(2)スピリチュアリズムの善悪観

地球人類救済を目的とするスピリチュアリズムにおいては、善と悪をどのように教えているのでしょうか。霊的真理に照らしてみたときの「善悪観」とは、どのようなものなのでしょうか。

霊的成長が善悪の基準

霊界・宇宙のすべてが神によって造られている以上、当然「神の意志」が善悪の基準となります。創造の業に着手された際の神の意図が、人類にとって普遍的で共通の“善の基準”となります。地球人類は神によって一人の例外もなく、永遠の霊的成長の道をたどるように造られました。すべての人間が果てしない進化向上の道を歩むように創造されました。人間をどこまでも「霊的成長」を求める存在として誕生させたという事実に、神の意志が明確に示されています。この神の意図こそが、人間における善と悪を決める基準となるのです。

スピリチュアリズムは画期的な善と悪の基準を示しています。それは――「善とは霊的成長を促すもの」「悪とは霊的成長を妨げるもの・霊的成長に反するもの」ということです。スピリチュアリズムは神の意図を基準に、このように実に単純に善と悪を定義しています。程度の差はあっても、少しでも霊的成長にプラスとなるものは“善”であり、霊的成長にマイナスとなるものは“悪”であると説いています。これほど単純明快にすべてを説明することができる「善悪観」は、これまでの人類史上には存在しませんでした。

善と悪の具体的内容

では、霊的成長を促すもの(善)とは、具体的にはどのような内容を指すのでしょうか。霊的成長をなすための大原則・基本条件とは、「霊的成長を促す摂理(法則)」のことであり、それは次の二つから成り立っています。

その一つは「霊主肉従」です。これは霊を肉体よりも優位におき、物欲・肉欲に振り回されないようにすることです。もし霊が肉に抑え込まれ、本来の働きができないようであれば霊的成長をなすことはできません。「霊主肉従」とは言い換えれば、「霊的意識を心の中心に据えて、心全体を霊の主導権のもとにおく」ということです。この「霊主肉従」なくして地上人は、霊的成長を達成することはできません。霊主肉従の状態を保ったうえで、初めて霊の持つ本来的能力を発揮することができるのであり、魂の成長が可能となるのです。霊的成長をなすためのもう一つの条件(善)は「利他愛の実践」です。人間は利他愛の実践を通して神の愛を受けられるようになり、神に近づいていくことができるようになるのです。

地上人が霊的成長を達成するためには、「霊主肉従」と「利他愛の実践」の二つが必須条件となります。この二つが霊的事実に基づく善の具体的内容――すなわちスピリチュアリズムが教える“善”なのです。

霊的成長を阻害するもの(悪)とは、今述べた善と反対の内容のことです。霊的成長を妨げ阻害するものは「肉主霊従」と「利己主義」です。これがスピリチュアリズムの説く“悪”の具体的内容です。「肉主霊従」とは、「物欲・肉欲が心の中心を占め、心全体を支配する」ことです。肉主霊従に陥っているときには心全体が「利己的・自己中心的」になり、とうてい霊的成長は望めません。

「霊と肉の闘い」について

キリスト教の善悪観の特徴は、善と悪の関係を「神とサタンの関係」と「霊と肉の関係」として考えることです。霊と肉の問題は、キリスト教の中で重要なテーマです。この問題に対してスピリチュアリズムは、霊的事実に基づいて明快な見解を示しています。

霊界人には肉体がないため、地上人のような物欲・肉欲はなく利己的思いもありません。「完全な霊主肉従の状態」が保たれるようになっています。このため霊界には、地上で当たり前と思われている悪の要素が全く存在しません幽界下層の“地縛霊”のいる場所は例外です)。すなわち霊界は「善(利他性)」のみが存在する世界、善一色の光り輝く世界となっているのです。もちろん霊界でも、善の程度の違いはあります。一人ひとりの間に、利他性の深さ・広さ・強さの差はありますが、地上のような「悪(利己性)」は見当たりません。

