6章 真理を悟った人間は決して取り越し苦労はしません

熱心なスピリチュアリストである実業家が、ある日の交霊会で質問した。

「背後霊や友人(の霊)に援助を要請するのは、どの程度まで許されるのでしょうか」

「生身の人間である霊媒との接触によって仕事をしているわたしたちは、地上生活における必要性、習慣、欲求といったものを熟知していなければなりません。物的必要性について無頓着ではいられません。現実に地上で生活している人間を扱っているからです。結局のところ、霊も肉体も大霊のしもべです。霊の宿である肉体には一定の必需品があり、一定の手入れが必要であり、宇宙という機構の中での役割を果たすための一定の義務というものもあります。肉体には太陽光線が必要であり、空気が必要であり、着るものと食べるものが要ります。それを得るためには地上世界の通貨コイン(※)であるお金マネーが必要です。そのこともよく承知しております。しかし、次のことも承知しております。

――奉仕サービスは霊の通貨です”というのがシルバーバーチの決まり文句で、マネーによって物的生活が営まれているように、霊的生活はサービスによって営まれているというのであるが、ここでもそのことを念頭において述べている。

霊も肉体も大霊の僕と申し上げましたが、両者について言えば、霊が主人あるじであり、肉体はその主人に仕える僕です。それを逆に考えるのは大きな間違いです。あなた方は本質的には霊なのです。それが、人間は潜在的に神性を宿していると言われるゆえんです。つまり宇宙の大霊をミニチュアの形で宿していることになります。宇宙という大生命体を機能させている偉大な創造原理が、あなた方一人ひとりに宿っているのです。意識をもった存在としての生命を受けたということが、神的属性のすべてが内部に宿っていることを意味します。全生命を創造し、宇宙のありとあらゆる活動を維持せしめている力があなた方にも宿っており、その無尽蔵の貯蔵庫から必要なものを引き出すことができるのです。

そのためには平静さが必要です。いかなる事態に遭遇しても、心を平静に保てるようになれば、その無尽蔵のエネルギーが湧き出てきます。それは霊的なものですから、あなたが直面するいかなる困難、いかなる問題をも克服することができます。

それに加えて、背後霊の愛と導きがあります。困難が生じた時は、平静な受け身の心を保つよう努力なさることです。そうすれば、あなた自身の貯蔵庫から――まだ十分には開発されていなくても――必要な回答が湧き出てまいります。きっと得られます。われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のその人の発達程度いかんによっては、十分なものが得られないことがあります。しかし、その場合でも、慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。

求めるものが正当か否かは、単なる人間的用語の問題にすぎません。わたしたちから見て大切なのは“動機”です。いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、わたしたちが第一に考慮するのは、その動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、決して無視されることはありません。それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものが、その祈りへの回答を生み出す原理を作動させるのです」

ここでメンバーの一人が「学識もあり誠実そのものの人でも取り越し苦労をしています」と述べると――

「あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たし、しかも何の取り越し苦労もしないで生きていくことは可能です。のほほんとしていてもよいと言っているのではありません。そんな教えは、かりそめにも説きません。むしろわたしは、霊的真理を知れば知るほど、人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要はどこにもないと申し上げているのです。霊的成長を伴わない知的発達も有り得るのです」

最初の質問者「あからさまに言えば、取り越し苦労性の人は霊的に未熟ということでしょうか」

「その通りです。真理を悟った人は決して取り越し苦労はしません。なぜなら、人生には大霊の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。無用の心配をするという、そのことが、霊的成長の欠如の指標であると言えます。たとえわずかでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。確信があれば心配の念は出てこないでしょう。

偉大なる魂は、泰然自若たいぜんじじゃくの態度で人生に臨みます。確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺させられることはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それがわたしたちの霊的教えの土台であらねばならないからです。

その基本法則にもとることでも起こり得るかのように説く教えは、すべて間違いです。原因と結果の間には何一つ、誰一人として介入することはできません。あなたの行為の責任を他人の肩に背負わせる方法はありませんし、他人の行為の責任をあなたが背負うこともできません。各自が自分の人生の重荷を背負わねばならないのです。そうであってはじめて正直であり、道徳的であり、道義的であり、公正であると言えましょう。

それ以外の教説はすべて卑怯であり、臆病であり、非道徳的であり、不公正です(※)。摂理は完璧なのです」

――提示された話題を、質問者が考えてもみなかった方向へ広く深く敷延していくのがシルバーバーチの特徴の一つであるが、ここでも単なる取り越し苦労の話をキリスト教の贖罪説に結びつけて、これを厳しく断罪している。イエスを信じて洗礼を受ければ全ての罪をイエスが背負ってくれるから安心なさい、という贖罪説は、心配・不安・恐怖といった人間の煩悩をうまく利用した卑怯な教説であることを述べているのであるが、これはキリスト教に限ったことではなく、“ウチの宗教に入信しさえすれば……”といった勧誘方法は、新興宗教のすべてが使う手段で、言うなれば“商売の手口”である。

