(1)因果の法則に基づく「罪と罰」

“罪”とは

私たち人間の霊的成長は、神の造られた摂理(法則)にそって達成されるようになっています。ところが地上という物質世界で生活する人間は、しばしばこの法則を踏み外してしまいます。大半の地上人が神の摂理に反した行為(過ち)を犯してしまいます。この神の摂理に反した行為が罪です。“罪”とは具体的には――「物質や本能に支配されてしまうこと(肉主霊従)」と「利己的な行為をすること」を意味していますこれについての詳しい説明は、第二部で取り上げます)

地上人の中で、一切“罪”を犯さないという人間はいません。霊的真理を知らず、何が正しくて何が間違っているのかを知らない人間が、神の摂理からずれた行為をすることなく地上人生を過ごすことはできません。

“罰”とは

因果の法則(原因と結果の法則)という神の摂理に支配されている世界では、自分のなした間違った行為(罪)は、必ず何らかの悪い結果を生み出すようになります。この結果が“罰”なのです。神の摂理に反した行為(罪)に対しては“罰”という結果が生じますが、恐ろしいことに、それは寸分の狂いもなく機械的正確さをもって発生するようになっています。

こうした「原因と結果の法則」すなわち「罪と罰の法則」から逃れられる人間は、誰ひとりいません。少々悪いことをしてもごまかしがきく、他人を騙すことができると思う人がいるかもしれませんが、霊的法則をごまかすことは絶対にできないのです。摂理に反した行為(罪)に対しては、“罰”としての苦しみが間違いなく発生するようになるのです。

「罪の償い」と、苦しみに対する感謝

一般に罪の結果である罰は、“苦しみ”という形でもたらされます。罰としての苦しみは、霊的観点からすると「罪の償い」のための不可欠なプロセスと言えます。人間は罪を償わないかぎり、さらなる霊的成長の道を歩むことはできません。その意味で苦しみは、霊的成長の道をリセットしてくれるチャンスであり、やり直しの機会となるのです。「罪の償い・悪いカルマの清算」は、苦しみの体験を通してなされるようになっています。

大半の人々は“苦しみ”があることを不幸・不運と考えていますが、「因果の法則」という霊的視野から見るなら、それは霊的成長のために必要なものであり、ありがたいものと言えます。霊的真理を知らない者、また知っていてもついつい地上的視野で物事を眺めてしまう人間は、なかなか苦しみを善いものと考えることはできませんが、本当は感謝すべきものなのです。

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