスト教圏の中から現れました。そのスピリチュアリズムの説く内容がキリスト教の教義を根本から否定するものであったため、当初より現在に至るまで、キリスト教会からの激しい反対や多くの妨害・迫害に遭遇してきました。そうした逆境を乗り越えて、スピリチュアリズムは発展してきたのです。そして現在では、キリスト教会がどれほど反対しても、もはやスピリチュアリズムの勢いを阻止することはできない状況に至っています。

キリスト教会は、勇気を持って教義の誤りを認め再出発をはからないかぎり、人々から見離されてジリジリと衰退し、内部崩壊・自滅という道をたどらざるをえなくなります。とは言っても、現在の地球上の宗教の中で最大の力を持っているのはキリスト教であり、スピリチュアリズムにとって今しばらくは“最大の敵”ということになります。

ここでは「霊的事実」の観点から、キリスト教の問題点を整理してみます。

霊的事実と懸け離れたキリスト教の教義

キリスト教の最大の問題点は、その教え(教義)自体が霊的事実と著しく懸け離れている、というところにあります。キリスト教はこの二千年の間、いつわりの教義で人々の心を支配してきました。それは単なる偽りというだけにとどまらず、人間にとって最も大切な霊的成長を根本から阻害し、停滞させるという“大罪”を犯してきたのです。

その偽りの教義の中で最も有害なものが“贖罪しょくざい思想”です。「唯一の神の子イエスが身代りの血を流し、このイエスを信じることによって人間は救われるようになる」という教えです。しかし霊界のどこを見ても、そうした事実はありません。「自分の魂を救うのは自分だけである」――これが神の造られた「因果の法則」であり、そこに例外はありません。イエスを信じたというだけで救われた人間は、霊界には一人もいません。罪をあがなってくれる救い主は不要です。「人類始祖の堕落により全人類が原罪を持つようになった」という聖書の記述は単なる比喩ひゆであり、霊的事実として原罪は存在しません。「イエスが十字架の死によって人間の罪を贖い、そのイエスを信じれば救われる」という教えは、後世の人間が勝手につくり上げた空論であって霊的事実ではありません。

当然のこととして「終末の審判によって復活にあずかり、永遠の生命を得るようになる」という説も間違いです。

聖書は神の言葉ではない

クリスチャンは聖書を“神の言葉”として無条件に信じています。たとえその中に矛盾があっても、根本的に神の言葉である以上、そのまま信じるべきものとしてきました。そのため今述べたような理性的には矛盾だらけの教えも、神の言葉として受け入れられてきたのです。クリスチャンにとっては、自分の理性が納得できるかどうかよりも“無条件に信じる”ことが重要であったのです。

重大な結論を言えば、聖書は神の言葉ではありません。神の啓示を記したものではありません。聖書の記述の多くは人間の手によってつくり上げられたものであり、まさに人工の書物と言うべきものです。聖書には、意図的に書き加えられた霊的事実に反する内容が数多く含まれています。イエスの言行を弟子たちが記したとされる『福音書』そのものが非常に曖昧あいまいで、成立過程において人為的要素がかなり付け加えられています。イエスの誕生というきわめて重要な記述についても、マタイ伝とルカ伝では全く内容が異なっています。聖書は一応、西暦九十年に完成したことになっていますが、それは編集して書物の形にまとめられたというだけのことであって、それ以前にもその後にも、多くの改ざんがなされているのです。

聖書の解釈をめぐって、いくつもの宗派が生まれました。しかし聖書が人工的な教えや比喩ひゆによってでき上がっているものである以上、文字づらの解釈だけに走れば、新たな矛盾・問題を生み出すようになります。もともと矛盾だらけの聖書を、いくら論理的に解釈しようとしても無意味なことなのです。

政治的陰謀によってつくり上げられたキリスト教の“根幹教義”

キリスト教の間違った教義の形成に決定的な影響を及ぼしたのが、西暦三二五年にニケーアで開催された宗教会議です。このとき政治的陰謀によって「イエスは神である」との教義が強行採択され、キリスト教の正統教義となってしまいました。

時のローマ皇帝コンスタンティヌスは、ローマ帝国内の宗教対策としてイエスを神とするキリスト教をつくり上げ、これを国教にしようと考えました。歴史上、コンスタンティヌス帝はキリスト教を国教にした賢帝としてたたえられていますが、実際には、真実とは全く懸け離れたキリスト教をでっち上げ、これを政治的に利用しようとしただけのことだったのです。コンスタンティヌスによるその陰謀のあらましが、歴史的資料によって明らかにされています。

それによればローマ全土の神学者を集めた“ニケーア公会議”の表向きの目的は、ギリシャの神学者アリウスの説「イエスは神ではない」を討議するというものでした。しかし会議で自分の望む案がアリウス派によって否決されると、怒ったコンスタンティヌス帝はローマ兵に命じてアリウス派を力ずくで会場から追放し、残った皇帝派の三百人でイエスを神とする教義を採択してしまいました。時代がくだり十九世紀に至って、このときに追放されたアリウス派の司教たち千五百人から千七百人と言われる)の書き残した記録や交換文書が発見され、事の真相が明るみに出されるようになりました。その資料をまとめた書物が一八八六年に出版され、大きな反響を巻き起こしました。