「広い意味において人間は他のすべての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住み良くするのは、みんなの責任だからです」

おっしゃる通りです。その意味においては、みんなに責任があります。同胞として、お互いがお互いの番人(旧約聖書)であるといえます。なぜなら、人類全体が“霊の糸”によって繋がっており、それが一つに結びつけているからです。

しかし、責任とは本来、自分が得た知識の指し示すところにしたがって人のために援助し、自分を役立て、協力し合うということです。しかるに、知識は一人ひとり異なります。したがって、他人が他人の知識に基づいて行ったことに自分は責任がないことになります。

が、この世は自分一人ではありません。お互いが持ちつ持たれつの生活を営んでおります。すべての生命が混じり合い、融合し合い、調和し合っております。そのすべてが一つの宇宙の中で生きている以上、お互いに影響を与え合っております。

だからこそ知識に大きな責任が伴うのです。知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人より重い責任を取らされます。その行為がいけないことであることを知っているということが罪を増幅するのです。霊的向上の道は容易ではありません。知識の受容力が増したことは、それだけ大きい責任を負う能力を身につけたことであらねばならないのです。

幸と不幸、これはともに大霊の僕です。一方を得ずして他方を得ることはできません。高く登れば登るほど、それだけ低く落ちることもあるということであり、低く落ちるほど、それだけ高く登る可能性があることを意味します。これは理の当然でしょう」

「“恐れ”というのは、人間の本能的要素の一つです。それをなくせと言っても無理だと思うのです。これは自衛のために用意された自然の仕組みです。動物の世界は“恐れ”に満ちております。それがいけないとなると、ではなぜ、それが動物界の基本的要素となっているのかという疑問が出ます」

「なかなかいい質問だと思います。人間は二面性をもつ存在であり、動物時代の名残と、本来の資質である霊性の二つの要素を、地上生活の中で発揮しております。そして、より高く進化していく上で不可欠の“自由意志”を授かっております。それが内部の神性が発揮されていく必須の条件だからです。

このように人間は、その進化の道程において、持てる資質を利己的な目的に使用するか利他的な目的に使用するかの二者択一を、永遠に迫られることになります。これまでにたどってきた進化の道程において植えつけられた肉体的要素に負けてしまえば、生命の根源そのものである霊性の優位を否定していることになります。

恐怖心は大体において動物的先祖から引き継いだものです。そして、わたしが“動物的先祖”という場合は、物的身体が原初から今日に至るまでにたどってきた進化の全側面をさします。しかし、だからといって、やむを得ないこと、ということにはなりません。たしかに自衛本能としての恐怖心もありますが、まったく無意味で筋の通らない、救いようのない恐怖心もあり、それが困難や危険を増幅し、視野を遮ってしまいます。生活の根底であるべき霊的実在に、まったく気づいていないからです」

「動物の場合は、本性そのものが恐怖心を必要としているという意味でしょうか」

「人間は動物よりはるかに高度の意識を発揮していますから、それだけ精神的側面をコントロールできないといけません。が、動物は、人間に飼われているものは例外として、本能的に行動しています。人間には理性があります。そして、高級界からのインスピレーションを受け取り、叡智と知識を活用することによって、暗黒と無知の産物をなくしていく霊的資質をそなえております」

「動物も、進化すると恐怖心を見せなくなります。人間を恐れるのは虐待行為に原因があるのだと思います」

「わたしが今“人間に飼われているものは例外として”と申し上げたのは、そのことがあったからです。人間との接触によって人間的意識をいくらか摂取して個体性をもつようになり、恐怖心を捨てていきます。そこに“愛の力”の働きが見られるのです。人間が愛を発現することによって、その愛が動物から恐怖心を追い出します。人間は、その自由意志によって動物に無用の恐怖心を吹き込むという罪を犯していることを忘れてはなりません。野生動物でさえも、人間の愛によって恐怖心を捨てていくものなのです。そして、現実にライオンと小羊が仲良く寝そべるようになるのです」

「あなたがおっしゃるように、もしも摂理が完璧で、数学的正確さをもって働き、あらゆるものを認知し、誰一人として不公平に扱われることがないようにバランスが取れているとしたら、それはカルマの法則と再生の事実を認めていることになるのでしょうか」