地上人は肉体を持っているため、霊主肉従の状態を保つことがきわめて困難です。真剣なスピリチュアリストであっても、なかなか霊主肉従の状態を維持できません。毎日の生活の中では、「霊主肉従の状態」と「肉主霊従の状態」が交互に繰り返されることになります。そのため霊的に成長すればするほど内面の闘いが熾烈しれつになり、多くの苦しみを持つようになります。従来のキリスト教は、この肉主霊従に傾きやすい心の傾向を“罪”と見なしました。人類始祖の原罪を引き継いだ人間は皆“罪人”であるため、肉体の誘惑にさらされると考えたのです。

しかし霊的事実として、原罪はありませんし、それをつくり出したとされるサタンも存在しません。当然、人間は罪人ではありません。人間には「霊的成長の度合いの違い」があるだけなのです。霊的に未熟な人間と霊的に進歩した人間――つまり人それぞれの霊的成長レベルがあるということなのです。人間は“肉体”という物質の道具をまとっているため、絶えず物欲・肉欲にさらされることになります。それゆえ霊的成長を目指す人間は、否応なく悩みを持つことになるのです。

しかしそうした内面の葛藤は、神が子供である人間を成長させるために与えた課題であり、魂の訓練内容なのです。それはまさに「神の愛」から出たものであり、ありがたく受け止めるべきものです。内面における「霊と肉の闘い」すなわち「霊主肉従の努力」は、神とサタンの闘いではありません。自己の霊的成長のための闘いなのです。

スピリチュアリズムが明らかにした善悪は、霊肉両者間のバランスによって決まるものであり、「霊」だけが善いものであって「肉」が悪いものということではありません。両者は、ともに神によって与えられた必要なものなのです。地上にいる間は、それを自分の意志でコントロールし、霊主肉従の状態にもっていくための努力をしなければならないということなのです。

悪の繁栄?

人はよく、“この世は悪ばかりが繁栄している。利己主義者の方が成功している”と言って嘆きます。しかし、それは神の造られた「因果の法則」に立って物事を眺めていないところからの間違った見方です。地上人生は永遠の霊界での生活と比べれば、実にわずかな期間にすぎません。それは霊的成長のために与えられた物質世界での貴重な“訓練期間”なのです。

そうした地上人生において利己的行為をするということは、せっかくのチャンスをわざわざドブに捨てるようなものです。それは最高の霊的損失をこうむっていることなのです。 “永遠の宝”を自ら捨て去ることほど愚かなことはありません。利己的行為に走っても何の利益も得られないのですが、死後に待ち受ける霊界の事実を知らないために、目先の価値だけを追求してしまうのです。分かってみれば、そうした者は実に哀れな人間と言えます。

利己的行為という「神の摂理」に反した愚行は、霊的成長を阻害するばかりでなく、いずれ“罪滅ぼし”のための苦しみを招くことになります。いつか必ず苦しみを通して自分の罪を償わなければならなくなります。誰もその法則から逃れることはできません。「利己的な歩みをして、決して得をすることはない。また自己犠牲の歩みをして、絶対に損をすることはない」と高級霊は絶えず強調しています。

地上人生というわずかな期間だけで損得を考えると、何が正しいのか分からなくなってしまいます。物質的に恵まれることが、必ずしも幸福とは言えません。それは霊的に見ると、むしろ不幸である場合が多いのです。

物質世界での生活の意義

地上生活の意義は、善悪同居する中で、その両方の世界を体験するところにあります。神がわざわざ地上世界という物質的環境を造ったのは、そこでの厳しい過程を通して「善(利他性)」の大切さを悟らせ、善を実行する意志を強化させようとしたからです。「悪(物欲・利己性)」の誘惑にさらされ失敗と挫折を繰り返しながらも、何とか困難を克服しようとする闘いを通して人間の霊的成長は達成されるようになっています。

私たちは善と悪の双方を体験するために地上に生まれ、肉体を持って生活しています。そして霊肉の葛藤を体験しながら“善への意欲”を高めていくのです。まさに“苦しみ”の中で魂を成長させる所が、この地上世界なのです。

ホーム

はじめての方へ

関連サイト

サイト内検索

トップ