(1)従来の善悪観

自分を中心とする善悪観と人間同士の争い

人間は社会生活を営む中で、しばしば他人との善悪の考え方の食い違いに遭遇します。一般に人間は、自分や自分たち(グループ)の考えを“正しい”と思いがちです。そして、それと合わない相手を“間違っている”と判断することになります。

こうした善と悪の考え方の食い違いは、家庭内の人間関係から社会・民族・国家にまで及びます。そこからさまざまな争いが発生するようになり、時には戦争という人殺しにまで至ってしまうことになります。二十一世紀の地球上では、多くの民族や国家の間で、妥協のない非難の応酬おうしゅうが繰り返されています。お互いが自分たちの正義を主張して、一歩も譲ろうとしません。こうした善と悪・正義と悪をめぐる自己主張によって地球上には、いまだに悲惨な状況が続いているのです。

また善悪に対する考えは、時代によっても異なっています。一時代昔には善とされていたものが、その後、悪と見なされるようになることがあります。また同じ時代に生きる人間同士であっても、世代によって善悪の考え方に違いがあり、社会問題が発生しています。年寄りと若者が、善悪観や価値観をめぐって決定的に対立しているような場面を、たびたび目にします。

こうした状況を総合的に考慮してみると、これまでの地上における善と悪の基準は、きわめて相対的であり流動的であったことが分かります。その最大の原因は、人類が等しく認め受け入れることのできる「共通の世界観・人生観」がなかったからです。そのため人々は、自己の利益(利害)に基づく正義を主張するだけに終始し、お互いが歩み寄ることができなかったのです。

宗教の善悪観

では宗教においては、善と悪をどのように説いているのでしょうか。宗教でも、自分たちの教えを無条件に“善”としています。多くの場合、その宗教の教義が“善の基準”となっています。したがって宗教ごとに善悪の考え方が異なることになります。宗教組織というグループを単位として善と悪が判断され、主張されるようになるのです。

その中で特に“世界宗教”といわれる巨大な組織と信者を抱えた宗教の善悪観は、人々の意識を強烈に支配し、社会全体に大きな影響を及ぼしています。そして当然のこととして他の宗教と激しく対立し、妥協なき争いを引き起こしています。“自分たちの宗教こそが正義である”という考えから一歩も出ることができず、自らの善悪観に固執することが信仰であると思い込んでいます。自分たちの教義と異なる考えをすべて“悪”と見なすため、宗教の壁を乗り越えることは容易ではありません。このため宗教の絡む争いは、最も陰惨な結末を迎えることになります。

そもそも“宗教”とは、人類に幸福をもたらすはずのものなのですが、その宗教が言語に絶するような悲惨で残酷な争いを引き起こす“元凶”となっているのです。

キリスト教の善悪観・仏教の善悪観

キリスト教は世界最大の宗教ですが、そこでは善と悪をどのように考えているのでしょうか。キリスト教では、世界を「神とサタンの対立」という構図で考えます。すなわち神を中心とする善の勢力と、サタンを中心とする悪の勢力の二大勢力が対峙たいじしているものと見なしているのです。キリスト教では、この世のすべての“悪”は、大もとをたどれば“サタン”から始まっているとします。しかし結論を言えば、キリスト教の善悪観は明らかに間違っています。霊的事実として霊界にサタンはいませんし、サタンを中心とする悪の一大組織・一大勢力も存在しません。

キリスト教は教義の理論化をはかる過程で、神とサタンが対立するという善悪観を、人間の内部における「霊と肉の対立」の問題として展開するようになりました。そして肉体とその欲望を罪悪視する、きわめて偏狭で極端な“罪思想と禁欲主義”を生み出しました。

一方、シャカ仏教では、人間が苦しみを持つのは真理(法)を知らないところに最大の原因があるとします。真理を知らないために我執にとらわれ、そこから苦しみが発生するようになると考えました。悪しき行為は欲望・執着に基づいており、我執を否定する修行を通して、もろもろの煩悩ぼんのうの一つひとつが断たれるようになると説きました。「真理(仏法)」を知らないこと、すなわち「無明・無知」こそが人間の本来性を失わせる原因であり、根本的な“悪”と考えたのです。

ホーム

はじめての方へ

関連サイト

サイト内検索

トップ