「イエス・ノーの答え方だけで言えば、イエスです」

「ある記事で、きわどい手術をするために医師がその患者の心臓を十五分間ストップさせたという話を読みました。私は、心臓が鼓動をやめたら、その瞬間に霊は身体を離れたはずだと思うのですが……

「霊が身体から離れはじめると心臓が鼓動を止めはじめるのです。ですが、その離脱の過程はふつう、かなりの時間を要します。自然死の場合の話です。その過程の途中で、一時的に鼓動が止まることがあります。単なる生理反応が原因の場合もありますし、機能上の欠陥が原因の場合もあります。いずれにしても、心臓が止まったから霊が逃げ出すのではありません。逆です。霊が引っ込むから心臓の機能が止まるのです」

「建設的な目的にせよ、原子力を使うために核を分裂させなければなりませんが、それは自然界の調和の原理に違反し、人類自身にとっても危険なことではないでしょうか」

「これは非常に難しい問題です。なぜかといえば、それには現在の地上人類に理解できない要素がたくさん含まれているからです。宇宙に調和の原理があり、それを人間が乱すことはできます。が、大自然の摂理の働きを止めたり変えたりすることはできません。わたしが言わんとしているのは、もしも原子核の分裂が不可能だったら、人間が核分裂を起こすことはできなかったということです。

このことに関連して間違いなく言えることは、この核分裂の発見は調和のとれた進化からズレているということです。つまり、まだその時機でなかった――人類の精神的ないし霊的成熟度が十分でなかったということです。もし十分であれば、原子エネルギーの使用にまつわるさまざまな問題は起きないはずです。この、とてつもない発見のおかげで、人類は霊的に受け入れる用意のできていないものを手にしてしまい、それがもとで、大変な危険の可能性を抱えてしまいました。が、各国の命運を握っている指導者たちが、霊的な叡智に目覚めれば解決できるでしょう。というよりは、それしか道はないでしょう」

「私たちは子供の頃から“愛の神”“天にまします父なる神”を信じるよう教えられてきましたが、地上生活を終えた霊が、地上の人間に憑依することが有り得るものなのでしょうか」

「もちろん有り得ますとも」

「愛の神がそれを許すものなのでしょうか」

「大霊とは法則のことです。ある人間的な存在がいて、それはやってよろしい、それはいけません、といった指図をしている図を想像してはなりません。原因と結果の法則で動いている宇宙なのですから、地上と霊界との交信にもちゃんとした原理があります。その原理は“善人にしか使用できません”という規約をもうけるわけにはいかないのです。同じチャンネルを善霊でも悪霊でも使用できるのです。

他界後に地縛霊となってしまうような地上生活を送った場合、それは利己主義や貪欲や強欲が悪いのであって、大霊が悪いのではありません。また、麻薬やアルコールや貪欲がもとで、そういう地縛霊に憑依されるようなことになった場合、それをどうして大霊のせいにできましょう。自分の自由意志でやったことなのですから」

「これからは心霊治療がもっとも重大な分野となるように計画されているのでしょうか」

「迷うことなく“そうです”と申し上げます。これからは、病気に苦しむ人々の治療の分野に霊力を顕現させていく計画が用意されています。病気や障害のために人生がわびしく、陰うつで、絶望的にさえ思えている人々に、霊的な治癒エネルギーが存在することを証明してあげるのです。

霊力――生命力そのものであり、数多くの治療家チャンネルを通して注入される無限のエネルギーは、病気や障害によって痛めつけられ苦しめられている身体に、新たなエネルギーを注ぎ込んで活気づけ、いかに疑り深い人間でも、地上の用語では説明できない力が存在することを認めざるを得なくしてしまいます。皆さんが生きておられる今の時代にぜひ必要だからこそ、そう計画されているのです」

「治療していただくのに、なぜ治療家にお願いしなければならないのでしょうか」

「要請があるまでは対応のしようがないからです。治療に使用するエネルギーは、こちらから呼び入れなくてはならないのです。生命力は宇宙的活動の一環として全宇宙くまなく巡っております。が、その中の一部を一人の患者のために使用するには、知的操作によって、そのエネルギーを誘導しなくてはなりません。したがって、前もってその要請がなくてはなりません」

「要請がなくても、そちらから知的な操作ができるのではありませんか」

「できます。が、治療家という媒体がいないと、それは純粋に霊的次元での操作にとどまることになります。それを地上に顕現させるには、連結体、ないしは通路にあたる媒体がなくてはなりません。たとえば、あなたが奥さんから遠く離れたところにいるとして、奥さんがあなたと連絡を取るにはどうしますか。電話という連絡手段がいるでしょう。それと同じです」

