1章 自然法則

〈自然法則の特性〉

――自然法則とは何でしょうか。

「神の摂理です。人間の幸せを保証する絶対的な摂理です。それが人間の為すべき事と為すべきでない事を示しており、それに逆らう者は苦しむのみです」

――神の摂理は永遠ですか。

「神ご自身と同じく永遠にして不変です」

――神の摂理は人間の倫理・道徳面だけに係わるものでしょうか。

「自然界の法則も全て神の摂理です。神が全存在の創造主だからです。科学の探求者は自然界の理法を研究し、善性の探求者はそれを魂の中に求め、そして実践します」

――人間はその全摂理に通暁できるのでしょうか。

「できます。ただし、たった一度や二度の地上生活では無理です」

――摂理は宇宙の全天体にわたって同一なのでしょうか。

「理性的に考えれば、当然、各天体の特殊性とそこに住む存在の発達程度に応じたものであるに決まっています」

〈自然法則の理解〉

――物的身体に宿る前の霊は、宿った後よりも神の摂理を明確に理解しているのでしょうか。

「到達した霊性の発達レベルに応じた理解をしており、身体に宿った後も直覚的な回想力を保持していますが、低劣な人間的本能がそれを忘れさせます」

――その摂理の理解は霊のどこに刻み込まれているのでしょうか。

「良心(善悪の分別力)です」

――良心に刻み込まれたものを、なぜ改めて啓発する必要があるのでしょうか。

「低劣な本能のせいで忘却したり誤解したりしているからです。人間がそれを思い出してくれるようにというのが神の御意志です」

――神はそうした摂理を外部から啓示する使者を派遣しておられるのでしょうか。

「もちろんです。あらゆる時代にその使命を授かった者がいます。霊性の高い霊で、人類の発達を促進する目的で地上へ降誕しています」

――そうした使者の中で模範とすべき最も完全に近い人物は誰でしょうか。

「ナザレのイエス」

訳注――カルデックの背後霊団がスピリチュアリズム、すなわち地球浄化の大事業の一翼を担っていたことは改めて指摘するまでもないであろう。巻頭の《カルデックへの霊団からのメッセージ》に「イエスの偉大なる愛の原理のもとに集える我々は」云々……とあるのを見ても明らかである。スピリチュアリズム運動の最高責任者がほかならぬあのナザレのイエスであることはシルバーバーチもインペレーターも明言している。

そのイエスは一体どういう風貌をしていたのだろうか。数多いインディアンの指導霊の一人であるホワイト・ホークが叙述しているところを紹介しておくと「体格はすらりとして品があり、髪はコーン色(浅黄)、顔は色白で卵形、わずかに頬が張り、髪よりも黒みがかったクリ色のアゴひげをたくわえていた。腕はほっそりとしていたが強靭で、容貌は優しさの中に憂いをたたえ、いつも紫色のマントをまとっていた。」

〈善と悪〉

――道徳的摂理とはどう定義づけたらよいでしょうか。

「道徳的摂理とは正しい行為を判断するための規準です。言い変えれば、実践において善と悪とを分別するための規準です。神の摂理の遵守が基本です。行為の動機と規準が善を志向するものであれば、その行為は正しいと言えます。神の摂理を遵守したことになるからです」

――善と悪との分別は何を規準にしたらよいのでしょうか。

「善とは神の摂理に適ったものであり、悪とは神の摂理から逸脱したものです。正しい行為とは神の摂理に適ったことをすることであり、過った行為とは神の摂理を侵害することです」

――人間には自ら善悪をわきまえる能力がそなわっているのでしょうか。

「その両者を弁別するための直観的判断力(良心)が授けられています」

――自分では正しいと思っても間違っていることがあります。

「イエスが言っております――“自分がしてもらいたいと思うように他人にもしてあげなさい”と。道徳的摂理の要諦はこの言葉に尽くされております。これを行動の規準にすることです。決して間違えることはありません」