この資料は、現在まで受け入れられてきたキリスト教の“根幹教義”が政治的策謀によって人工的につくり上げられたものであることを証明しています。キリスト教における根幹思想が、人間の権勢欲からつくり出されたものであることが歴史的資料によって明らかにされたのです。しかし遺憾いかんながら今日まで、キリスト教会はこの資料をまともに受け止めようとはしてきませんでした。聖書は神の言葉ではなく、政治的陰謀によって人間がつくり出した書物であることが、多くの考古学資料(外典資料)を通して、今後さらに明らかにされていくようになるでしょう。

スピリチュアリズムが明らかにした“イエスの実像”

聖書に見られるイエスの言葉には、生前のイエスが語ったものではない内容も含まれています。初期のキリスト教徒は、イエスが遠からず“再臨”するものと信じていたため、その地上生活について細かく記録することをしませんでした。しかしいつまで経っても再臨しないので、仕方なく諦めて記憶をたどりながら、イエスの言ったことを記録にとどめることになったのです。

聖書のもとになった原典の編集者は、イエスから直接教えを受けた者との接触はなく、当時の風聞をもとに間接的に資料を得たにすぎません。聖書には地方に伝わる民話や伝説なども取り入れられ、キリスト教に都合のいい“イエス像”がつくられていきました。その内容は、真実のイエスの姿からは大きく懸け離れています。イエスにまつわる記述の多くが、イエスを“神格化”するために書き加えられたものなのです。

――聖書は西暦九十年に完成したとされていますが、聖書のもとになった文書(原典)は、バチカン宮殿の奥にしまい込まれ、一度も外部に持ち出されたことはありません。現在、人々が目にする聖書は、原典のコピーのコピーのそのまたコピーであり、そうした過程において原典にないものまで、いろいろと書き加えられています。

新約聖書はイエスの死後、人間の手によって捏造ねつぞうされた内容が付け加えられた人工的な書物なのです。

では、高級霊の霊界通信では、イエスの実像をどのように明らかにしているのでしょうか。結論を言えば、イエスは私たちと何も変わらないごく普通の人間であったということです。イエスは一人の人間として生まれ、育ち、死んでいきました。特別な神の一人子として誕生したのではありません。

その一方でイエスは、聖書の中に記されているような数多くの目覚しい奇跡(心霊現象)を実際に引き起こしました。それはイエスのサイキック能力(心霊能力)がずば抜けていたために可能となったことでした。イエスは傑出した超能力者だったのです。それと同時にイエスは、きわだって優れた霊性の持ち主でもありました。人類史上、最高の霊的レベルにまで至った人間だったのです。イエスはその高い霊性によって肉体が浄化されていたため、肉体が霊通の障害とはならず、地上にいながらにして直接、霊界の高級霊や天使たちと交わることができました。

イエスは地上に誕生する前は、霊界において一人の高級天使として存在していました。それが「地球人類の救済」という使命を担って、人間の“肉体”をまとい地球人として地上に誕生することになりました。そしてその時から始まった使命が、今日までずっと続いているのです。現在“スピリチュアリズム”と呼ばれる地球浄化・人類救済の大事業の総指揮を執っているのが、このイエスなのです。

イエスに対する正しい姿勢

こうしたイエスについて私たちはどのように考えるべきなのでしょうか。私たちもイエスと同じ神の子供であり、その点では何も変わりありませんが、イエスは特別に高い霊的成長レベルに至った人間でした。そのイエスの生前の生き方は、私たち地上の人間にとっての偉大な模範であり手本です。真理を貫き通したイエスの気高く美しい生涯は、すべての人間にとっての見本であり、まさに“神の子”と呼ぶにふさわしいものでした。

とは言っても、一人の人間であるイエスを崇拝の対象としたり、神の座に祭り上げるのは間違いです。イエスを崇拝したところで、イエス自身は決して喜ばれません。むしろイエスに大きな悲しみを与えることになってしまいます。それはイエスの使命そのものを否定することだからです。イエスが最も喜ぶのは、イエスによって示された「神の法則(利他愛)」を人々が忠実に実践し、霊的成長の道を歩むことなのです。

クリスチャンにとって、これまでのキリスト教の間違いを認めることは、自分の人生そのものを否定するほどの重大事です。しかしイエスを喜ばせイエスを愛するためには、従来の間違った信仰をきっぱりと捨て去らなければなりません。スピリチュアリズムの歴史の中には、スピリチュアリズムと出会ってキリスト教の間違いに気づき、キリスト教から転向した多くの牧師たちがいます。こうした人たちの手記や、改宗に至るまでの苦悩に満ちた内面葛藤の記録を読むことによって、真実の道を歩み出す勇気を与えられるようになるはずです。

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