「その要請をなぜ治療家にお願いしなければならないのでしょうか」

「治療家が“焦点”となるのですから、当然そうなります。別の側面から見れば、そもそも霊的治療を要請するということ自体、その患者の魂が霊性に目覚めはじめ、霊的な援助が叶えられることを自覚しはじめたことの兆候なのです。ご存知の通り、霊的治療のそもそもの目的は――わたしたちの仕事はすべてそうなのですが――人間の本性が霊的なものであることに関心を向けさせることにあるのです」

「その覚醒が治癒を呼び寄せるという要因もあるわけですね?」

その通りです。霊性に目覚めはじめた魂は、当然つながりができるべきエネルギーを自動的に引き寄せるのです」

「“求めよ、さらば与えられん”という言葉はそのことを言っているのでしょうか」

「そうですとも。真摯しんしに求めるという行為が、満たされたいという魂の欲求を始動させ、それが、エネルギーが届けられる連鎖反応を起こすのです。祈りが届けられるのです」

「すべての治療家が、たぶん同じ霊的エネルギーを使用しているはずなのに、なぜ治療家によって治り方に差異があるのでしょうか」

「霊力には無限のバリエーションがあります。一人の治療家を通して顕現されるものは、その治療家のもつ肉体的・精神的・霊的資質によって特徴づけられます。気質・霊的進化の程度・性格・人生観――こうした要素が、その人を通過する霊力の質と量とを決定づけるのです。本質的には同じエネルギーですが、真理と同じく、無限の様相を呈するのです」

「患者の態度が治療効果を左右することもありますか」

「もちろんありますとも。霊的治癒力も自然法則の働きにしたがって作用します。その法則が治癒力の強弱を左右することになるのですが、その際に霊と精神と肉体にかかわるさまざまな条件が絡んでまいります。治療家自身だけでなく、患者の条件も絡んでいます。

遠隔治療で患者に知られずに行っても成功した例があることは、わたしもよく知っております。しかし、念のために申し上げておきますが、意識的な自覚はなくても、内奥の魂は自覚しているのです。治療の対象はその魂です。心霊治療はすべて、内部から外部へと働くのです」

「遠隔治療の原理をご説明ねがえませんか」

「目に見えないもの、手で触れることのできないもの、耳に聞こえないものでも実在するものがいくらでもあることが分かってきた現在、霊的放射物が距離に関係なく目標物(患者)へ届けられるのが信じられないというのが、わたしには理解できません。ふだんの肉眼に映じない波長を映像化してくれる器具はいくらでもあります。しかも、それにもきちんとした法則があることも分かっております。

遠隔治療の場合も、確固とした波長、放射物、治癒エネルギー――どう呼ばれてもかまいません――そういうものが使用されており、霊界の専門霊によって治療家を通して患者に注がれるのです」

「自分で自分を治す力は誰にでもあるというのは本当でしょうか」

「潜在的にはみんな持っております。なぜなら、大霊の一部としての霊性を宿しているということは、必然的に生命力ないし原動力を宿していることになるからです。それが機能を正常にします。ですから、それを働かせる方法こつ会得えとくしさえすれば、自分で自分を治すことができるという理屈になります」

「心霊治療によって苦しみが取り除かれます。が、一方では、地上人生の教訓を学ぶには苦しみも大切な要素であると説かれています。そうなると、病気が治るということはそのチャンスを奪うことになり、霊的成長の障害となるという理屈にならないでしょうか」

「大自然の摂理の働きには絶対に干渉できません。宇宙は絶対に狂うことも間違うこともない、無限の知性によって規制されております。これだけは避けて通るわけにはいかないものなのです。そこで、それを知らないがために引き起こしている愚かしい過ちによる余計な苦しみ、無くもがなの苦しみが実に多いのです。たしかに地上生活の目的は霊的成長にありますが、その目的を成就する手段はいくらでもあります。苦しみはその中の一つということでして、それしかないわけではありません」

「治療法にも信仰治療、霊的治療、磁気療法、神癒などと、いろいろあるようですが、どこがどう違うのでしょうか」

「大ざっぱに言って、わたしは二つに分類するのがよいと思います。霊界のエネルギーによるものと地上のエネルギーによるものとの、二種類です。催眠療法、磁気療法、暗示療法、こうしたものは治療家自身によるもので、霊界とは何の関係もありません。それはちょうど、心霊サイキック能力が霊的スピリチュアル能力と違って霊界とは何の関係もないのと同じです。

もう一つの種類は霊界から届けられる治癒エネルギーによるもので、それにもいろいろと治療法があって、それぞれに名称があるようですが、いかなる方法であれ、またいかなる名称であれ、基本的には霊力の作用である点は同じです」

