(2)動物への虐待

……生命の尊厳性の無視、弱者に対する冷酷さ・無慈悲さ

動物に対する人間としての本来の在り方に比べ、今日、地上で行われている動物への虐待は目を覆うばかりです。いずれの霊界通信も、地上人の動物に対する非道さを声を揃えて非難しています。霊界サイドでも熱心に“動物愛護運動”が進められています。そして地上の愛護団体に対して霊界から全面的な協力がなされています。

霊界通信が特に動物への虐待として挙げているものは、次の三つです。

“狩猟のための殺害”

――楽しみで動物の生命を奪う非道さ

動物に生命を与えたのは神であって人間ではありません。人間には動物の生命を奪う権利はありません。まして自分の楽しみのために動物を殺すようなことは許されません。霊的視点から見れば、楽しみのための狩猟は“殺人”と同じ罪を犯していることなのです。

“食用のための殺害”

――生命の尊厳性を無視する残酷さ

食用のために動物の生命を奪うことや、食料として動物を残酷な環境で飼育することは、生命の尊厳性を犯す行為です。動物を殺して、それを食料とすることは“罪”なのです。現在の地球上では“肉食”がごく当たり前のこととして行われていますが、霊界から見ると、まさに気違いじみた習慣です。

わざわざ動物の肉を食料にしなくても、人類は飢えて困るようなことにはなりません。食料を得る方法は他にいくらでもあるからです。家畜用のエサになっている穀物を人間に回せば、地球上の飢えの問題はただちに解決します。神は、地上の人間の誰ひとり飢えることがないだけのものを、常に大地から与えてくださっているのです。こうした点から考えても、肉食は明らかに間違っています。

“動物実験”のための無慈悲な殺害

医学の発展という大義のもとで、現在では動物を用いた生体実験・研究が当たり前のこととして行われています。しかしそうした摂理に反した方法で、人間が本質的な健康を手に入れることはできません。動物を用いた生体実験は“唯物的医学観”に基づく誤った手段なのです。

人間の健康のためなら動物の生命を犠牲にしてもよいというのは、たいへん傲慢な考え方です。

霊的真理の普及と、動物虐待の減少

神から生命を与えられたという点で、人間と動物は同じ価値を持っている平等な存在です。繰り返しますが、動物の生命を奪う権利は人間にはありません。これが動物に対するスピリチュアリズムの基本的な考え方です。

しかし“肉食”が当たり前になっている現在の地球上から、すぐに肉食の習慣を廃止させることは不可能です。霊界通信では、現在の地上人がいまだ未熟な霊的レベルにあることを考慮して、「今すぐ肉食をやめるべし」との強い言い方はしていません。肉食習慣の罪悪性を自覚した人から、「自分の意志でやめなさい」と勧める程度にとどめています。また動物を殺す際には、できるだけ残酷性の少ない方法を取るように教えています。

地球人類の間に「霊的真理」が行きわたれば、今述べてきたような動物への虐待は自動的に消滅していきます。霊的真理の普及にともない“菜食主義”が当たり前になっていきます。遠い将来には――「二十一世紀の地球上では“肉食”という残酷で無慈悲な行為が平気で行われていた」と、人々が驚きを持って振り返るような時が必ずやってきます。

動物への愛は、人類の霊性の指標

動物に対する姿勢は、人間の霊性を反映しています。心の底から動物を愛し動物の生命を尊重する人は、決して肉食はしないものです。自分のかわいがっていたペットが死んだとき、その肉を食べることができる人間はいません。自分の愛するペットが動物実験に利用され、七転八倒して苦しむのを平気で見ていられる人間はいません。誰にもこうした慈悲の心はあるのですが、その一方で平気で肉食をするという大きな矛盾を犯しています。

厳しい言い方になりますが、“肉食”によってペットに対する愛の行為の素晴らしさが打ち消されてしまっています。「動物を虐待する」ということは、真実の愛の乏しさ・霊性の低さを示しています。動物に対して平気で非道な扱いをする者は、人間に対しても、やはり同じように非道なことをするものです。動物に対して思いやりを持てない者は、人間に対しても本当の愛を持てないのです。

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