13章 再生(生まれ変わり)

〔再生は、スピリチュアリズムにおいても異論の多いテーマで、通信を送ってくる霊の間でも意見の食い違いがある。シルバーバーチは再生を全面的に肯定する一人であるが、従来の輪廻転生説のような機械的な生の繰り返しではなく、大きな意識体の別の部分が異なる時に肉体を持って誕生することであると言う。ここでは再生に関する質問にシルバーバーチが答える。〕

――一つの意識が部分に分かれて機能することが可能なのでしょうか。

今の“あなた”という意識とは別に、同じく“あなた”と言える大きな意識体(類魂)があります。そのほんの小さな一部が地球という物質界で発現しているのが、今のあなたなのです。そして、今のあなたの他にも同じ意識体を構成する他の部分が、それぞれの意識層で発現しています。

――個々の部分(霊)は独立しているのでしょうか。

独立はしていません。あなたも他の霊も、一個の「内奥ないおうの霊的実在(類魂)」の側面なのです。つまり全体を構成する一部であり、それぞれがさまざまな表現媒体を通して自我を発現しており、時にその霊同士が一体化することもあります。彼らは自我を発現し始めて間もない頃にはお互いの存在に気がつきませんが、そのうちすべての霊が共通の合流点を見いだして、再び統一されます。

訳注――フレデリック・マイヤースはこの時から十数年前に送ってきた最初の通信『永遠の大道』の中で同じ説を「グループ・ソウル」という呼び方で紹介し、スピリチュアリズム思想に飛躍的発展をもたらした。それからさらに十年後、ちょうど本書(原書)が出た頃に二つ目の通信『個人的存在の彼方』でさらに詳しい解説を施してくれた。シルバーバーチは、別のところで「それはマイヤースの言うグループ・ソウルと同じですか」と問われて、「まったく同じものです」と答えている。なお、このグループ・ソウルを浅野氏は「類魂」と訳した。本書も、この訳語に倣っている。

――こうした霊同士が出会っていながら、それに気づかないことがあるでしょうか。

大きな意識体(類魂)を、一つの大きな円として想像してください。大きな円(類魂)を構成する個々の霊は、その円に対して同心円を描いて回転しています。時おりその霊同士が出会い、お互いが共通の大きな円の中にいることを認識します。最後には個々の霊は回転することをやめ、それぞれの場を得て一体化し、元の円(類魂)が完成します。

――二つの霊が連絡し合うことはできますか。

その必要があればできます。

――二つの霊が同時に地上に誕生することがありますか。

ありません。それは全体の目的に反することだからです。個々の霊の再生の目的は、あらゆる界層での体験を得るということです。同じ界層へもう一度戻るのは、それなりの成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られます。

――類魂では、個々の霊はその進化に自らが責任を負い、他の霊が学んだ教訓による恩恵は受けないというのは本当でしょうか。

その通りです。個々の霊は一つの大きな意識体(類魂)の構成分子であり、さまざまな形態で自我を発現しているわけです。進化するにつれて個々の霊は大きな意識体を自覚するようになります。

訳注――マイヤースは「類魂」の説明の中で他の仲間の体験を自分のものにすることができると述べている。ここでシルバーバーチはそれを否定するかのようなことを述べているが、マイヤースが言及しているのは、地上体験の共有化による霊的成長についてである。それに対し、シルバーバーチがここで述べているのは、個人が犯した罪の償いと霊的成長についての関係である。たとえ同じ類魂の仲間とはいえ、他の霊が地上で犯した罪を代わって償い、霊的成長を促すことはできないという意味に解釈すべきである。

――そして、進化のある一点において、それらの霊が一体となるわけですね?

そうです。無限の時を経てのことですが……

――個々の霊の地上への誕生は一回きり、つまり大きな意識体(類魂)としては再生の概念が当てはまっても、個々の霊には再生はないという考えは正しいでしょうか。

再生は個々の霊の成就すべき目的に関わる問題です。特殊な使命がある場合など、同じ霊が二度も三度も再生することがあります。

――一つの意識体の異なる部分とは、どういうものでしょうか。

これは説明の難しい問題です。あなた方には「生きている」ということの本当の意味が理解できないからです。あなた方にとっての生命とは、実は最も進化の低い形態で顕現しているものなのです。あなた方の考えが及ぶすべてのものを超越している生命の実相を思い描くことはできません。

宗教家が高次の神秘体験をしたと言い、芸術家が最高のインスピレーションに触れたと言い、詩人が恍惚こうこつたる喜悦に浸ったと言っても、私たち霊界の者からすれば、それは実在のかすかな影を見たにすぎません。あなた方は、物質世界の鈍重さによって自己を表現することを制限されているため、生命の実相を理解することができません。それなのにどうして、「意識とは何か、どのようにしたら自分を意識できるようになるのか」といった問いに答えられるでしょうか。

私の苦労を察してください。譬えるものがあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれがなく、あなた方にはせいぜい、光と影、日向ひなたと日陰の比較くらいしかできません。地上界の虹の色は確かに美しいですが、それとて地上人の理解を超えている霊界の色彩と比べることはできません。

――個々の霊の一つひとつを、大きな意識体のさまざまな特性・人間性の側面と考えてもよいでしょうか。

いいえ、それはまったく違います。大きな意識体の別々の側面ではありません。どうもこうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天の青く澄み切った空の美しさを説明するようなもので、譬えることができません。

――あなたの言う大きな意識体は、マイヤースの言う「類魂(グループ・ソウル)」と同じものですか。

まったく同じものです。ただし、単なる個々の霊の集まりとは違い、異なる意識から形成された統一体(大きな意識体)で、その全体の進化のために各自が体験を求めて物質界にやって来るのです。