――それは言わば相互依存の関係であり、自分自身に対する個人的な行為には当てはまらないと思うのです。自分自身への行為の善悪にも判断の規準があるのでしょうか。

「食べ過ぎると胃腸の調子がおかしくなります。神はその不快感をもって各自の限度の規準としています。その限界を超えると神が罰するということです。同じことが他の全てのことについて言えます。何事にも摂理によって必要限度というものが設定されており、それを超えると自動的に苦しみが生じて罰せられます。“それで十分”という神の声に人間が耳を傾けるようになれば、天災と思い込んでいる地上の災害の大半が未然に防げるはずです」

――善と悪は全ての人間にとって絶対的なものでしょうか。

「神の摂理は全ての人間に分け隔てなく働きます。が、罪悪はその実行に当たっての魂の欲望の中に潜んでいます。善はあくまでも善であり、悪はあくまでも悪であり、地位や職権には関係ありません。異なるのは責任の度合いです」

訳注――シルバーバーチは「罪は動機によって決まる」と一貫して述べている。ここでは「その実行に当たっての欲望」という難しい表現をしているが、煎じつめれば“動機”という用語に含まれているのではなかろうか。誉れ高き地位や名声を手にすると、善悪の判断に際してそれを失うまいとする欲望が先走り、良心との葛藤が渦巻く。しかし、シルバーバーチ曰く――「良心が命じることは、たとえその方向へ進むと物的には不遇になることが分かっていても、迷わず従いなさい。最後はきっと良いようになります。難しく考えることはないのです。これほど簡単な話はありません。」

とは言え、肉体をまとって地上の人間になってしまうと、それがそう簡単に行かない。“低劣な人間的本能”が邪魔をするのであるが、逆に考えると、だからこそ地上の物的生活の意義もあるのではなかろうか。

――すでに罪悪のタネが蒔かれていて、たまたま置かれた地位や立場上その責任を負わざるを得ないことがあります。この場合、最大の咎めを受けるのは誰でしょうか。

「最初にタネを蒔いた者です。罪悪そのものに対して責任を取らされるだけでなく、図らずもそのトラブルに巻き込まれた者がこうむった苦しみに対しても責任を問われます」

――反対に、自分は直接手を染めなかったけれどもその罪悪によって利益を得た者は、直接参加した場合と同じ罪に問われるのでしょうか。

「その通りです。罪による利益を手にした者は、罪を犯したのと同じです。仮に気が咎めて直接犯罪行為に加わらなかったとしても、実際に犯罪が実行され、その結果として得られた分け前を懐にすれば、直接参加したのと同じです」

――心に罪悪の思念を宿すということは、それを実行した場合と同じ罪に値するのでしょうか。

「それはそのケースによりけりです。犯意を抱きながらも、やはりいけないと必死に抑制した場合、これは立派です。しかし、同じく実行しなかった場合でも、実行するチャンスが無かったというのでは、これは罪を犯したのと同じです」

――置かれた立場上、善行のチャンスがないという人はいないでしょうか。

「善行のチャンスがない人間は一人もいません。もしいるとすれば、それは利己主義者のみです。人間関係が全く無いというのならともかく、毎日のように他人と接するチャンスがある生活環境においては、よほどの利己主義者を除いて、何らかの善行のチャンスはあります。善行というのは人に物を上げることを言っているのではありません。どんな形でもよろしい、他人の役に立つことをすることです」

――試練として悪徳の巷に生をうけた場合、悪への誘惑が抗し切れないものとはならないでしょうか。

「強烈ではあっても抗し切れないことはありません。悪徳の環境の中で徳性の高い行いを実践してみせる人はいます。そういう人は霊格の高い霊の生まれ変わりで、その程度の誘惑に負けないだけの霊力を身につけていますから、試練に打ち克つと同時に、周囲の人々に気高い影響力を行使する使命も果たします」

――徳行の価値の高さは、それを実行する環境の厳しさによって計られるものなのでしょうか。

「有徳の行為の価値は、実行の困難さによって決まります。克己も奮闘努力もなしに簡単に成就できるものは何の価値もありません。神は金持ちによる山ほどの供物よりも貧者による一切れのパンの方を嘉納されます。それをイエスは“寡婦の賽銭”の寓話で語っております」(新約聖書マルコ伝12)

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