「治癒力を磨くにはどうすればよいのでしょうか」

「我欲を捨て、人のために役立ちたいという心がけで生きることです。霊的能力を開発するための最大の要素は、その“人のために役立ちたい”という欲求です。それは病人だけでなく、同胞すべてに対する愛であり、その愛の中において治癒力が増してまいります」

「治療家が風邪を引いたりインフルエンザにかかったり、その他、いろいろと体調を崩すことがあるのは、なぜでしょうか」

「それは何か摂理に反したことをした、その反応でしょう。治療家も人間です。霊力の道具であるとはいえ、摂理の働きを特別に免れるわけではありません。魔法はありません。摂理は正直に働きます。治療家がそれを犯せば、それなりの結果に直面させられます」

「治療家ですら、自分の病気を治せないことが多いのはなぜでしょうか」

「治療家というのは、大体において霊力の通路にすぎません。霊力の流れを通過させているだけです。治療家でも自分で自分を治せる人はいくらでもいますが、治癒力がその人を通って患者へ流入するというだけの過程では、必ずしもその人自身の病気を治す目的には使用されません。その辺のことは、治療家のタイプによります。

たとえば、治療家が何かの事故で身体機能に障害をきたしたとします。ところが患者の治療には何ら差しつかえがないということがわかった場合、治療家によっては、自分のことはどうでもよいと考えるかも知れません。わたしだったら、そう考えるところです」

「その際、自分は治療家だから、放っといてもちゃんと治してくれるだろうと考えるのは間違いでしょうか」

「“治る”ということは、本来、能動的な作用であって、受動的なものではありません。魂の悟りが原動力となっているものです。真の自我に目覚めるということが重大な要素なのです。目覚める段階までくれば、物的障害を突き破ろうとする欲求が湧いてきます。切望し、希求するその願望を引き出すのが、心霊治療の本来の目的です」

いとしい人に先立たれた人には、死後の再会の楽しみがありますが、この投書の質問者には、そういう人がいないとのことです。こういう場合はどうなりますか」

「大霊の摂理は完璧です。幾十億年にもわたって、一度も誤ることなく、そして絶え間なく働いてまいりました。この広大な宇宙機構の中にあって、何一つ見落されることもなければ、忘れ去られることもありません。その投書をなさった方も例外ではありません。その摂理には埋め合わせというものがあります。地上で欠けていたものは、こちらへ来て補われます。つねに完全なバランスが取れており、摂理どおりに落ち着くのです。霊的機構においては誰一人として忘れ去られることはありません」

「ヨガでは身体機能を自在にコントロールする修行をしますが、あれは霊的発達にとって不可欠のものでしょうか。何か役立つことでもあるのでしょうか」

「まず初めのご質問に対する答えですが、これは不可欠のものではありません。身体を鍛練し、自制心を身につけ、物質に対する精神の影響力を披露する方法であって、それによって心霊的能力を開発することにはなりますが、これをやらないとダメというものではありません。方法なら他にいくらでもあります。なお、はっきり申し上げておきますが、このタイプの鍛練方法は西洋人よりも東洋人に向いております」

「それはまた、なぜでしょうか」

「本性において、東洋人の方が西洋人より瞑想的であり、興味を持ちやすいからです。大気そのものに、そういうものに馴染ませる要素があるのです。昔からその道の達人が根拠としてきた宗教思想があり、それを自然に身につけているのです」

「西洋人にはそれに匹敵する別の鍛練法があるわけでしょうか」

「身体をコントロールする精神力の存在を教える鍛練は、それが結果的に霊性を開発することになるのであれば、何でも結構であると信じます。ただ、呼吸を止めたり、脈拍や血行を変えたりすることができるからといって、それで霊的に立派になったことにはなりません」

「質問が少し大きすぎるかも知れませんが、西洋人にとってはどういうタイプの鍛練をすべきでしょうか」

「精神統一です。一日一回、少しの時間をいて精神を統一し、霊的な力を表面に出す鍛練をすべきだと思います。生活があまりにせわしく、霊的な気分一新をするゆとりがなさすぎます。内側と外側に存在する霊的エネルギーが顕現するのは、精神が穏やかで、受け身的で、控え目になっている時です」

「睡眠状態には、その効果はないのでしょうか」

「霊性の積極的な発達には、効果はありません。睡眠というのは、霊体が肉体から解放されて霊界を訪れ、死後の生活の準備をするために自然が用意してくれた機能です」

「イエスの姿が見えると言いながら死んでいく人がよくいます。最近でも、ローマ法王がイエスの姿を見たと述べておりますが、この“姿”というのは何なのでしょうか。本当にあのイエスなのでしょうか」