――それぞれの霊は類魂に戻って一体化すると、個性を失ってしまうのでしょうか。

川の水が大海へ流れ込んだとき、その水の存在は失われてしまうでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏しているとき、バイオリンの音は消えてしまうでしょうか。

――なぜ、霊界サイドから再生の証拠を提供してくれないのでしょうか。

こうした「霊言」という手段では説明のしようがない「再生の問題」についての証拠など、示すことができるでしょうか。あなた方の意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になって初めて、それを認めることができるのです。こちらの世界にも“再生はない”と言う者が大勢いますが、それは彼らが、まだ再生の事実を受け入れることができる意識段階に達していないからです。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに説明することができるでしょうか。芸術家がそのインスピレーションの体験をまったく芸術的センスのない人に説明できるでしょうか。意識の段階が違うのです。

――再生するときは、魂(霊)はそれを知っているのでしょうか。

魂自身は直感的に知っていますが、知的にそれを知っているわけではありません。魂(大霊の分霊)は、永遠の時の流れの中で一歩一歩、徐々に自らを発現させていきます。しかしどの段階であっても、発現されていない部分が大半を占めています。

――では、魂は無意識のまま再生するのでしょうか。

それは、魂の進化の程度によります。多くの魂は再生する前にそれを知っていますが、知らない魂もあります。魂は知っていても知的には意識しないまま再生することもあります。これは生命の神秘中の神秘に触れる問題であり、とうてい地上の言語で説明できるものではありません。

――生命がそのように絶え間なく変化し進歩するものであるなら、生まれ変わりが事実だとしても、どのようにしたら霊界へ行ったとき地上で愛し合っていた人々と会い、地上で約束した再会の喜びを味わうことができるのでしょうか。

愛は必ず成就します。なぜなら愛こそが宇宙最大の力だからです。愛する者同士は常に、愛の絆によって引き寄せられます。愛で結ばれた者たちを引き裂くことは、絶対にできません。

――でも、再生を繰り返せば、互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが……

一致しないのは、あなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念でしょう。宇宙とその法則は大霊によって造られたものであり、大霊の子供であるあなた方がつくったものではありません。賢明な人間は新しい事実を前にすると自分の考えを改めます。自分の思い通りにしようとしても、その事実を変えることはできないことを知っているからです。

――これまで何度も地上生活を体験していることが事実だとすると、もっと進化し、理想的な人間になっているはずだと思うのですが……

物質界にあっても聖人は聖人であり、最下等の人間は最下等の人間なのです。地上だから、霊界だからということで違いが生じるのではありません。要は魂の進化の問題です。

――これからも、これまでのように苦難の道が無限に続くのでしょうか。

そうです。無限に続きます。苦しみや困難という試練を通して内部の大霊(神性)が開発されます。苦難によって神性は試されるのです。金塊がハンマーで砕かれ精錬されて初めてあの輝きを見せるように、内なる神性も苦難の試練を受けて純化され、強化され、洗練されることになります。

――そうなると、死後に天国があるという考えは意味がないのでしょうか。

今日のあなたには天国のように思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。というのは、真の幸福は今より少しでも高いものを目指して不断の努力をするところにあるからです。

――再生するときは前世と同じ国(民族)に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に……

そうとは限りません。さらなる進化のために最適と思われる国や民族を選びます。

――男性か女性かの選択も同じですか。

はい、同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。

――死後、霊界で地上生活の償いをさせられるだけでなく、地上に再生してからも同じ罪を償わなければならないというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのでしょうか。

それは償うとか罰するとかの問題ではなくて、進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているかどうか、魂の教育と向上という一連の鎖を強化する必要があるかどうかということです。必ずしも罪の償いのためではなく、欠けている部分を埋める目的で再生する場合がよくあります。魂を鍛えるためであったり、前世で学べなかった教訓を学ぶために再生する場合もあります。再生は罪の償いのためだけとは限りません。二度も三度も罰せられるというようなことは決してありません。大霊の摂理を知れば、その完璧さに驚かれるはずです。なぜなら摂理を造られた大霊そのものが、完全な存在だからです。

――自分はこれまでに地上生活を何回経験しているかということが、明確に分かる霊がいますか。

います。それを知ることが必要な段階にまで成長すれば、分かるようになります。光に耐えられるようになるまでは光を見ることができないのと同じです。名前をいくつか挙げてもけっこうですが、それでは何の証拠にもなりません。何度も言ってきましたが、再生の事実は「説く」だけで十分です。

私は大霊の摂理について私なりに理解したことを述べているのです。知り得たかぎりの真理を述べているにすぎません。私の語ることに得心がいかない人がいても、それはいっこうにかまいません。ありのままの事実を述べているだけですから、受け入れてもらえなくてもかまいません。私と同じだけの年数を生きたなら、その人もきっと考えが変わることでしょう。

――異論の多い再生の問題を避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼることはいかがでしょうか。

闇の中にいるよりは、光の中にいる方がよいでしょう。無知のままでいるよりは、知識を得た方がよいでしょう。大霊の摂理について知らないよりは、知った方がよいでしょう。何もしないでじっとしているよりは、真実を求めて忍耐強く努力する方がよいでしょう。進歩のために努力し続けることが大切なのです。死後にも生命が存続することを知ったからといって、真理探求の道が終わったわけではありません。自分が大霊の分霊であり、それゆえに何の支障もなく死の関門を通過し、すべてが続いていくことを理解したとき、さらなる探求の歩みが始まります。それが本当の意味での出発なのです。

ホーム

はじめての方へ

関連サイト

サイト内検索

トップ