「とても興味ぶかい問題です。ですが、言うまでもないことですが、見た、見えた、といっても、それが実際に何であったかの確認はできません。その時の姿が本当にその人であったとはかぎらないからです。そもそも、わたしたち霊の真実の姿を物的形体でお見せすることはできないのですから、したがって映像化してお見せするしかないのです。

たとえば、わたしが霊界で表現している本来の容姿をみなさんに認識していただきたくても、それをお見せする手段がありません。したがって、わたしを視覚に映じる形でお見せすることはできないわけです。同じ意味で、ナザレのイエスが今霊界で顕現しておられるお姿は、地上の手段では表現のしようがありませんから、人間にはお見せできないわけです。そこで、その人間にわかりやすく映像をこしらえて見せることになるわけです。

今日のいかに熱烈なクリスチャンといえども、イエスの現在の本当の姿をお見せしても、まったく意味がありません。イエスさまの姿を見たとおっしゃっても、それはその人が想像しているイエスの姿を見たという意味であり、実体をご覧になったわけではありません。こしらえられた映像を見たわけです。おわかりでしょうか」

「見たと言っている人の思念の投射である場合もあるわけでしょうか」

「その通りです。人間の精神には映像をこしらえる能力がありますから、それが具象化するほど強烈な場合には、そういうことも起こりうるわけです。一つの思念をある一定の次元で保持し続けると、その通りの形体を取るのです。物的形体ではありません。幽質の場合もあれば、霊的な場合もあります。要するに、非物質の世界のいずれかの次元での映像となるわけです」

「死にぎわだから見えやすいということも、原因と考えてよろしいでしょうか」

「そのことに関して二つの事情を忘れてはなりません。一つは、ナザレのイエスが今どういう容姿をしているかを知っている者は、地上には誰一人いないということです。もう一つは、イエスが地上にいた時の容姿についても、誰一人知る者はいないということです。そうなると、これはイエスだと判断する材料は何もないということになります。

たしかに死にぎわには大変な量の心霊的ならびに霊的エネルギーが放出されます。遠くにいる肉親・縁者に姿を見せることができるのも、そのためです。死んだとはいえ、まだ地上的波動の中にいますから、何マイル先であっても、大体の生前の容姿を取ることができるわけです。あくまでも死にぎわにかぎっての話です。イエスの姿が見えたというのも、同じく死にぎわにおける心霊的ならびに霊的エネルギーの放出によって生じる現象です」

「地獄は存在しないと言ってくる霊がいます。そうなると、真っ暗いところとか薄暗い世界というのは何なのでしょうか」

「地獄はあります。ただ、地獄絵などに描かれているものとはかぎらないというまでのことです。未熟な霊が集まっている暗い世界は、もちろん存在します。そこに住んでいる霊にとっては、そこが地獄です。実在の世界です。

考えてもごらんなさい。地上世界を暗黒と悲劇の淵におとしいれた者たち、無益な流血のちまたとしてしまった張本人たち――こういう人たちがこちらへ来て置かれる境遇がどういうものか、大体の想像はつきませんか。

そうした行為の結果として直面させられる世界が天国であろうはずはありません。まさに地獄です。が、バイブルに説かれているような、業火ごうかで焼かれる地獄とは違います。行ったことの邪悪性、非道徳性、利己性を魂が思い知らされるような境遇です。それが地獄です。そこで味わう苦しみは、中世の地獄絵に描かれたものより、はるかに耐え難いものです」

「私たちが他界したあと、それまでの背後はどうなるのでしょうか。私たちが死ぬと同時に用済みとなるのでしょうか」

「あなたとのつながりが、単に地上での仕事のためのものであれば、死によってその仕事も終わったわけですから、その霊とのつながりも終わりとなります。とくに霊媒の支配霊の場合は、その人間の霊的能力を有効に使用することを目的として付き添うわけですから、霊媒の死と同時につながりはなくなります」

「霊媒を通して支配霊とも親しくなった者にとっても、死とともに縁が切れると聞くと、一抹のさみしさを覚えます」

「わたしは、つながりは終わりとなると申し上げているのであって、それは、縁が切れて別れ別れになってしまうという意味ではありません。地上時代のようなつながりは終わりとなるということです」

「さきほどの方は、そういう意味で述べたのだと思います」

「会いたいと思えば会えます」

「死後も特別な関係が続くのでしょうか」

「支配霊と霊媒、という関係にすぎなかった場合は何も残りません。仕事が終わったのですから」

「お互いに会えなくなるという意味ではないのですね?」

「これまでにも何度も申し上げておりますように、この問題に関する答えは、支配霊と霊媒の霊的発達程度の違いによって異なります。意識の程度とインディビジュアリティーに関わる問題でして、これはテーマが大きくなってきます。

あなたがお知りになりたいのは、死後あなたがこのわたしと会えるのか、そして、この霊媒がわたしと会えるのか、ということなのでしょ? もちろん、ここにおいでの皆さんとは再会できるでしょう。が、その時はもう、こうした形でしゃべる必要がないことを期待したいものですね(※)

――死後の目覚めと、その後の霊的成長度は各自まちまちであるから、もしかしたら、面会を要請されても、直接の対面はできないことも有りうることを示唆している。

「交霊会で物理的現象を求めている場合の出席者の態度はどうあるべきでしょうか。その場合でも霊視力とか霊聴力を働かせてもよろしいでしょうか。もしいけないとなると、それは意識的に抑えられるものでしょうか。抑えられるとしたら、その方法を教えてください」

「物理的現象を求めている時に精神的現象を起こそうとすると、障害となります。霊視、霊聴、入神談話といったものは抑えて、あくまでも物理的なものが起きるように、辛抱づよく待っていただかねばなりません」

「そのように意識的に抑制できるものなのでしょうか。そのテクニックを教えていただけませんか」

「難しく考えることはありません。精神的心霊能力をもつ人が、精神状態を受け身的にならないようにすればよろしい。この霊媒(バーバネル)がもし拒絶したら、わたしはコントロールできなくなります。いつも受け身の精神状態になってくれるので、ラクに支配できているのです」

「フリーメーソン(※)の団体に加入することをおすすめになりますか」

――博愛・自由・平等の実現を目指す世界規模の団体。一種の秘密結社で、全容は明らかでない。

「どこかの組合や会派や団体に加入すること自体は何の意義もありません。大切なのは、その人が日常生活で何をするかです。ただし、そういうものに加入することによって、より親切で、より非利己的で、より人のためになる生活を志向することになると思う人は、加入させてあげるがよろしい。

しかし、唯一の、そして厳格な基準は、その人の日常の行為です。為すことのすべてにおいて、責任を負わねばなりません」

「フリーメーソンの教義は、心霊能力の開発にとって有益であるとお考えでしょうか」

「その教義の本当の意味を理解し、他の信者がただの“お題目”と考えているものを霊的開発の糧にすることができれば、それも有益であることになります」

「そういう秘密結社がはびこる風潮は好ましいことでしょうか。真理はすべての者に開かれたものであるべきで、一部の者によって独占されるべきものではないと思うのですが……

「というよりは、そもそも真理とは独占できる性質のものではないのです。無限なるものであり、これで全部です、などと言える性質のものではないからです。そうした活動は、動機さえ正しければ、秘密のうちに行おうと、公然と行おうと、それは関係ありません。何事も動機によって判断しないといけません。大切なのは各自の人生において何を為すかです。

わたしたちがこうして地上世界へ戻って来たのは、宗教というものを実際的な日常のものにするため、と言ってもいいのです。もう、信条だの、形式だの、儀式だのと結びつける時代ではありません。宗教とは人のためになる()行為サービスのことであり、人のために役立つことを志向させるものは、何であってもよいということを、ありとあらゆる手段を講じて主張するものです」

「でも、フリーメーソンでは、そのサービスを会員の者の間だけに限っております」

「そのことも知っております。ですが、少なくとも人のために良いことをしていることは事実であり、それはサービスの第一歩です」

「ある霊視家によると、自殺した者ばかりが集まる場所があるそうですが、本当でしょうか。実際にそこを見てきたと言い、正視できないほど惨めだという話ですが……

「地上生活をみずから中断させた者が集まっている界層が見えたというのは、ある意味では事実かも知れません。同じ意識レベルの者が類をもって集まっているわけですから。

ですが、そこが自殺者の連れて行かれる固定した場所であると考えるのは間違いです。同じく自殺した人でも、動機によって一人一人裁かれ方が違います。一人一人に公正な因果律が働きます。何度も申し上げておりますように、全事情を決定づける要素は“動機”です。それがその人の魂の指標だからです。

宗教的信仰における頑迷さにおいて程度が同じであることから同じ界層に集まっている人たちもいます。その界層へ行けば、そういう人たちばかりがいるわけです。あなたも、あなたの魂の成長度に似合った場所へ行かれます」

「自殺者には互いに引き合う何か共通の要素があるから集まるのではないでしょうか」

「霊的発達の程度が同じだからです。それが死後に置かれる位置を決定づけるのです。霊的にどの程度の魂であるかが、霊界においてどの界層に落ち着くかを決定づけるのです。こちらでは霊性がそのまま現実となって具象化するからです。

自殺者の中にも霊的レベルの同じ者がいますから、そういう者が集まっている界層を霊視家が見たというのは有り得ることだと申し上げたわけです」

一読者からの投書による質問「私たちは精神的生活が死後もそのまま持続されると信じていますが、精神に異常のある人の場合、とくに永いあいだ錯乱状態にあった人はどうなるのでしょうか」

「精神的に異常のある場合は、精神が地上生活の目的である“発現”のチャンスが与えられなかったということであって、破壊されていたわけではありません。損傷を受けることはありますが、秘められている能力そのものは無傷のままです。発現のチャンスが奪われたということです。

そうした人の場合は、知性が幼児の程度のままでこちらへ来ますので、その発育不足を補うための調整が少しずつ行われます。霊にかかわるものには永遠の傷というものはありません。一時的な状態であり、そのうち調整されます」

「身内の者が出現した時、なぜ霊界での趣味とか研究、今つき合っている人、進歩の程度などについて詳しく話してくれないのでしょうか。何人かの名前をあげたり、花の名前を言ったり、そのうち万事うまく行きますよ、とか、いつもそばにいて力になってあげてますよ、といった簡単なセリフしか言いません。私たちが休日に遊びに行った時の楽しい話を手紙で書き送るような調子で、なぜもっといろいろと語ってくれないのでしょうか」

「それはいささか話が違いますね。もしも、地上との交信が休日の体験を手紙に書くような、そんな簡単なものであれば、もっともっと多くの情報が送れるのですが、残念ながら霊媒を通じて語るのは、手紙で書き送るほど単純なものではないのです。

交信が始まった当初は断片的なものしか語れません。そこで、たとえばあなたがほんの一言でも伝えるチャンスが与えられたとしたら、地上に残した人には“大丈夫よ、みんな元気ですよ”と言ってあげたいと思うのではないでしょうか。それは大いなるメッセージです。とくに初めて霊からのメッセージを聞く人にとっては、大いに意義があります。

ただし、霊は断片的なことしか語らないという言いがかりは、このわたしに関しては当らないと思います。初めのころは断片的でしたが、その後、回を重ねて膨大な量の情報を提供してまいりました。それが多くの書物(霊言集)となって残されております」

祈り

ああ、大霊よ。何はさておき、あなたへの感謝の祈りを捧げることから始めさせていただきます。この驚異に満ちた宇宙のすべてに、あなたの神性の刻印が押されているからでございます。あなたの無限なる知性がこの宇宙を創り出されたからでございます。それを動かすのもあなたの無限なる愛であり、それを維持するのもあなたの無限なる叡智だからでございます。

あなたの霊が千変万化の生命の諸相に行きわたり、その一つ一つの活動をあなたの摂理が認知いたしております。あなたの子等が最高度に魂を高揚された次元において行う行為に顕現されるのは、ほかならぬあなたの神性なのでございます。

あなたは子等のすべてに、あなたの神性の種子を植えつけられました。したがって、この地上生活中のみならず、それを終えたあとの霊の世界においても、あなたと子等の間には、切ろうにも切れない絆があるのでございます。

地上に生をうけている者は、いずこにいようと、いかなる地位にあろうと、階級・肌の色・民族・国家の別なく、すべてあなたの生命の一部であり、あなたの摂理によって維持され、あなたの霊性によって結ばれているのでございます。

かくして子等は、永遠にあなたと結びつけられているのであり、忘れ去られることも、無視されることも有り得ないのでございます。あなたの不変・不易の摂理が、愛と叡智の配剤のもとに支えているのでございます。

わたしどもは、子等が霊と精神と身体を存分に機能させることによって、内部にある神性を自覚し、霊的資質を発現し、あなたから譲りうけた遺産を、豊かで光輝にあふれた人生という形でわがものとしてもらうためには、いかに生きれば良いかを教えたいと念願しているところでございます。

人間は、あなたがその物的器官に宿された霊の資質を行使することによって、物質の領域を超えて高次元の世界の存在と交わることができます。その存在も、かつては物的牢獄に閉じ込められていたのを、今はそれを完全に超越して、愛と奉仕の気持ちから地上圏へ戻ってきているのでございます。

物質と霊の二つの世界が手を握り合い、霊力の流入を妨げている障害を取り除くことによってインスピレーションをふんだんに摂取し、これまであまりに永きにわたって、あまりに多くの者が閉じ込められてきた憂うつと暗黒を打ち払い、霊の光輝によって人生を豊かにすることができるようになることでしょう。

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